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読書録K

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

狂っていく最中に狂っているとは気付けない―「成功者K」

 芥川賞を獲得した男性小説家Kは一夜にして「成功者」となった―。本書「成功者K」のあらすじだけを見ると、著者羽田圭介さんの私小説に思えて仕方がない。これが作品の最大のスパイスになっている。Kは成功を機に、ファンの女の子をとっかえひっかえにして情事を繰り返し、テレビ出演にも積極的になり、高級車を乗り回す。これは現実のデフォルメなのか、完全な作り話なのか、羽田さんが書くからこそ、幻惑される。

成功者K

成功者K

 

  帯で又吉直樹さんが書いているように、主題である「マスメディア」の怪物っぷり、その背に乗って操っているようで、実際は手のひらで踊らされてるKの翻弄ぶりが楽しみの一つではある。自分がそれ以上にぐっと来たのは、「ああ、こうやって人は変わっちゃうもんなんだなあ」という恐怖だった。

 

 小説家Kは「成功者K」になった後で、傍目に見て態度や性格が変質していく。その変化は、最初はごくちっぽけなことだ。たとえば、鳴かず飛ばずの時代から交際していた彼女との休暇にのんびり旅行に行くかどうかをめぐって。

 (ブログ主注:テレビのロケ番組は)スタッフたちが面倒くさい手続きを経て用意してくれた行路を、ただ身一つで行くだけで特別な体験ができたし、おまけに出演料までもらえた。仕事で、旅をした。

 するとKの中で台湾や四国やバリで羽を伸ばすことが、あまり魅力的に感じられないように思えた。宿泊先やグルメも、金を払ったぶんだけの楽しみしか享受できず、たとえ金を積んだとしても特別な場所には入れない。(P57)

 彼女の立場からみれば「仕事の旅行と、大切な人との旅行を並列で比較するのがそもそもおかしくない?」と思う。しかし、成功者になったKには、彼女との旅行にそそられないのが「自然」になってしまっている。自分がたどりついた「成功者」の目線で考えれば、それが一番合理的で、納得できる答えに見えてしまう。

 凡人である自分からするとKはこんな調子を繰り返して、徐々に徐々に、尊大になっていく。川の流れからほんの少しそれて流れ出した支流が、いつのまにか本流を越す強い流れになってしまうように、「成功者K」がKその人になっていく。

 成功者Kは、芥川賞を手にしてからさらに多くを手にしていくような感覚を持っている。都合よく情欲を満たせる女性ができた。それも何人も。テレビ出演のギャラ交渉を覚え、出演料をつり上げる方法を覚えた。バラエティーでの立ち振る舞いも分かり、仕事はさらに仕事を呼んでいく。それが昔のKからすれば「おかしい」状態だとは思いもしない。「おかしさ」すらも成長に感じてしまう。

 そしてKは、最近度々、先輩作家たちからのそういった依頼や文庫本解説等、断りまくっていることを振り返る。先輩や、お世話になった人たちからの頼みを断るなど、昔の自分だったら考えられない行動だが、忙しいのだから仕方ないとKは思う。しかし、それらを断る際、妙な快楽が付帯していたことも、否定できなかった。まるで自分にはそういう行いをする力が備わったとでもいうように。否、むしろ、昔からそういった力を自分は有していたような気さえKにはした。(P88)

 

 人は狂っていくまさにその最中に、自分が「狂っている」とは気付けない。それが物語を読んでいて、一番恐ろしいと思ったことだ。何度も、何度も「K、気付くんだ」「いまならまだ立ち止まれるぞ!」と言いたくなった。

 Kはいったい、どこで狂気を止められるのか、それとも止められないのか。それがストーリーの核心でもあるので言及は控えるが、ラストはなんというか、読者が羽田さんの手で踊らされたなというか、なんだこれは!?というものだった。

 

 余談になるけど、狂っていく自分をどうやって立ち止まらせられるのかを考えたときに、ネットで拝見した過労自殺がテーマの漫画が頭に浮かんだ。

cakes.mu

 成功も一種の麻薬だけれど、過労も狂気の一本道の別形態なんだろう。それもさらにおそろしい、命の危険がある道。漫画の作者汐街コナさんは、戻れなくなる前に「考えられるうちに立ち止まろう」と呼び掛ける。大切なメッセージだ。

