読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

傷つきたくないのは自分なんでしょう?―「ナラタージュ」

 

ナラタージュ (角川文庫)

ナラタージュ (角川文庫)

 

  

 作者の島本理生さんは痛みを描くことにかけてものすごく繊細だと思う。「アンダスタンド・メイビー」は衝撃を受けて、しばらく胸のひりひりがやまなかった。本作「ナラタージュ」は「映画化決定! 出演松本潤有村架純」の帯が目について、その二人が登場する島本小説はかなり期待できると手に取った。

 

 

 

 

 「ナラタージュ」の主人公は大学2年生の「私」、工藤泉。母校の高校の演劇部で指導を受けた葉山先生から電話を受け、後輩の公演を手伝うことから物語が始まる。泉と葉山先生の思いのすれ違い、通い合いが軸になるが、ストーリーに分け入ってくるキャラクターがどれも翳りがあって。それと、場面ごとに香るにおいが心地よい。日差しのふんわりした香り、雨の湿っぽさ。それはもう、書き出しから。

 まだ少し風の冷たい春の夜、仕事の後で合鍵と巻き尺をジャケットに入れ、もうじき結婚する男性と一緒に新居を見に行った。

 マンションまでの道は長い川がずっと続いている。川べりの道を二人で並んで歩いた。

 

 今回描かれる痛みは「傷付けること」と表現してもいいのかもしれない。愛しいから傷付けたくない。愛しいからこそ、傷付けてほしい。傷付けなければ愛を確認できない。あーどうしてこうなってしまうかな、でもやってしまうようなというやり取りの数々。中でも胸に刺さったのが、泉が葉山先生に向けた次の言葉だった。

 「あなたはそうやって自分が関われば相手が傷つくとか幸せにできないとか、そんなことばかり言って、結局、自分が可愛いだけじゃないですか。なにかを得るためにはなにかを切り捨てなきゃいけない、そんなの当然で、あなただけじゃない、みんなそうやって苦しんだり悩んだりしているのに」

 そうか、相手に踏み込まないのは自分かわいさなのか。傷つきたくないのは、自分なのか。ある理由で人を愛することに一歩とどまる葉山先生への率直な物言いは、同時に泉にも「じゃあ私はどうだろう」と返ってくるから一筋縄ではいかないのだが。

 

 これを松本潤さんと有村架純さんで映像化すると、世界観を壊さずはかなげに作り上げられるような。島本作品はどれもカバーの写真が作品の印象にぴったりで何とも言えない色気や奥行きがあるが、本作も例外でなく、だからなんとなく実写化もうまくいくんではないかと思う。カバーの背景は新緑にも、しとしとと降る雨に見えるのも、読後の余韻が影響しているからかもしれない。

 

ここも戦場だという叫び―ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか

 

ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか (集英社新書)

ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか (集英社新書)

 

  フリージャーナリストから現役通信社記者、新聞社特派員OBなど、多種多様な国際報道従事者が、「なぜ自分は『戦場』を取材するのか」「報道はなぜ必要なのか」を経験ベースで語った本。執筆者は10人にのぼる。

 

 初めにアジアプレス・石丸次郎氏が出版の経緯に触れ、背景に日本社会の報道、それを支える社会の風潮への危機感を示している。過激派組織「イスラム国」(IS)による、後藤健二さん殺害事件で感じた「自己責任」の風潮。その後、新潟在住のジャーナリスト杉本祐一さんに国が旅券返納命令を出した事件。紛争地や、国際政治の狭間で劣悪な環境に置かれている地域の取材が、「勝手な行為」とみなされることへ、説明責任を果たしていこうというのがその趣旨だと感じた。

 

 どのジャーナリストの経験も、肉厚だった。目の前で飛び交う銃弾。一歩で違えた生と死の境界。政府発表とは全く異なり、民間人の犠牲が明かな空爆現場。帯に書かれているとおり、「誰かが行かなければ世界を見る『眼』が奪われる」。その重みを観念論ではなく現実として理解できる内容だ。

 

 読後になおさら強まった疑問は「どうして、ここに書かれている信念の重要性は社会に共有されないのだろう」ということだった。日本国民が内向きになっているとか、ニュースが読まれなくなり大事にされなくなっているとか、返答の仕方は様々ある。でももしかしたら、危険地取材が尊ばれるのではなく責められるのは、「日本だって」、もっとえば「危険地も大変だろうけど、私だって大変なんだよ」という叫びなんじゃないかと、そんな思いがよぎった。

