読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

この言葉以外に、ない―「君の膵臓をたべたい」

 

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 買った。読んだ。読む手が止まらなかった。読み終えて涙が止まらなかった。

 

 圧倒的なインパクトがあるタイトルで、書店で見かける度に気になっていた。ただあまりに印象が鮮烈すぎて、読み終わった今となってはまったく的外れで申し訳ないのだが、「膵臓食べるって、やばい奴が主人公なのか?もしや受け狙いか」と、うがって見てしまっていた。住野よるさんに心からおわびしたい。恥ずかしい。

 

 実際は、このタイトル以外にないのだ。

 

 その理由をお伝えするために、あらすじや登場人物の台詞に触れることは残念ながらできない。というか、しない。おそらくどんなに簡略化したあらすじもネタバレにつながってしまうであろう。それでこの素晴らしい物語を損ねたくない。事実、今販売されている本書や帯には、なんの概略も記されていない。「読後、きっとこのタイトルに涙する」とは書かれている。その通りだ。付記されている読者の声も「3回読みました。50過ぎのおっさんをその度に泣かせる青春小説がかつてあっただろうか」。まさに。

 

 唯一、表紙の絵については触れてもいいだろうか。小説の世界観がにじみ出る素敵な絵だ。

 淡い桃色をした、満開の桜の木のそばの河川敷。腰まで伸びた黒髪を風に揺らせた少女がほほえみ、川にせりでたちょっとした広場?の手すりに身を預けている。もう1人、同じくらいの年代の男の子が写るが、こちらに向けて背を向ける形で手すりに寄りかかり、本を読んでおり、表情は伺えない。二人とも制服姿。空は柔らかい青空で、日差しはふんわりと、春の気配がする。

 まさに、そういう世界でめくるめく物語だった。痛みや悲しみを、そっと受け止めてくれるような優しさが、ちゃんとある世界。

 

 そこで、登場人物は「君の膵臓をたべたい」という言葉にたどりつく。この言葉以外に、ない。自分の思いを乗せるたった一つの言葉に出会うまで、歩み、関わり合う、その尊さと苦さを教えてくれる小説だった。

そんな自分も悪くないかも―「非モテの品格 男にとって『弱さ』とは何か」

(2017/10/09更新) 

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非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

 

  表紙の帯に漫画が書いてあると、それだけで「ライトな内容なのかな」と疑ってしまう、正直なところ。書店で見ても手に取らなかった本書が、年末の朝日新聞である選者の(メモし忘れ)「今年のベスト」に選ばれていたことから、半信半疑で読んでみた。

 

 良い意味で裏切られた。重厚。新書の形をした小論文というのが実態で、先行する研究者や哲学者の言葉が多数引用され、言葉を紡ぎながら一歩ずつ思索の地平を広げていく。

 キーワードとなるのは3つで、2つはタイトルにも入っている「非モテ」と「男の弱さ」。そして最も救いを与えてくれるあと一つが「自己尊重」だ。

 

男の弱さ=自らの弱さを認められない

 第1章はメインタイトルの「非モテ」には触れず、「男の弱さ」から探求が始まる。そう、本書は非モテ解消のハウツーではない。弱さと向き合うための足がかりである。

 男の弱さとは何か。著者の杉田俊介さんは、鮮やかに表現する。

 男の弱さとは、自らの弱さを認められない、というややこしい弱さなのではないか(P15)

 男性社会の日本にあって、男はマイノリティではない。男は多数派だ。強者だ。恵まれている。男は強くあれ。「男らしくあれ」。一方で、家庭も大事にできなければ真の男ではない。そういうメッセージを感じ取って、つらくてもつらいと言い出せない。「俺はそんなに強くないよ」と正直に言えない。脆さとか、非力さとは異質の弱さが、そんなところにあるんではないかと指摘している。

 それは、自らを追い込む弱さでもある。できない自分が悪い。自分の力が足りないんだ。弱さを言い換えれば「否認の病」だと、筆者はたっぷり60ページほどをかけて、丁寧に描き出してみせる。

 

非モテは化膿

 続いて2章で、「非モテ」に話が移る。自分も無自覚に使っていた「非モテ(もてないコンプレックス)」について、本書は三つの類型を上げている。

 ・非モテ1=モテたい、という欲求

 ・非モテ2=愛したいし愛されたい、という欲望

 ・非モテ3=「性愛的挫折」がトラウマ化し、日常的に苦しめられる状態(P93-96など)