トランプを生んだ「絶望の吹きだまり」―「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」

 トランプ氏が、どうして米大統領になれたのか。その背景に「ラストベルト」(錆び付いた地帯)と呼ばれる衰退した工業地帯がある。黒人やヒスパニック系移民が、米社会のマイノリティかと思っていたが、ラストベルトの白人労働者こそ鬱屈した閉塞感を抱えていて、それをすくい上げたのがトランプ氏だった。その「声なき声」の正体を垣間見させてくれるのが、本書「ヒルビリー・エレジー」だ。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

◎行き場のない苦しさが生む他責

 ヒルビリーは「田舎者」、エレジーは「哀歌」を意味する。著者のJ.D.ヴァンス氏はラストベルトに位置するオハイオ州の鉄鋼業の町で育った。一家の出身はアパラチア山脈に近いケンタッキー州東部で、自らも家族も、ヒルビリー的生活を送ってきた。

 そのため本書は取材によるノンフィクションより、メモワール(回想録)に近い。だがヴァンス氏は紆余曲折を経て大学で学び、弁護士になった方で、社会学的分析を随所に織り込んでいる。当事者であり観察者という絶妙な立ち位置から、ヒルビリーの悲しみ、苦しみ、やりきれなさを描いていく。

 冒頭、タイル会社に勤めていた際の同僚、ボブが登場する。ボブにはガールフレンドがいて、妊娠もしている。しかし欠勤常習者で、トイレ休憩を30分も1時間も取るために、当然ながら解雇されてしまう。著者は思う。

 タイル会社の倉庫で私が目にした問題は、マクロ経済の動向や国家の政策の問題よりも、はるかに根が深い。あまりにも多くの若者が、重労働から逃れようとしている。良い仕事であっても、長続きしない。支えるべき結婚相手がいたり、子どもができたり、働くべき理由がある若者であっても、条件のよい健康保険付きの仕事を簡単に捨ててしまう。

 さらに問題なのは、そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考えている点だ。つまり、自分の人生なのに、自分ではどうにもならないと考え、なんでも他人のせいにしようとする。そうした姿勢は、現在のアメリカの経済的展望とは別個の問題だといえる。(P15)

 

 また、こんなこともあった。

 私はミドルタウンのバーで会った古い知り合いから、早起きするのがつらいから、最近仕事を辞めたと聞かされたことがある。その後、彼がフェイスブックに「オバマ・エコノミー」への不満と、自分の人生へのその影響について投稿したのを目にした。(P304)

 こうした投げやりで他責的な態度の源泉は、ラストベルトの、ヒルビリーの、出口のない苦しみだと著者は指摘する。やり場のないつらさの上に「自分が悪い」と思うのは難しい。誰かを責めずにはいられない。では、その苦しみとは何なのか。

 

◎いいターミネーターと悪いターミネーター

 著者の人生を振り返る形で浮かび上がってくる苦しみの大半は、家庭とコミュニティに起因する。母親は離婚と新しいパートナーとの交際を繰り返し、家は喧嘩の怒号が飛び交う。薬物中毒にも陥っている。今日暮らしている男の家を、明日には追い出されるかもしれない。不安定な母親の感情の矛先がいつ自分に向くかは分からない。

 望まない妊娠、進学を諦める、パートナーをとっかえひっかえ、子どものネグレクトや虐待。それは著者の住むコミュニティにありふれていた。安定した仕事のない中で、平穏な生活を送ることはどれだけ可能なんだろうと思わされる状況だ。

 著者が幸いだったのは、頼れる祖母の存在だった。口は悪いが、母親といられないときに逃げ場になってくれた。ヒルビリーの生活を抜け出すには、とにかく勉強することだと言ってくれた。「お前はできる」「自慢の孫だ」と褒めることやめなかった。

 荒れ狂う日常をなんとかくぐり抜け、著者は高校卒業後、海兵隊に入り、大学への進学。人生の針路を明るい方に進めることができた。海兵隊の給与で家族に食事をごちそうできたとき、著者はこんな風に感じた。

