読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書録K

読んだ本やみた映画

響き合う才能、人生―「蜜蜂と遠雷」

小説

 作者の恩田陸さんは雑誌AERAのインタビューで、作品を生み出すことは列車が駅に止まるようなものだと語っていた。つかの間とどまるが、すぐに次の駅へ向かっていく。直木賞に選出された「蜜蜂と遠雷」は、ターミナル駅のような、ひとつの節目の駅だと話していた。読者にとっても、まさに本書は駅だと思う。ピアニスト、審査員、調律師、裏方のスタッフ、取材者…。ピアノコンクールをとりまく様々な人模様に出会う。そして読後は、どこか新しい線路に向かっていけるような、そんな思いを得る。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

  507ページ。物語は、才気あふれる若手のピアニストが世界から集う「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の予選から本戦までの短い期間を描く。主人公はいずれもピアニストで、経歴やバックグラウンドが異なる4人。養蜂家の父とともに世界を動き回り、ピアノを持たない天衣無縫の異才風間塵(16歳)。神童として名をはせながら、師である母の死去を機に表舞台から遠ざかっていた栄伝亜夜(20歳)、「生活者の音楽」を胸に描く楽器店員の高島明石(28歳)。名門音楽院出身のマサル・アナトール(19歳)。ちなみにこのあたりの情報は帯に書かれている情報です。

 

 この物語が何より素敵だな、と感じたのは、彼らの競い合いというよりも、関わり合いに焦点を当てていることだと思う。もちろんコンクールなので、勝敗がある。相手より良い演奏をしようというのはある。しかし4人はそれ以上に、お互いが放つ音楽に触発され、それぞれが抱える葛藤を乗り越えていく。

 象徴的なのは亜夜。久しぶりのコンクールに立つにあたって、何度も何度も迷いが胸に浮かぶ。しかし、ある演奏が心に火をともす。

 

 弾きたい。かつてのあたしのように。

 かつてのあの歓びを、もう一度弾きたい。

 

 当たり前といえば当たり前だったのだけど、凡人の自分が思い及ばないような天才も、たった一人では立っていられない。才能はまた別の才能に共鳴して、少しずつ花開いていけるんだと思う。

 

 この思いは、亜夜の友人でコンクール中も常にそばにいる奏も語っている。

 この子たちは、自分たちがどんなに恵まれているか分かっているのだろうか。

 自分に音楽の才能が本当にあるのかどうかと悩み、日々長時間の練習をして、それでもミスするかうまく弾けるかと胃の痛い思いをして眠れぬ夜を過ごし、おのれの平凡に打ちのめされながらも音楽から離れることができない無数の音楽家の卵たちの気持ちが?

 僻みっぽい気分になりかけたが、考え直した。

 いや、分からないはずがない。

 人の苦労は比べられない。それは、亜夜のそばにいて知っていたはずだった。

 

 奏のように、4人を見つめる周囲の人々がまた、輝いている。そして4人を輝かせている。奏の支えなしに、亜夜はスポットライトに再び向かって行けただろうか。高島には、送り出してくれる妻満智子がいた。舞台袖には、コンテスタント(出場者)の背中を押してくれるステージマネジャー田久保がいた。

 

 表紙から一枚めくった折り返しの部分に、風間塵の「推薦状」がある。

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は『ギフト』である。(中略)

 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。

 これは才能(ギフト)に限るものでもないのだろうな。生きていくということは、たえず別の人生と出会う、贈られ、受け取るものなんだろう。自分がその人にどう響きを返すのか。ここでもまた、響き合いなんだと感じた。

響き合う才能、人生―「蜜蜂と遠雷」

 作者の恩田陸さんは雑誌AERAのインタビューで、作品を生み出すことは列車が駅に止まるようなものだと語っていた。つかの間とどまるが、すぐに次の駅へ向かっていく。直木賞に選出された「蜜蜂と遠雷」は、ターミナル駅のような、ひとつの節目の駅だと話していた。読者にとっても、まさに本書は駅だと思う。ピアニスト、審査員、調律師、裏方のスタッフ、取材者…。ピアノコンクールをとりまく様々な人模様に出会う。そして読後は、どこか新しい線路に向かっていけるような、そんな思いを得る。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