 

 「なるほど」と思わされるのが、非モテはもてたいだけでも、愛されたいだけでもないんだということだった。恋人ができても、非モテ意識に苦しむことがあると筆者は例示する。それが類型の3番目だと。

 第1章に絡めて言えば、弱い自分の否認、認められずにいる状態。もてない自分が嫌で、でもそれを表だって表現もできない苦しみ、「化膿した」弱さが、非モテだと論じている。

 

自己肯定ではなく、自己尊重

 杉田さんがタイトルに「品格」を入れた理由は、最後のキーワード「自己尊重」を分かりやすく伝えたかったのではないかと読後に思う。これが、処方箋というときれいにまとめすぎることになってしまうが、男の弱さに、非モテに自縄自縛している男たちへ送る、小さなエールなんだと思う。

 自己尊重とは何か。胸を打ったのは次の一文だった。

 「こんな人間になりたい。だから努力する。でも、そうはなれない」「頑張ったけれど、どうしてもダメだった」。これまでの人生の中で、そうした失敗や間違いを繰り返してしまったこと、それらのプロセスを決して丸ごと肯定はできなくても、ただ、それそのものとしては尊重できる。そしてその小さな尊重の気持ちが、これから自分を変えていくための、ささやかな足場になり、足がかりになっていく。その程度の自己尊重であれば、誰にでもできるのではないか。(P137)

  自分はできるんだと言い聞かせる、自己肯定ではなくていい。だめだなあ、自分。いいよ、いいよ。そんな自分も悪いかもしれないよ。とりあえず、いいじゃない。そんな、やり過ごしというか、ちょっと自分の肩をもんであげるぐらいの、小さな小さな励ましが、杉田さんの提示してくれた自己尊重なんだろうと感じた。

 

 ここまでの流れを、ゆっくり解きほぐして、何度もかみ砕いて導いてくれるのが、本書のすばらしさだと声を大にして言いたい。ほかにも「ルサンチマン」「タナトス」「アディクション」などのワードを手掛かりに、自分の弱さの輪郭をよりはっきりさせてくれるインク、筆を与えてくれる。

 

 読んでいるうちに自分の弱さを顧みて、そこにもやもやとしてしまった自分はちゃんと消化できていないのだが、本書のゴールは自己尊重の《さらに先》にある。それは男の弱さからさらに視界を広げて、たとえば障害者や赤ちゃんなど、社会的に弱者とされるひとの「弱さは本当に弱さなのか」と問い掛けるものだ。

 

 なんで自分はこんなにダメなんだろう。あるいはサブタイトルの「男にとって弱さってなんなの?」と少しでも感じた人は、新たな視座を得られる一冊になるはず。

 

 今回紹介した本はこちらです。

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

 

 

 弱さの複層的な側面に目を向けるように、他人が語り得ない「痛み」について新しい景色、言葉をみせてくれるノンフィクションとして「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」をお勧めします。本書ともリンクする内容。

www.dokushok.com

 

 弱い男をこれほどまで魅力的に描いた小説は少ないと思います。又吉直樹さんの「演劇」も、自分をうまく認められない弱さが主題の一つかと思います。

www.dokushok.com

面倒くさがった愛の行方―「四月になれば彼女は」

 

四月になれば彼女は

四月になれば彼女は

 

 NHKの朝の情報番組「あさイチ」に著者の川村元気さんが出演され、本書が取り上げられているのを見て、無性に引きつけられた。「君の名は。」のプロデューサーなのはご存じの通り。著者紹介で知ったのだが、「モテキ」も「バクマン。」も「怒り」も川村さんが製作に関わっている。

 

 引きつけられたのは、有働アナウンサーが作中から引用して読み上げた、次の一文だった。思わず出勤の準備をする手を止めた。

 

私たちは愛することをさぼった。面倒くさがった。

些細な気持ちを積み重ね、重ね合わせていくことを怠った。

 

 こんなにせつない言葉があるだろうか。

 

 主人公は精神科医の男性、藤代。獣医師の弥生と結婚を控えている。 ただ、藤代も、弥生も、本当に互いを愛し合っているのか確信が持てない。そんな藤代の元に、かつて付き合っていた「彼女」から手紙が送られてくるところから、物語が動き始める。

 