 それまでの人生、私はずっと、最悪の時期に感じる恐ろしさと、最高の時期に感じる安心感・安定感のあいだを行ったり来たりしていた。悪いターミネーターに追い掛け回されているか、いいターミネーターに守られているかのどちらかなのだ。

 しかし、自分自身に力があるという感覚は持ったことがなかった。(P264)

 

 ヒルビリーの子どもたちは、絶えず自分は無力だと思い知らされて過ごす。そうして行き着くのは、「自分の人生は自分ではどうにもできない」という感覚だ。これを「学習性無力感」と呼ぶ。望んでいないのにすり込まれた無力感をはさめば、トランプ氏は「いいターミネーター」に見えたのかもしれない。ターミネーターに人生を委ねる限り、無力感が消えないとしても。

 

◎足りない「社会関係資本

 学習性無力感を解消すること、またはそれを抱えて人生を好転させることは極めて難しい。著者にとっての祖母のような存在がいれば、まだ光がある。

 著者は弁護士になるために通った名門イェール大学ロースクールで、ハイソサエティの人々はこの「光」をあまりに多く持っていることを知る。お金や不動産に限らず、自分を支えてくれる身近な人、そこから得られる学びや肯定感もまた、重大な資本だと。それは「社会関係資本」と呼ばれ、ヒルビリーは圧倒的に足りていない。それをごく分かりやすく、次のように記している。

 社会関係資本はつねに、身の回りにある。うまく使えれば、成功につながる。うまく使えなければ、人生というレースを、大きなハンデを抱えたまま走ることになるだろう。

 私のような境遇で育った子どもたちにとって、これは大きな問題だ。

 以下に、イェールのロースクールに入学した時点で、私が知らなかったことを列挙してみよう。

 ・仕事の面接に行くときは、スーツを着る必要がある。(中略)

 ・テーブルの上のバターナイフは、たんなる飾りではない(とはいえ、バターナイフを使うより、スプーンや人さし指を使ったほうが、万事うまくいく)

 ・合成皮革と本革は、ちがう素材である。(P344-345)

 

 著者は、ヒルビリーの抱えるものを「絶望の吹きだまり」と表現する。経済的衰退だけでなく、学習性無力感も、社会的資本の不足も、そこに澱のように重なっていく。一つ一つ乗り越えるには、あまりに多くのものが溜まりすぎてしまったのかもしれない。トランプ大統領がこの吹きだまりを崩すのか、さらに絶望を放り投げるのかは、まだ分からない。

ポケモン化するメディア、その見取り図―「ネットメディア覇権戦争」

 情報を伝える・受け取るための「メディア」は、まるで一つの生態系をつくっている。NHKの速報テレビニュースや新聞各社のネット速報が発信されると、「ヤフーニュース」「ライブドアニュース」のトップトピックスにも表示され、新興メディア「バズフィード」が各社の情報を整理して、一覧化する。カエルにはカエルの、水草には水草生存戦略があるように、それぞれのメディアが情報の「森」で果たす役割はどんどん多様化している。本書「ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか」は、拡大する情報アマゾンの見取り図を示してくれた。

ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか (光文社新書)

ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか (光文社新書)

 

 

◎「ニュースは連続ドラマ」に目を付けたLINE 

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 元徳島新聞記者の著者・藤代裕之さんは、ヤフー、LINE、スマートニュース、日本経済新聞(電子版)、ニューズピックスの各ネットメディアを取り上げ、それぞれの誕生と成長の過程、課題を挙げていく。「こんな思いで始めたんだ」や「ふむふむ、こういう戦略ね」という驚きが随所にある中で、特に印象に残ったのはLINEニュースだった。

 LINEは「続報中」というコーナーを設け、連日話題になっているニュースを時系列で表示している。根底にあるのが「ニュースは連続ドラマだ」という意識だ。担当の島村武志役員は次のように語る。

 「記事は読者がある程度流れを知っている前提で書かれているが、毎日見ているとは限らない。初めて見た人が、第5話までドラマが進んでいたら分からないのと同じ。そこを解決できるよう工夫した」(P88)

 そもそも新聞やテレビを普段見ない人は、ニュースの発端である「初報」をみのがしているケースが少なくない。言われてみれば当たり前の話だが、マスメディアは依然として「続報スタイル」での発信を続けている。かゆいところに手が届くからこそ、LINEニュースは「読まれるメディア」に進化を続けているのだろう。

 

◎ヤフーはメディア?プラットフォーム?