  507ページ。物語は、才気あふれる若手のピアニストが世界から集う「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の予選から本戦までの短い期間を描く。主人公はいずれもピアニストで、経歴やバックグラウンドが異なる4人。養蜂家の父とともに世界を動き回り、ピアノを持たない天衣無縫の異才風間塵(16歳)。神童として名をはせながら、師である母の死去を機に表舞台から遠ざかっていた栄伝亜夜(20歳)、「生活者の音楽」を胸に描く楽器店員の高島明石(28歳)。名門音楽院出身のマサル・アナトール(19歳)。ちなみにこのあたりの情報は帯に書かれている情報です。

 

 この物語が何より素敵だな、と感じたのは、彼らの競い合いというよりも、関わり合いに焦点を当てていることだと思う。もちろんコンクールなので、勝敗がある。相手より良い演奏をしようというのはある。しかし4人はそれ以上に、お互いが放つ音楽に触発され、それぞれが抱える葛藤を乗り越えていく。

 象徴的なのは亜夜。久しぶりのコンクールに立つにあたって、何度も何度も迷いが胸に浮かぶ。しかし、ある演奏が心に火をともす。

 

 弾きたい。かつてのあたしのように。

 かつてのあの歓びを、もう一度弾きたい。

 

 当たり前といえば当たり前だったのだけど、凡人の自分が思い及ばないような天才も、たった一人では立っていられない。才能はまた別の才能に共鳴して、少しずつ花開いていけるんだと思う。

 

 この思いは、亜夜の友人でコンクール中も常にそばにいる奏も語っている。

 この子たちは、自分たちがどんなに恵まれているか分かっているのだろうか。

 自分に音楽の才能が本当にあるのかどうかと悩み、日々長時間の練習をして、それでもミスするかうまく弾けるかと胃の痛い思いをして眠れぬ夜を過ごし、おのれの平凡に打ちのめされながらも音楽から離れることができない無数の音楽家の卵たちの気持ちが?

 僻みっぽい気分になりかけたが、考え直した。

 いや、分からないはずがない。

 人の苦労は比べられない。それは、亜夜のそばにいて知っていたはずだった。

 

 奏のように、4人を見つめる周囲の人々がまた、輝いている。そして4人を輝かせている。奏の支えなしに、亜夜はスポットライトに再び向かって行けただろうか。高島には、送り出してくれる妻満智子がいた。舞台袖には、コンテスタント(出場者)の背中を押してくれるステージマネジャー田久保がいた。

 

 表紙から一枚めくった折り返しの部分に、風間塵の「推薦状」がある。

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は『ギフト』である。(中略)

 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。

 これは才能(ギフト)に限るものでもないのだろうな。生きていくということは、たえず別の人生と出会う、贈られ、受け取るものなんだろう。自分がその人にどう響きを返すのか。ここでもまた、響き合いなんだと感じた。

黒人という長い長い轍を生きよう―「世界と僕のあいだに」

ノンフィクション

 生きていくということは、過去を積み上げていくことだ。20歳なら20年。たとえ生まれて1日であっても2日であっても、今日まで生きた日数の上に人生がある。その時間の中の、思い出、楽しみ、苦しみ。まるで足跡のように、過去はたしかに消えないものとしてそこにあって、それは自然と、未来への歩みを方向付ける。本書「世界と僕のあいだに」は、黒人の父が、黒人の息子に、過去を、それも息子が生まれる前から連綿と続いた黒人差別、黒人奴隷の「轍」を伝える、長い長い手紙だ。

世界と僕のあいだに

世界と僕のあいだに

 

  アメリカにおいて黒人はかつて、奴隷だった。人種差別を受け、公民権運動の果てにようやく権利を勝ち取った後もなお、不条理を受けてきた。それは、黒人以外の立場から見れば、過去から未来へ紆余曲折をへて伸びる道かもしれないが、当事者にとっては、無数の苦しみの足跡の集合体だ。それを著者タハナシ・コーツは、こんな言葉で表現している。

 「奴隷制」は漠然とした肉の塊ではない。それは具体性を持った、奴隷にされた女性のことだ。彼女の頭脳はお前自身の頭脳と同じように活発に働くし、感情はお前の感情と同じように豊かだ。(中略)