 それはブラック企業なのかもしれない。保活かもしれない。低賃金労働かも、過労かも、結婚できない悩みかも。孤独を抱え、顧みられなかった思いをじりじりと焦がす人たちが、果たして「戦地を取材するジャーナリストは必要だ」と思えるんだろうか。それよりも、ならば自分のこの声を代弁して、苦境を変えてほしいと思うんじゃないか。

 

 日本を飛び出して、苦しむ人々に寄り添おうとするジャーナリストを認められないのは、この社会の閉塞感より、生きづらさを示しているように思えた。

暮らしはやまない―「この世界の片隅に」

konosekai.jp

 

 「暮らしの映画」だった。

 

 「スゴ本」さんを始め、絶対みた方が良いとの評判がそこかしこから聞こえていたので劇場へ。

 (スゴ本さんの記事はこちら)

なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

 昭和20(1945)年、広島・呉。18歳で嫁いだ主人公すずさんの物語。徐々に徐々に、45年8月6日、そして8月15日に近づいていく。

 

 すごいなあというか、そうだよなあと思ったのは、どんなに戦況が悪化し、空襲が激しくなっても、生活は続いていくんだということ。食わなきゃいけない。寝なきゃいけない。この視点にはすごくはっとさせられた。たとえ大切な人を失っても、明日はやってくる。その明日を、すずさんや家族のみんなは懸命に歩いて行く。

 

 思い浮かんだ情景は、東日本大震災が起きた2011年3月の東京だった。当時、春から働く予定の会社で人手が足らなくなって、急に内勤に入ることに。そのとき、あんなにとてつもない災害の後も、こんなに駅のホームに通勤客があるもんなのかと驚いた。でもそれが本当だ。何があっても暮らしはやまない。すずさんたちも、連日続く空襲警報に睡眠を邪魔されて、辟易としながらも、ゆるゆると生きるほかない。

 

 だからこそなのか、途中から涙が止まらなかった。本当は立ち止まりたくても、生きなくてはいけないのだ。生きたいのだ。でも生きていいのか?戦争に直面したときに、「家族の戦死」や「出兵の見届け」以上に、その先も残る生と葛藤が、市民の実際の苦難なのかもしれない。

 

 ハンカチ必携。ぜひ観賞してほしい。余談で、すずさんの生きる強さは、フォレスト・ガンプに通じるものを感じた。こちらもいい映画。

 

フォレスト・ガンプ 一期一会 [Blu-ray]

フォレスト・ガンプ 一期一会 [Blu-ray]

 

 

愛と時間の物語―「マチネの終わりに」

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

  「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」。書店で帯を見る度に気になっていた本。又吉直樹さんが推薦しているのもあり、ようやく手を伸ばした。

 

 これは愛の物語と同時に、時間を巡る物語なんだと感じた。愛とは何かはもちろん問われている。合わせて考えさせられたのが、人間にとって過去とは何か。今を生きるとは。そして、望むような未来を選べるのか、ということ。

 

 読む前にネタバレを含む書評は読まず、読まなくて良かったと思っている。だから自分も詳細に触れたくないし、引用も説明も控えたい。そんな思いを抱かせるのは、物語がまとう空気感、読んでいて流れる不思議な余韻であり、それを壊したくないという恐れだ。

 

 ひとつ、作者の平野啓一郎さんの「私とは何か――『個人』から『分人』へ」は本書の前に通読しておくと、ストーリーにより深く分け入っていけるように思う。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

  「私とは何か」は論考なので多少中身に触れても問題ないはずと信じるが、要するにアイデンティティを巡る問題提起。たとえば友人を前にした自分と、会社の仲間を前にした自分と、どちらも自分であるというメッセージが含まれる。自分とは一つではなく、誰かに対する自分の集合体である。この概念が「マチネの終わりに」も練り込まれている。

 

 それとツイッターなどでも盛んに触れられているが、本書の音楽世界を表現したCDがある。これは必聴。自分は読後に購入したが、主人公のクラッシックギタリスト蒔野聡史が傍らにいるような、優しい演奏に胸を打たれた。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

夢を売る男―「トランプ TRUMP REVEALD」

 