 ネットメディアを見る上で、プラットフォームとメディアが解け合っているという認識の大切さを著者は指摘している。たとえば、ヤフーニュース。これまで朝日新聞など大手新聞社・通信社のニュースを一覧化した「掲示板」だった。しかし今はブロガーが発信する「ヤフー個人」もあり、独自の編集部が戦後企画なども発信する。では、ヤフーはメディアなのか?

 ここで、「ステルスニュース」の問題が立ち上がる。

 (ヤフーのある役員は)長野県軽井沢の別荘を貸し借りできるサービスが、観光庁から旅館業法上の問題があるとして中止になったと紹介し、日本政府の規制を批判した。(中略)記事だけ読めば、政府の規制が新たなビジネスの拡大を妨げているように見える。(中略)だが、実はここで紹介されているサービスというのは、ヤフーの別の執行役員が始めたものだった。要するに、関係性を隠して自社の利益誘導を図る「ステルスニュース」だったのだ。(P76)

 プラットフォームは「メディアの情報を整理しているだけ」だからこそ、その情報の信憑性や倫理性はメディアの責任だった。誤報や悪意ある報道があればメディアが批判され、プラットフォームは「中立的」、ユーザーの目線からすればなんとなく「公平」にも映ってきた。だがメディア化するプラットフォームは、その責任を負わなければいけない。その覚悟があるかを、著者は問い掛ける。

 

◎猫とジャーナリズム

 読み終えてきて、ネットの戦国時代的な覇権争いは、ポケモンのバージョンアップのようだな、と思う。「赤・緑」の時代は、なんだかんだミュウツーをスタメンに起用するのが当然だった。それが、ポケモンの種類が増え、属性が増え、アイテム制が始まり・・・。ルールが変わるごとに「使える」ポケモンは変わってきた。

 もうマスメディアが情報を独占する強者でいられる時代ではない。では、いまメディアが直面するバトルの法則はなにか。強烈に伝わってきた言葉が、「猫とジャーナリズム」だった。

 かわいい猫動画と、硬派な事件ルポ、どちらがネット世界でページビューを集めるか。圧倒的に猫なのが現実だ。でも、ジャーナリズムの本懐はどこにあるだろう。ニューズが猫だけになれば、誰が社会で困難に直面する人に思いをはせられるだろう。

 注意したいのは、だからといって「猫かジャーナリズムか」ではない。その対立に意味はなく、とにかく猫はみんな大好きだ。注目を集めればその質を問わないという点では、米大統領選挙で飛び交ったフェイクニュースも、「イスラム国」(IS)が発信する処刑映像も、猫だろう。それに対抗するには、猫に学んだジャーナリズムが必要になる。

 ネットのニュースや情報を適切なものにしていくためには、優秀な研究者やエンジニアとジャーナリストの協力が必要だ。さらに、ビジネス、法的な課題に対してもアプローチしていく必要がある。(P261)

 メディアのこれまで、今、これから。藤代氏の丹念な取材は、そこを繫ぐ道をとっても見やすくしてくれた。

ひとり飯も悪くないと思える小説4選

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

 小説の食事シーンの中には、かぐわしい匂いや料理の色合いまで鮮明に浮かぶような、思わず「食べたい」一コマがある。「何を食べるかより、誰と食べるか」とは言うものの、ひとり飯も悪くない。そう思えるような作品を挙げてみました(一部、既に譲渡などして手元になく、うろ覚えも含む)

 

①「BAR追分」(伊吹有喜、ハルキ文庫)

BAR追分 (ハルキ文庫)

BAR追分 (ハルキ文庫)

 