 この女性にとって、奴隷であることは寓話(パラブル)ではない。地獄に落ちることだ。明けない夜だ。そしてその長い夜が、僕たち黒人の歴史の大半を占める。僕たちがこの国で奴隷にされていた年月が、自由になってからの年月より長いことを絶対に忘れてはいけない。二五〇年の間、黒人は鎖につながれるべく生まれてきたことを忘れてはいけない―どの世代の後にも鎖しか知らない世代が続くだけだったんだよ。(P84)

 

 その足跡を見つめたとき、足跡を作ったその足は、まさに自分の足と同じなんだと気付く。「黒人の肉体」が、いまも簡単におとしめられうること、それが紛れもない現実であることを、コーツ氏は指摘する。「黒人の肉体が破壊されやすい」証左は、毎年のように起こる、白人警官による黒人の射殺事件だ。コーツ氏の友人プリンス氏もまた、こうした事件の被害者となり、命を落とした。

 それに、略奪されるのは、プリンスひとりに留まらない。彼に注がれた際限のない愛を考えてほしい。モンテッソーリ法の授業や音楽のレッスンを考えてほしい。彼をフットボールの試合やバスケットボールの大会、リトルリーグへ連れて行くのに使ったガソリンと、すり減ったタイヤを考えてほしい。お泊まりパーティーをアレンジするのに費やした時間を考えてほしい。(中略)交わしたすべての抱擁を、内輪のジョーク・習慣・挨拶・名前・夢のすべてを、その肉と骨の器に注がれた黒人一家の知識と能力のすべてを考えてほしい。そして、その器が奪われ、コンクリートのうえで砕け、その神聖な中身が、彼に注ぎ込まれたすべてが、流れ出して大地へと還ってゆくことを考えてほしい。(P95)

 

 長い手紙で父から子に伝えたかったことは、歴史と自らの過去が地続きであることにとどまらない。大切なのはそこでどう生きるか。それは「この道の上にたって闘うんだ」というメッセージだ。ここで、タイトルの「世界と僕のあいだに」につながっていく。

 僕を世界と隔てていたのは、僕らが生まれつき備えているものなんかじゃなく、僕らにレッテルを貼り、僕らにできる現実の行動より彼らが貼ったレッテルの方がだいじだと信じ込もうとする連中によって加えられる「現実の危害」なんだってね。(P138)

 まぎれもなく、黒人であるからこそ、強いられた足取りだった。ただそれは、「黒人であるから」当然の道ではない。あくまで人種をもって差別をする「現実の危害」が歩ませたものだ。その違いが、世界と僕の「あいだ」にたしかに存在することを、コーツ氏は見抜いている。

 だからこそ、コーツ氏は闘えと鼓舞する。轍は、それが強いられたものであっても、黒人が塗炭の苦しみをへて、生み出したものだ。一方で「現実の危害」を加える「連中」のためでなくていい、あくまで自分のための闘いなんだと説く。

 サモリ、僕は自分たちが連中を止められるとは思っていない。なぜなら、最終的に連中を止めるのは連中自身でなくちゃならないからだ。ただそれでも、僕はお前に闘争するのを求める。お前の祖先の記憶のために闘うんだ。知恵のために闘うんだ。「メッカ」の温もりのために闘うんだ。だけど「ドリーマー」の連中のためには闘うな。連中のためには、願ってやれ。(P172)

 

 黒人を生きる。長い長い轍を受け入れて、歩こう。息子の背中を押す言葉に、勇気をもらえるはずだ。読み終えたとき、自分は「僕ら」なのか「連中」なのか、そして自分にとっての轍はどこから来たものなのか、考えずにはいられない。

痛みはその人のものだ―「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」

ノンフィクション

 傷つくことと、傷つけられることは、どう違うのだろう。それは同じ傷であっても、同じ痛みではない。本書「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」は、誰かから暴力を受けるということが一体何を意味するのか、「暴力を受けた側」の言葉で、それも当人たちの普段通りの言葉で、描き出している。

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

 

  筆者の上間陽子さんは教員であり、大学の研究者として困難を抱えた女性の支援に取り組んできた。彼女が沖縄の風俗業界で働く女性の話を聞き取り、その一部を報告してくれたのが本書だ。上間さんの目線には体温がある。それは冒頭の、暴力とは何かを語る一文に現れる。

 私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。(P6)

 この定義は、暴力を加える側からや、それをどこか安全地帯から見つめる視座から生まれていない。おさえつけられ、なぐられ、泣き叫んでもやまない状況に立たされた、その人にとっての暴力だ。