 引用した言葉が、一体どこで出てくるのかを探りながら、読み続けた。結果として、それはとてもよかった。いつ、この言葉を突き付けられるのか。そしてそれが語られたあと、彼/彼女は何を感じ、どう行動するのか。それは一つの重要な分岐点だ。

 

 どうして、愛する人をただ愛するということが、できないときがあるのだろう。面倒くさがって、目を向けることを怠って、水をやらずにそのままにして、そして傷付け合うのだろう。きっと面倒くさがった後にしか感じられない、悔しくて悲しい問いに、主人公たちが代わりに向き合ってくれる。読み進めながら、自分のつらさを少しずつ解きほぐしていけるような気がする。

 

 物語の中には、ほかにも印象的な台詞がたくさん出てくる。たとえば、

 分かり合えていることがすべてではないと俺は思う。わからないけれども、その人と一緒にいたいと願う。少しでも気持ちを知りたいと思える。それが彼女にとっての恋なんじゃないかな

 印象に残るのは、誰もが台詞の全部でも一部分でも、何か思い当たる節があるからだと思う。これはあの時の、あの気持ちだと、記憶の中に見つけられるからだ。

 

 面倒くさがった愛の行方。それは、作中でたったひと言で語られていると思う。そのひと言はどの台詞よりも胸を打った。えぐられる以上に、ジグソーパズルの最後の1ピースのように、ぴたっとはまり、景色が浮かび上がるような、そんな感じだ。

 

 ぜひ物語を開いて、そのひと言に出会ってほしい。

 

 最後に、朝日新聞のホームページで、川村さんが本書を語ったインタビューを見られる。自分は小説を手に取る前に一読したが、読む楽しみが増える内容で、そがれるようなものではなかったので、こちらもぜひ。

www.asahi.com

2016年ベストバイ ノンフィクション編

2016年「買って良かった」「読んで良かった」を紹介する、ベスト・バイ。続いてノンフィクション編。

 

◎「ブラッドランド ヒトラースターリン大虐殺の真実」

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

 

  ドイツ史とロシア史のはざまで、あるいは世界史の断片でしか語られてこなかった東欧地域の大量虐殺、大量餓死を、膨大な資料を編み上げることで浮かび上がらせた一冊。遠くの人から奪われる、見ていないから消される。その怖さたるや。

 

◎「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」

五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後

五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後

 

 八紘一宇を、本当の意味で実現しようと学びあった若者がいた。戦後70年が過ぎようとする中で、記者が書いてくれてほんとうに良かった。彼らの人生を俯瞰するだけでなく、飛び込んで、歩みを交えながら、至近距離で捉えている。

 

◎「地球を『売り物』にする人たち」

地球を「売り物」にする人たち

地球を「売り物」にする人たち

 

  地球温暖化は環境問題だけにあらず、ビジネスでもある。著者はその事実をあくまで事実として描き出す。大事なのは、けしからんと批判することではなく、ビジネスと絡み合ってでしか、環境政策は語れないんだと知ることだ。写真も印象的な一冊。

 

◎「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」

黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実

黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実

 

  「す、すごい」のひと言しかでない、圧倒的な取材力。海外ジャーナリストが長大な時間を掛けて、異国の女性殺害事件を追った。日本メディアでタブー視される在日外国人の問題にも切り込む。

 

◎「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙 (講談社文庫)

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙 (講談社文庫)

 

  国によって死を宣告された一人の青年の歳月とその後を周辺取材から描き出す。命が別の命に残した痕跡は、いつまでもほのかな痛みと体温が消えない。

 

◎「こつ」と「スランプ」の研究

「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学 (講談社選書メチエ)

「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学 (講談社選書メチエ)

 

  言語化と身体動作の無意識化。この相互作用について分かりやすい語り口で伝えてくれている。スポーツに限らない。何かを極めようと思ったときに、道しるべをくれる一冊だった。

 

◎「デジタル・ジャーナリズム」は稼げるか

デジタル・ジャーナリズムは稼げるか

デジタル・ジャーナリズムは稼げるか

 

  この本もいずれ古くなってしまうんだろうと危機感を抱かせる。めまぐるしく展開するネットビジネスにジャーナリズムの活路はあるのか。いつまでもただの情報に金を払ってもらえるわけではない

 

◎「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」

  改めて書評を書きたい。レゴのように、淡々と事実を積み上げていく手法で、レイプをめぐる社会の病巣を白日にさらした迫真の書。

 

◎「沖縄の新聞は本当に『偏向』しているのか」

沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか

沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか

 