  小説版「深夜食堂」ともいえるような空気感。夜はバー、昼はバールのお店を舞台に、人生に立ち止まる人と、そこで出される一品が描かれる。印象に残っているのは、あたたかなスープと男性の話。新しい一歩を踏み出すにあたって、そのスープのぬくもりを思い出す様子に、ひとり飯は、ある意味「自分だけの味」で、ひっそりと背中を押してくれるものなんだなと思わされる。

 

②「アグルーカの行方」(角幡唯介集英社文庫

  北極で壮絶な最期を遂げたフランクリン隊の足取りを、著者が実際に追っていくノンフィクション。雪原の行軍はすさまじいカロリーを消費し、栄養食(チョコレートなどだったと記憶している)を喰らう姿は、読者も極限状態のその場所に連れて行ってくれる。飯はそもそも「生きるために食べる」、その当たり前がひとり飯の味をも押し上げてくれる気もする。

 

③しゃぼん玉(乃南アサ新潮文庫

しゃぼん玉 (新潮文庫)

しゃぼん玉 (新潮文庫)

 

  無軌道に通り魔や強盗を繰り返した青年が、迷い込んだ山村で自らの罪に向き合えるようになるまでの物語で、食事は「孤独」と「人の優しさ」を対比する象徴として描かれる。自損事故で怪我をした老婆を助け、その家で近所のおばあちゃん仲間が振る舞ってきたソバや煮物、漬けものを食べるシーン。

 蕎麦など、ほとんど食べたことはなかった。麺類といったらラーメンか、せいぜいうどんに決まってる。だが、こんなにうまいものだとは思わなかった。初めての香りだ。ラーメンとも、うどんとも異なる歯ごたえだ。(中略)

 一つ。二つ。三つ。つい数えたくなるほどの器が並んでいる。それらを眺めるうち、もうずいぶん長い間、器一つで済んでしまう、または食器さえも使わないような食事の仕方しか、してこなかったのだと思い至った。ハンバーガーは紙包みだけだし、あとはほとんどが、使い捨ての容器や丼一つで済むものばかり。(P56)

  ひとり飯が寂しいのは、そこに人の手間暇を感じられないからかもしれない。手間暇を掛けることは、思いやりの現れ。だとすれば、自分の、自分のためだけのご飯にも、手間暇をかけてやれはしないか。それだけで、ひとり飯もぐっと温かになる。要するに、自炊しようと思わされた。

 

騎士団長殺し村上春樹、新潮社)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

  最近読んだからか、真っ先に浮かんだのは本書。主人公の「私」は妻に別れを切り出されて家を飛び出し、その後は山の上の家で1人暮らしをする。そこで私は自分の食事は自分でなんとかし、時には女性やれ謎の近隣住民に振る舞うわけだが、その一つ一つがやけに魅力的に映る。

 私は週に一度、まとめて料理の下ごしらえをする。作ったものを冷蔵したり冷凍したりして、あとの一週間はただそれを食べて暮らす。その日は料理の日だった。夕食にはソーセージとキャベツを茹でたものに、マカロニを入れて食べた。トマトとアボガドと玉葱のサラダも食べた。夜がやってくると、私はいつものようにソファに横になり、音楽を聴きながら本を読んだ。(第1部:P202)

 なぜだろう。なにか余裕というか、生活感とは違う匂いが漂う。「私」はしばしば、グラスに注いだワインや生(き)のウイスキーを飲む。コーヒーメーカーにはいつもコーヒーがちょうど良い具合に置いてあり、客人の分までカップに注ぐ。「町外れの国道沿いのファミリー・レストラン」で食べる夕食は「海老カレーとハウスサラダ」。

 それ自体に特段の描写があるわけではないけれど、「騎士団長殺し」の「私」のひとり飯はどれもこれも、生き生きさと影を両方含んだ、芳醇なものに感じられる。何を食べるかでも、誰と食べるかでもなく、食べる当人が「何者なのか」も、食事の質を左右するんだろうか。

 

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読後こそ楽しいサスペンス―「出版禁止」

 日本中のラジオがいつでも聴けるアプリ「radiko(ラジコ)」で知ったDJに、浅井博章さんがいる。大阪のFM802で毎週日曜日、「モーニングストーリー」と銘打ち、おすすめの本や映画を紹介。読書家の浅井さんがストーリーテラーになる作品はどれも面白くて、本書「出版禁止」もその一冊だった。