 

 上間さんが出会った女性は、こうした暴力をいくつも受けている。ただ上間さんは、それを無理やりには引っ張り出さない。被害者の痛みを、被害者の言葉で語ってもらえるように、懸命な姿勢がある。痛みは、ほかのだれでもない、本人のものだからだ。

 亜矢、という望まない妊娠をした女性に付き添って、病院を訪れたシーンが印象的だ。対応した医師は「(亜矢の)お母さんには話せないんですか?」とか「子どもは誰の子どもですか?」「一人目の子どもの父親はだれですか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせる。どれも望まない妊娠をした女性にとって、答えること自体が苦しい。

 そもそも「妊娠すること」は、そのひとの置かれた生活の文脈によって異なる意味をもつ。妊娠を望んでいるならば、それは幸せなことのひとつになるし、妊娠を望んでいないならば、それは苦悩のひとつになる。それでも病院は、妊娠という出来事を媒介にしながら、産める状況にいる女性をよきものとし、産めない状況にいる女性を否定しようとする。(P143)

 筆者の怒りは、同じ瞬間に自分にも向いていく。

 あなたが知っている生活がすべてではないと、その医師の顔をひっぱたいてやりたいとわたしは思った。だがその一方で、自分にも怒っていた。亜矢に関わることを話すのは、亜矢でなくてはいけなかった。自分の顔もひっぱたいてやりたいと思いながら、硬い椅子に座って亜矢を待つ(P143-144)

 一方で、医師とは異なるまなざしで、亜矢に向き合う人もいる。

 看護師は、別室に移動するように亜矢を促して、亜矢を椅子に座らせてから、もう一度手術の同意書を取り出すように話した。それから名前を記入する箇所をマークし、同意書の必要な理由を説明し、メモ帳にカレンダーを書いて、「手術の日まで体調を整えないといけないよ」と亜矢にいった。そして「仕事なに?」「飲み屋」「だったら仕事は休んだほうがいいんだけど」と話した。「ま、休むよ」と亜矢はいって、それから「エイズだったらできない?」と尋ねた。それを聞いた看護師は目を丸くして「はぁ、もう、あんたよ、だったら大変さ、もう」、と亜矢の膝をぴしゃっと叩いた。(P144)

 看護師は、亜矢に向かって語りかけている。看護師にとってどうかではなく、亜矢にとっての不安(エイズだったら手術ができないのか)に向き合っている。そしてそれを社会常識の尺度で断罪はしない。「だったら大変さ、もう」と、心配することからスタートする。

 いま、苦しみを抱える人が読めば、それを言葉にする方法を、そこからわずかな光を見いだす方法を、見つけられる気がする。あるいは苦しむ人がそばにいるのなら、その苦しみにどう接せられるかも、考えられる一冊だ。

音楽海賊一代記―「誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち」

ノンフィクション

 

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち

 

  泥棒、強盗、窃盗犯、盗人。盗む人の呼称は数あれど、別格の格好良さを備える言葉がある。海賊。「著作権を侵害する違法コピー」も、「海賊版」と呼べば、とたんにアナーキーな響きを持つ。

 

 本書はミュージックの音源を発売前に違法に入手し、ネットにリークし、音楽を「CD(あるいはレコード、LP)で買うもの」から「タダで聴くもの」に変化させた音楽海賊の物語だ。

 

 ◎書き手は海賊版ユーザー

 著者が海賊を取り締まる音楽業界の側ではなく、ユーザーの側であることが、本書をドラマチックにしている核心だと思う。スティーヴン・ウィット氏は「僕は海賊版の世代だ」と打ち明ける。1979年生まれ、1997年に大学に入った彼にとって、ネットで手に入るmp3ファイルは当たり前の存在だった。

 数年前のある日、ものすごい数の曲をブラウジングしていた時、急に根本的な疑問が浮かんだ。ってか、この音楽ってみんなどこから来てるんだ? 僕は答えを知らなかった。答えを探すうち、だれもそれを知らないことに気づいた。(P10)

 この素朴な疑問からスタートするからこそ、取材は「流出元」の最深部に迫る。そしてそれをレポートするにあたって、流出元を「犯人」とするような書き方をしていない。3人の主人公を設定しての群像劇という形で、「誰が音楽をタダにした」かを重層的に描いてみせた。

 

 3人の1人は、mp3の生みの親である技術者。そもそも音楽を電子ファイルとしてやり取りできる規格、CDから解放するテクノロジーがなければ、音楽は無料にはならなかった。

 そして、ウィット氏が取材に成功した、最大のリーク元。それは序盤で明かされるが、なんと米国のあるCD工場の労働者だった。

 そして最後が、リークされる側である音楽業界の敏腕ディレクター。ネットでやり取りされるヒットソング、特にラップの世界を大衆化させた人物だ。

 

◎誰が一番トクをしたか?