  タイトルがど真ん中ストレートをつく、魂のノンフィクション。「公正中立」をはき違えた全ての大人にたたきつけたい。沖縄で地に足を付けて働く報道人の叫びが聞こえてくる。

 

◎「〈インターネット〉の次に来るもの」

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

 

  テックの書ではなく、哲学の書といえるのではないか。急スピードで変革するインターネット、その先の技術を水先案内する「概念」を示してくれる。その変化は、もう始まっている。適応せよ。

2016年ベスト・バイ 小説編

 今年から始めたブログ。年末にはやってみたかった、ベスト・バイ。要するに「読んで良かった本」をピックアップしていきます。まずは小説編

 

 ◎「さよなら、シリアルキラー

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)

 

  シリアルキラー3部作。小学生から大人まで広く楽しめる読みやすさなのに、主題は「定められた自分と向き合う」という深さ。それは殺人鬼の息子に生まれた血と運命であり、周囲の偏見であり、仲間の優しさであり。

 

◎記者の報い

記者の報い (文春文庫)

記者の報い (文春文庫)

 

  元記者小説はけっこう主人公を美化したものがおおい。本作もその気はあるけれど、なんというか悲哀もすごい。その意味でフェアに楽しめる。ストーリー展開もテンポよく、テレビマンの矜持が無理なく胸に迫る。

 

ガラパゴス(上下巻)

ガラパゴス 上

ガラパゴス 上

 

  安定の相場英雄さんが、派遣労働、低賃金労働をテーマにとらえた。いま、働いて、頑張って、生きた証しを残せる人がどれだけいるだろう。自分が歩いた轍はあまりに細いんだと空恐ろしくなると同時に、どんなにみじめだと思う生き方でも、そこにエールを送ってくれる人がいることを感じさせる。

 

◎「アメリカ最後の実験」

アメリカ最後の実験

アメリカ最後の実験

 

  宮内悠介イヤーといって良いほど魅了された一年。「盤上の夜」も「エクソダス症候群」もおすすめ。だけどあえて本作。生を繊細に切り取る著者が、ピアノを走る指先、ほとばしる汗を渾身の筆致で書ききった。

 

 ◎オービタル・クラウド

  テクノロジー小説の旗手藤井太洋さんが宇宙を舞台に書いたSF。壮大な世界観と国際的な野望がぶつかり合う様は、藤井版「007」と言っても差し支えない。スパイは出てこないけど。

 

◎機龍警察

機龍警察(ハヤカワ文庫JA)

機龍警察(ハヤカワ文庫JA)

 

  シリーズ作品なのでするめのように楽しみ続けられる。テロリズムに対応する警察力とは。新たなテクノロジーと既存の組織の対立。今日的なテーマをスリル満点で読み進められる。おすすめは「自爆条項」。罪と罰、許しの物語だ。

 

◎「『ファミリーラブストーリー』」

「ファミリーラブストーリー」 (講談社文庫)

「ファミリーラブストーリー」 (講談社文庫)

 

  「逃げ恥」とは別の形で、夫婦を超えていく物語。一緒にいましょうだけがハッピーエンドなのか?問い掛ける一冊。別稿で書評を書きたくなった一冊。

トリックスターがいたころ―「バブル1980-1989 日本迷走の原点」

 

バブル:日本迷走の原点

バブル:日本迷走の原点

 

  自分は「バブル」後に生まれた世代であることはなんとなく認識していても、バブルとは一体いつから始まって、なぜ終わったのか、腹落ちするくらいの理解はできていなかった。「HONZ」さんで、「バブルを知らない世代に読んでほしい」と挙げられているの見て、手に取った一冊。

 

honz.jp

 

「『土地神話』と『銀行の不倒神話』は、日本の経済制度としてワンセットだった」(101P)

  日本の80年代バブルは、「土地バブル」、土地の価値が上がり続ける神話を寄る辺にした経済活動が、神話の崩壊と共にはじけた熱狂だった。正直に言えば、読後もなお、バブルを理解した手応えは心許ない。それは「仕手戦」「ファントラ」などの経済用語や仕組みが基本知識として頭の中で整理できていないことが大きいけれど、この時代の「ユーフォリア(陶酔的熱狂)」(2Pなど)を体験しなければ、バブルの異様さは肌感覚でつかめないのかもなあと、言い訳のように思う。

 