出版禁止 (新潮文庫)

出版禁止 (新潮文庫)

 

  サスペンスにあたるミステリー小説。帯では本仮屋ユイカさんが「裏切られた!!」と書いていらっしゃるが、まさに裏切る仕掛けが随所に施されている。しかしながら一番面白いのは、途中でもラストでもなく「読後」かもしれない。

 作者の長江俊和さんは「放送禁止」というテレビ番組のクリエイターだそうだ。一見ドキュメンタリーだが、実はフィクションという、フェイクドキュメンタリーと呼ばれるまさに「裏切り」の作品を放送。見たことがないのが何とも悔やまれるが、出版禁止を読むとさぞや凄いんだろうなと想像する。「出版禁止」もスタイルは踏襲し、小説だけれど、あたかもノンフィクションのような筆で進んでいく。

 

 語り手の長江俊和(著者と同名)は、ライター若橋呉成が書いた「カミュの刺客」という未発表のノンフィクション作品の草稿を手にする。社会派ドキュメンタリー作家が山荘で不倫女性と心中する事件を追ったものだが、出版直前で差し止め=出版禁止になった文章作品だ。

 事件では男女ともに病院搬送され、女性だけが一命を取り留めた。裏表紙のあらすじでは「なぜ女だけが生還したのか」と書かれているが、若橋はこの生還にきな臭さを感じて、取材を始めた模様だ。

 心中は愛の末路なのか、それとも仕組まれた事件なのか―。これが主題であり、本仮屋さんの「裏切られた」もこの間の「何か」だと信じていたのだが・・・。まさに裏切られた。全然予想しない方向に進んでいく。

 

 こういう作品は読み終えて「なるほどなーーー!!!」となるのが普通。でも自分は、「え」となってしまった。読み返しても分からない。鈍感なのか。どういうこと?頭に謎が浮かんで、結果、「出版禁止 真相」とか「出版禁止 考察」とグーグルに打ち込み、しばらく作品を読み込んだ先輩のサイトをうろつき、ようやく「そういうことかー!!」

 ただ、それでも誰もが謎の全てを解き明かせておらず、その解釈を比べて自分なりの謎解きをするのが、また楽しい。感覚としては「ゼルダの伝説時のオカリナ)」や「マザー2」に近い気がする。風車のおっさんや、どせいさんの存在が結局ふわふわとした怪しさをたたえ続けるように、「出版禁止」に埋め込まれた謎をずっと転がしていたいような、そんな気持ちになる。

 

 読んでも楽しいし、読んだ後も楽しい。間違いない。ちなみに、読後に参照したサイトは以下。ネタバレを含むので、読後までは開かないでほしい。

 

ukarino.hatenablog.com

blog.livedoor.jp

プーチンの心臓と犬笛―「ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭」

 なぜこの人は、ムキムキマッチョ、筋骨隆々なのか。独特の威圧感を備えているのか。見る度に不思議が募るのが、ロシアのプーチン大統領だった。昨年秋、安倍晋三首相の地元・山口に来訪するニュースを機に、疑問を解消しようと書店を見て回った結果、手に取ったのが本書「ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭」だった。表紙には、流し目で不敵な笑みを浮かべるプーチン氏。元外交官・佐藤優氏の「プーチン地政学戦略を見事に解明」。地政学、何となくプーチン氏らしいワードだ。

ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭

ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭

 

  フィナンシャル・タイムズ紙の元モスクワ支局長だったジャーナリスト、チャールズ・クローヴァー氏が執筆。半生記のような「プーチン本」ではなく、彼の思想的な核心に迫っている。

 終章まで527ページで、正直、かなり難解。100年単位でロシア近代史、思想史を俯瞰しつつ、1人1人の思想家の人生を丹念に書き出す。読後にうっすらと見えてくるのは、プーチン大統領の外殻をめくった先に潜む、「心臓」と呼べる部分だと思う。

 