 帯に「まるでスリラー小説のように読ませる」(テレグラフ)とあるように、ノンフィクションというよりも小説に近い読み味。一番の醍醐味は、CD工場従業員グローバー氏が、どうやって、また、なぜ、「音楽海賊」になったのか。

 この「一代記」がスピーディーなのが、今日的だ。音楽がネットにあふれたのは、2017年現在から見てもまだ20年ほどの間の出来事。テクノロジーを語る上でよく言うように、その20年は指数関数的な変化だった。

 「主人公3人のうち、誰が一番トクをしたか」を設問として頭に置きながら読み進めると面白いと思う。グローバー氏が利益を得たのか。「ぶっ潰された」ディレクター・モリス氏が一番損をしたのだろうか。漫画ワンピースであれば、音楽海賊=グローバー氏の栄光だろう。本書は果たしてどうであろうか。

 

◎技術者=ゴールドロジャー

 主人公3人のうち、ワンピースに置き換えると、グローバー氏はルフィ、モリス氏はさしずめ海軍のサカズキ(赤犬)だろうか。この構図は分かりやすい。では、mp3の生みの親・ブランデンブルク氏は?ベガパンク?

 最も近いのは、大海賊時代の幕開けを告げた伝説の海賊ゴールドロジャーだというのが読了後の思い。mp3はリークのために開発された技術ではないし、ブランデンブルク氏は音楽海賊ではない。でも、ブランデンブルク氏がmp3という技術を信じ、確立させなければ、誰も音楽海賊にはなれなかったはずだ。テクノロジー誕生の舞台裏、一代記の「前日譚」も、非常に読み応えがある。

 

 実はmp3は、mp2という技術と次世代のオーディオ規格を争っていた。「3」は「2」に比べて圧縮スピードはやや劣るものの、音質ははるかに改善されていた。ただ当時、mp2の方が資金力のある企業の支援があり、知名度があった。その結果、mp3は規格競争に7戦0勝、全敗した。

 ここでブランデンブルク氏がmp3を捨てず、守り続け、後にシェアウェアとしてネットで開放したことで大逆転に至る。同時に、音楽のあり方が変わった。

  予想に反して、mp3は12分の1のサイズでCDの音をほぼ完璧に再現した。アダーは言葉を失った。驚異的な技術だった。アルバムがたった40メガバイトに収まるなんて! 未来の計画なんて忘れていい。今ここでデジタルジュークボックスが実現できる!

 「自分がなにをやってのけたのか、わかってる?」最初のミーティングのあとにアダーはブランデンブルクに聞いた。「音楽産業を殺したんだよ!」

 ブランデンブルクはそう思っていなかった。mp3は音楽産業にぴったりだと思っていたのだ。(P78)

  ブランデンブルク氏の言うとおり、デジタル化の技術は音楽を聴くのにぴったりで、アイチューンもスポティファイも、その延長にある。ただ、同時に、グローバー氏のような海賊に、大海原を開きもしたのだった。

化け物の姿をした人か、人の姿をした化け物か―「よるのばけもの」

小説

 

よるのばけもの

よるのばけもの

 

 夜になると、僕は化け物になる。

 ネタバレではない。書き出しである。『君の膵臓をたべたい』で泣かされた住野よるさんの作品を水平展開。最新作「よるのばけもの」を手に取った。週刊文春の書評で彩瀬まるさんが取り上げていたのも、興味を持ったきっかけ。

 

 主人公の男子中学生は文字通り化け物になる。黒色の粒子に覆われた体表に、六つの足を持ち、八つの目玉を光らせ、四本の尻尾を操る。表紙の絵の通り、イメージは「東京喰種」の隻眼の梟のような感じだ。