トランプ

トランプ

 

  不動産でもなく、カネでもなく、彼が持っているものはヴィジョンというか、目の前の人に夢を見させる力なんだろう。読み進めるうちにそう感じてくる。帯の触れ込みが、まさしく本書の要約でもあった。「国盗り物語の全貌」。

 

 ビジネスで、最初は大言壮語、トランプの語り口にしてみれば「はったり」をかまして、それを現実にしていく様が詳細に書かれている。トランプタワー建設もカジノ事業も、そもそも資産や強力な土台があったわけではない。ただ相対する役所や出資者に、上手に「うまくいってる感」を見せていき、結果的に最高の青写真を手にした。次に売り出すのも実績よりも新たなはったり。だから、本当の所は一部のホテル事業やサプリメント事業で失敗しているのに、それを取捨選択できる(本人はライセンスを貸しただけで自分の失敗でないと語るかもしれない)

 

 プロセス自体は、今回の大統領選で勝利した経過と同じなのかも。トランプ流の勝利の方程式。だから、メキシコ国境に壁を築くとか、在留米軍の負担は各国持ちだとか、叶うことはないかもしれないというのは、支持者にとって前提の可能性もある。夢を見させてくれる。熱狂させてくれる。そしてそのうち、多少は実現する。バラ色の未来を与えられるよりも、一緒にサクセスしていけるような実感がほしかったんだろうか。

 

 読後にトランプへ好意を持ってしまうのは、なんだかんだ戦法が持たざる者のやり方に感じるから。もちろん父親も大変な資産家だったけれど、ビジネスへ向ける野心は身の丈以上で、だからこそはったりを用いた。離婚騒動などのスキャンダルも知名度アップに利用したけれど、どうやら「家族のことはばかにするな」という姿勢だったようだ。本当なら、裸一貫なわけで、それは「政府に見捨てられた」と感じている人々には受けるだろうな、と思った。

そのとき、彼は何を語ったか―「総理」

 

総理

総理

 

 

 16年近く国会や内閣の動きを追ってきた元TBS政治記者によるルポタージュ。テーマはずばり、「総理とは何なのか」。そして総理たる者の器としてどんな資質が求められるかを問い掛ける。

 

 有権者として政治家の見る目が確実に変わる。生い立ちや出身校を見る意味が、単なるブランド性の吟味じゃないことがわかる。記者志望の学生なら、政治記者とはどんな仕事をしているのかを知る格好の一冊だろう。主要登場人物の安倍晋三現首相や麻生太郎元首相、亡くなった中川昭一氏の人間ドラマとしても楽しめる。読み方が多様なのが本書の秀逸なところ。

 

 安倍さんが、中川氏の弔辞を読んだ後に何を記者に語ったか。東日本大震災で出会った少女には。外遊先のホテルでは。そのときの表情は。具体的なカギ括弧の言葉が「これでもか」というほど書き込まれていて、思わず自分が政治家の知り合いになったように思える。

 

 政治家も泣いて笑う。結局は人間が、この国の政策と政局を動かしている。

「戦前」を線でとらえる―「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」

 

 なぜ日本は太平洋戦争に突き進んだのか。その道筋を日清戦争日露戦争からたどっていく本書は、「無謀な陸軍と政府が戦争を引き起こした」と一言で語られがちな「戦前」を、線としてとらえるヒントをくれる。

 

 たとえば日清・日露戦争のころから、日本が得ようとした植民地は「安全保障上の理由」だったとの指摘。この視点があると、第一次世界大戦の際に欧州で繰り広げられた総力戦の衝撃を胸に、来るべき対ロ戦争を見据えて、満州などの獲得に乗り出した背景が見える。

 

 議論の基盤として、ルソーの「戦争とは相手国の憲法を書き換えるもの」「多大なる犠牲を払った戦争後には、新たな社会契約が求められる」という思想が序章で示される。日本はまさに敗戦で新憲法が制定された。しかしこのところ安全保障法制の見直しや、国民的関心を見ると、戦後の新たな社会契約は、日本の中で完成していないのかもしれないと思わされる。だとすれば、我々はどんな契約の中身を望むのか。

 

 また、相手の憲法を書き換えるものが戦争だとすれば、対テロ組織が引き起こす非対称戦争は、何なのだろう。その枠組みでとらえられるのか、また違った考察が必要なのか。