◎ユーラシアを統合せよ―プーチン大統領演説から

 表題の「ユーラシアニズム」とは、ロシアが位置するユーラシア大陸を統合し、超巨大・大陸国家を指向する政治思想のことだと思う。 ユーラシア大陸と言うのはすなわち、現ロシアだけでなく、旧ソ連領域も含み、場合によってはモンゴルや中央アジアも含んでしまう。「帝国」の再現だ。自信がないのは、本書はユーラシアニズムとは何かを書いているのではなく、「それがなぜ生まれ、育ったのか」に焦点を当てているからだ。

 クローヴァー氏は2012年12月のプーチン演説を出発点にする。

 「誰が先陣を切るか、誰が片隅に取り残され、独立を失うかは、国家の経済的潜在力にかかっているのではなく、主として各国民の思想、内なるエネルギー、つまりレフ・グミリョフが言うところのパッシオナールノスチ、すなわち、前進し、変化を受け止める能力にかかっているのです」(P18)

 この「パッシオナールノスチ」というのが、ユーラシアニズムの源流だという。ではグミリョフとは誰か?なんと、さかのぼること100年、1900年代前半の生まれで、しかも1930~40年代、スターリン治世下にシベリアの強制労働収容所に入れられている人物だ。「国の反逆者」の思想が、国家元首の原点ということになる

 

◎収容所で生まれた「情熱」

 実際、グミリョフが収容所にぶちこまれなければ、パッシオナールノスチは生まれなかった。それは「パッション(情熱)」と相通じる概念であるとともに、「受苦の力」を内包している。困難に直面したとき、ひとはどうなるか。グミリョフは強制収容所で、ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」ではなく、「掟」と「共同体」が発生する様子を目の当たりにする。

 二人か四人のグループを結びつけていた原則は、「一緒に飯を食う」、つまり食料を分け合うことだった。これは本当の共同体で、おたがいを助け合うのだ。こういう仲間ができるのは、おたがいが内心で共感できる何かを持っていることが決め手になる。(P159)

 ここでグミリョフは、社会的共同体の発生は「人間の本能」だと直感する。だからこそ、国家建設、統合も、究極的には「強力な衝動」を信じて突き進むことで、人と人、共同体と共同体が結び付き合う。グミリョフはダーウィンの生存競争と反対に「相互補完性」、すなわち人間は自然状態では「蹴落とし合う」のではなく「互いの欠点を補い合う」のだとも語っている。

 だからパッシオナールノスチを推し進めると、「自然に」、ユーラシア大陸の様々な国家は「補完しあう」ということになる。要するにプーチン大統領は、ロシアがユーラシアの大連盟を築こうとするのは、一国家の拡大主義ではなく、「自然な現象」、「人間の本能」だと言いたいわけだ。

 

新右翼が育てた「地政学

 なぜグミリョフのパッシオナールノスチが、国家元首の中枢に根付いたのか。この間を結ぶ人物として、著者はアレクサンドル・ドゥーギンという新右翼思想家を挙げる。「反逆者」の理論を「新右翼」が育て、「国家元首」へ。すさまじい話だ。

 1980年代、政治思想や芸術を語り合うアングラネットワークの会合に現れた青年。それがドゥーギン氏だった。反ユダヤ主義。ナチズムへの傾倒。陰謀論をかき立てる地下新聞のライターでもある。

 過激な言動で存在感を発揮していた彼は、ロシア軍部に向けた講習などで、ある地政学理論を題材に取り上げる。現在も有名なマッキンダー氏のパワー論だ。シーパワー(海洋国家)とランドパワー大陸国家)という視点で国際政治を見通したり理論だが、なんとドゥーギン氏が取り上げるまで、マッキンダー氏はまったくの無名だったらしい。やがてドゥーギン氏の手でパッシオナールノスチは地政学と結びつき、ユーラシアニズムという具体的な「国家戦略」と化していく

 ドゥーギン氏が驚きなのは、2014年のクリミア危機を予想していたという点。それもユーラシアニズムを下敷きにすると不思議ではない。ウクライナ東部の住民の意思、「本能」に呼応する形で発生したのだ、と。

 