 何かのメタファーか、錯覚のたぐいなのかと思ったら割と序盤に否定される。不注意で踏みつぶした犬小屋が、翌日もぺしゃんこになったままだったそうである。

 こう書いていくとSFだったりミステリーだったりと思うが、違う。カフカの「変身」ともまた違う。端的に言えば、これは「いじめ」を扱った物語だ。

(割と思い切って書いてしまうのは、彩瀬まるさんもこの点は明確にしていたからです。言い訳ですが)

 

 「僕」が夜の学校で出会った「ひとりぼっちの女の子」は、すなわち彼の通う学校でいじめにあっている矢野さつきである。女の子は昼休みを十分に味わえない代わりに、夜間に再び教室に入り込んで「夜休み」を楽しむ。夜休み中に主人公が闖入してしまった形になり、そこから不思議な交流が始まる。物語はいじめが進行する「昼」とこの「夜休み」をいったりきたりして進んでいく。

 

 いじめとはなんだろう。矢野さつきが昼を過ごす教室には、3種類の人間がいると主人公は説明する。

 一つ目は、これ見よがしに害を与え、それを面白がっているもの。(中略)

 二つ目は、敵意を明確にしてはいるが控えめで矢野が近づいて来た時にそれを表したり、地味に嫌がらせだけをしたりするもの。(中略)

 三つ目は、矢野が悪いとは思っているけれど特に行動は起こさず無視だけを決め込んでいるもの(中略)

 

 「矢野が悪いとは思って」の理由がなんなのかは本書を読んでもらうとして、これは「いじめを傍観するのもいじめだ」という正論をいいたいのではなく、いじめが起きた教室に描き出されるグラデーションを率直に描写したものだと感じた。すなわちいじめは関係性なんだと思う。害を与えること、たまに嫌がらせをすること、無視すること以上に、「そういうことをされてもいい人間」を設定した上で人間関係の生態系をくみ上げていくことが、いじめの本質なんじゃないか。

 グラデーションは濃淡がかわりゆく。昨日まで無視をしていた人間が、一足飛びに害を加えても、それは紺色が青色に変わったようなもの。変わらないのは、関係性の根本にある、いじめられる誰かだ。

 

 「昼休み」はこの「世界」の上にしか成り立たないが、「夜休み」は違う。化け物の「僕」は、矢野とまた違った形で関係性を結ぶ必要に迫られる。そしてその先に生まれるのは、「昼」と「夜」のギャップ。昼が夜に、夜が昼に、影響を及ぼしていく。

 

 僕は夜になると化け物になる。しかし序盤で矢野は、僕にこんな言葉をぶつける。

 

「そっちが本、当の姿、なの?」

「……え?」

「どうし、て、人間に、化けて、るの?」

 

 昼は人間、夜は化け物。でも「いじめられる」側から見れば、「昼の人間」はいじめを前提にした関係にあり、「夜の化け物」はいじめとは無縁の関係でいれる。「いじめる側」に逆転させよう。昼の人間の自分はいじめに荷担し、化け物の自分は彼女をいじめてはいない。昼より夜の方が化け物だと、本当に言えるんだろうか??いじめの関係性をためらいなく作り、維持していく自分は、人の皮をかぶった化け物ではないとなぜ言えるんだろうか??

 

 はざまを転がりながら「僕」がどこに行き着くのか。夜はどう推移し、昼はどう変わるのか。ぜひ見届けていただきたい。

 面白ければぜひ「君の膵臓をたべたい」も。レビューはこちら(※ネタバレはほぼほぼありません)

 

dokushok.hatenablog.com

 

被害者が責められる犯罪―「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」

ノンフィクション

 

  大切な人の命を奪われた。取り返しのつかない怪我を負わされた。空き巣に入られて家財道具を盗まれた。そのとき、周囲の人々や、もっとひろく社会は、被害者になったその人をいたわるだろう。つらかったね、と。一方で、「あなたが悪かったかもしれない」というまなざしを向けられる犯罪被害が存在する。それがレイプ(強姦、強制わいせつ、性的暴力)だ。

 ジャーナリストのジョン・クラカワー氏がレポートした本書「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」(菅野楽章氏訳、亜紀書房)は、レイプ被害者が二重にも三重にも傷付けられ、レイピスト(加害者)がいかに裁かれないかを、緻密な取材の積み重ねで明らかにしてみせる。本文は約500ページ。しかしそのほぼ全てが被害者へのインタビューや陪審裁判の様子などの具体的な事実で構成され、思わず次を読ませる内容だ。