 それは昨今話題の「忖度」に近いものかもしれない。実際、著者クローヴァーはロシア政治を解き明かすものとして「犬笛」という言葉を使う。犬しか聞き取れない特殊な音を鳴らす、すなわち「言外ににおわせる」メッセージが、政治を動かしている。パッシオナールノスチは、外交戦略を「人間の自然意思」にすり替える。ユーラシアニズムというプーチン大統領の犬笛を聞いた政治機構は、あくまで自然な風に、統合の動きを進める。指示ではなく、強制ではなく、本能だと言われたとき、いかに無理やりな併合も侵攻も、正当化できてしまう恐れがあるのだ。

響き合う才能、人生―「蜜蜂と遠雷」

 作者の恩田陸さんは雑誌AERAのインタビューで、作品を生み出すことは列車が駅に止まるようなものだと語っていた。つかの間とどまるが、すぐに次の駅へ向かっていく。直木賞に選出された「蜜蜂と遠雷」は、ターミナル駅のような、ひとつの節目の駅だと話していた。読者にとっても、まさに本書は駅だと思う。ピアニスト、審査員、調律師、裏方のスタッフ、取材者…。ピアノコンクールをとりまく様々な人模様に出会う。そして読後は、どこか新しい線路に向かっていけるような、そんな思いを得る。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

  507ページ。物語は、才気あふれる若手のピアニストが世界から集う「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の予選から本戦までの短い期間を描く。主人公はいずれもピアニストで、経歴やバックグラウンドが異なる4人。養蜂家の父とともに世界を動き回り、ピアノを持たない天衣無縫の異才風間塵(16歳)。神童として名をはせながら、師である母の死去を機に表舞台から遠ざかっていた栄伝亜夜(20歳)、「生活者の音楽」を胸に描く楽器店員の高島明石(28歳)。名門音楽院出身のマサル・アナトール(19歳)。ちなみにこのあたりの情報は帯に書かれている情報です。

 

 この物語が何より素敵だな、と感じたのは、彼らの競い合いというよりも、関わり合いに焦点を当てていることだと思う。もちろんコンクールなので、勝敗がある。相手より良い演奏をしようというのはある。しかし4人はそれ以上に、お互いが放つ音楽に触発され、それぞれが抱える葛藤を乗り越えていく。

 象徴的なのは亜夜。久しぶりのコンクールに立つにあたって、何度も何度も迷いが胸に浮かぶ。しかし、ある演奏が心に火をともす。

 

 弾きたい。かつてのあたしのように。

 かつてのあの歓びを、もう一度弾きたい。

 

 当たり前といえば当たり前だったのだけど、凡人の自分が思い及ばないような天才も、たった一人では立っていられない。才能はまた別の才能に共鳴して、少しずつ花開いていけるんだと思う。

 

 この思いは、亜夜の友人でコンクール中も常にそばにいる奏も語っている。

 この子たちは、自分たちがどんなに恵まれているか分かっているのだろうか。

 自分に音楽の才能が本当にあるのかどうかと悩み、日々長時間の練習をして、それでもミスするかうまく弾けるかと胃の痛い思いをして眠れぬ夜を過ごし、おのれの平凡に打ちのめされながらも音楽から離れることができない無数の音楽家の卵たちの気持ちが?

 僻みっぽい気分になりかけたが、考え直した。

 いや、分からないはずがない。

 人の苦労は比べられない。それは、亜夜のそばにいて知っていたはずだった。

 

 奏のように、4人を見つめる周囲の人々がまた、輝いている。そして4人を輝かせている。奏の支えなしに、亜夜はスポットライトに再び向かって行けただろうか。高島には、送り出してくれる妻満智子がいた。舞台袖には、コンテスタント(出場者)の背中を押してくれるステージマネジャー田久保がいた。

 

 表紙から一枚めくった折り返しの部分に、風間塵の「推薦状」がある。

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は『ギフト』である。(中略)

 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。

 これは才能(ギフト)に限るものでもないのだろうな。生きていくということは、たえず別の人生と出会う、贈られ、受け取るものなんだろう。自分がその人にどう響きを返すのか。ここでもまた、響き合いなんだと感じた。