 

◎加害者への甘さ=「女の子の落胆」扱い

 タイトルのミズーラは米モンタナ州にある都市の名前で、クラカワー氏はこの街にある名門大学で起きたレイプ事件を取り上げている。むしろ、その事件のみを虫の目で丹念に調べていくことで、日本にも通じる「レイプと社会」の問題をあぶり出す。

 加害者への甘さへつながる大前提に、レイプの実態と社会認識のずれがある。夜道や人けのない場所で、突然、見知らぬ人間に襲われることがレイプの典型的なイメージだろう。しかし、実際は被害の8割以上が顔見知りの犯行だという。このずれから生まれてくるのは、友人や親族からの被害を訴えた女性/男性への、「嘘つき」「誤解だ」という反応だ。実際、強姦罪での訴追を渋った検察官は、こう語る。

 パブストはこう言い放った。「陪審員のみなさん、この事件の本質はレイプではなく、一人の女の子の落胆なのです」。大きな期待を抱いていた性行為がうまくいかなかったことへの失望が、ミズーラのレイプスキャンダルという「迫りくる嵐」によってレイプ被害の告訴というかたちに変わった、というのがパブストの主張だった。(P334)

 レイプが法律上、重罪にされていないわけではない。その審理にたどり着く前に、人々の「常識」が、加害者の無罪放免を許している。著者はそれを「掟の門前に門番が立っている」と看破した。

 

◎被害者=終わらない自己否定

 加害者を守る地域や社会の実相が解き明かされるのと並行して、レイプ被害者の深い痛みが伝えられる。どれだけレイプへの知識がなくても(自分もだ)、そのつらさがなんたるかは必ず胸に迫ってくる。

 ある被害女性は、加害男性が自殺しようと橋から飛び降りる夢を見る。

 「(加害男性を助けようと)彼のところまで泳いでいって、岸に引っ張っていこうとしていたら、突然彼が目を覚ましました。あの表情で」(中略)「わたしのほうを見て笑ってるんです。それでわたしは、彼は溺れてなんかいなかった、自殺するために橋から飛び降りたわけじゃなかった、と気づきました。ボーはわたしをつかんで、水中に押し込んで、溺れさせようとしてきました」。そこで(人名略)は目を覚まし、恐怖に怯えたという。「(中略)まだボーを―幼馴染みを―を信じたいという思いがあって、その現実と格闘していたんだと思います」(P242)

 顔見知りからのレイプは、身体への侵略にとどまらず、培ってきた信頼をすべて破壊する行為でもある。それに加えて、周りは「女の子の落胆」という目でも見てくるのだ。「私が悪いの?」「彼を信じればいいの?」。でも、そんなの無理でしょう、と読んでいて叫びたくなる。なんで「傷付けられた側」にさらなる努力を求めるの??

 絶えず繰り返す自己否定と、「人を信じること」を失い、取り戻すのが困難であることこそ、レイプが「魂の殺人」と呼ばれる理由だと感じた。

 

 ◎アメリカでこうなら、日本は?

 衝撃を受けたのは、「アメリカでこうなの?」ということ。読む前のイメージで、性犯罪への「厳格さ」は、少なくとも日本よりも持っている国だと思っていた。

 実際、日本にはない進歩的な側面は本書でも描かれている。たとえば、舞台になった学校では、一般の刑事裁判とは別の「大学裁判所」が存在し、独自にレイプ加害に対して「大学からの除籍」などの制裁を課すことができる。しかも、刑事的な犯罪認定とは異なる「証拠の優越」という基準を採用していて、実際にレイプ被害があったとみてしかるべき証拠があれば、加害行為の立証は十分となる。(いわずもがなだが、刑事罰ではなく大学としての処分なので、証拠の優越という判断基準が採用できている。刑事罰もこうしたらいいかは別問題)。

 また、地元紙「ミズーリアン」の存在感も大きい。レイピストが在籍する大学は名門であり、わけても彼らが所属するアメフト部は「地域の誇り」だ。しかしミズーリアンは臆せず、被害者の話を丹念に聞き取り、被害者の側に立って報道する。

 それでも、なのだ。それでも加害者は許され、被害者は責められる。だとすれば、日本のレイプ被害者はどれほど苦しんでいるだろうか。恐ろしくなった。