 胸に残ったのは、この時代をかき回した「勝負師」の群像劇だった。とにかく壮大。たとえば、「イ・アイ・イ・インターナショナル(EIE)」の高橋治則氏は

「85年のバブル初期から、わずか4年で1兆5000億円まで借り入れを膨らませ、国内外で不動産やホテル、ゴルフ場を買いまくった男」(165P)

だという。これが彼一人なら、最近で言う与沢翼氏のような存在かもしれないが、ごろごろ出てくる。「私の持ってる株は、必ず流通業界の効率化と再編につなげる」(181P)と公言していたという「秀和」の小林茂氏。大阪の料亭経営者であっても1人の人間でしかないのに、日本興業銀行金融債権2500億円以上を買い付け、負債総額4300億円で個人破産した尾上縫氏。

 

 なぜ勝負師と呼ぶかと言えば、大方の人物が巨額のビジネスに取り組みながら、最終的には逮捕されたり破産したりしているからだ。それだけ危ない橋だった。

 

 筆者の永野健二さんはバブル当時、日経新聞証券部記者などで現場に身を置いていた。永野さんは彼らを「トリックスター」(177P)と表現する。

 「トリックスターという言葉は『詐欺師。ペテン師。手品師』など、あまり好意的な言葉としては使われない。しかし言葉本来の意味は『神話や民話に登場し、人間に知恵や道具をもたらす一方、社会の秩序をかき乱すいたずら者』である。そして『道化などとともに、文化を活性化させたり、社会関係を再確認させたりする役割を果たす』(大辞林)」(177-178P)

 勝負師が時代を波立てたことを、蔑むでもなく、あがめるでもなく、フラットに描き出す姿勢はとってもフェアだ。そして思うのは、変革期、混乱期にはトリックスターが躍り出る。いまの社会でトリックスターにあたる人物が誰かを探し、ウオッチすることで、時代を観測する座標軸を得ることができそうだ。

 

 

傷つきたくないのは自分なんでしょう?―「ナラタージュ」

 

ナラタージュ (角川文庫)

ナラタージュ (角川文庫)

 

  

 作者の島本理生さんは痛みを描くことにかけてものすごく繊細だと思う。「アンダスタンド・メイビー」は衝撃を受けて、しばらく胸のひりひりがやまなかった。本作「ナラタージュ」は「映画化決定! 出演松本潤有村架純」の帯が目について、その二人が登場する島本小説はかなり期待できると手に取った。

 

 

 

 

 「ナラタージュ」の主人公は大学2年生の「私」、工藤泉。母校の高校の演劇部で指導を受けた葉山先生から電話を受け、後輩の公演を手伝うことから物語が始まる。泉と葉山先生の思いのすれ違い、通い合いが軸になるが、ストーリーに分け入ってくるキャラクターがどれも翳りがあって。それと、場面ごとに香るにおいが心地よい。日差しのふんわりした香り、雨の湿っぽさ。それはもう、書き出しから。

 まだ少し風の冷たい春の夜、仕事の後で合鍵と巻き尺をジャケットに入れ、もうじき結婚する男性と一緒に新居を見に行った。

 マンションまでの道は長い川がずっと続いている。川べりの道を二人で並んで歩いた。

 

 今回描かれる痛みは「傷付けること」と表現してもいいのかもしれない。愛しいから傷付けたくない。愛しいからこそ、傷付けてほしい。傷付けなければ愛を確認できない。あーどうしてこうなってしまうかな、でもやってしまうようなというやり取りの数々。中でも胸に刺さったのが、泉が葉山先生に向けた次の言葉だった。

 「あなたはそうやって自分が関われば相手が傷つくとか幸せにできないとか、そんなことばかり言って、結局、自分が可愛いだけじゃないですか。なにかを得るためにはなにかを切り捨てなきゃいけない、そんなの当然で、あなただけじゃない、みんなそうやって苦しんだり悩んだりしているのに」

 そうか、相手に踏み込まないのは自分かわいさなのか。傷つきたくないのは、自分なのか。ある理由で人を愛することに一歩とどまる葉山先生への率直な物言いは、同時に泉にも「じゃあ私はどうだろう」と返ってくるから一筋縄ではいかないのだが。

 

 これを松本潤さんと有村架純さんで映像化すると、世界観を壊さずはかなげに作り上げられるような。島本作品はどれもカバーの写真が作品の印象にぴったりで何とも言えない色気や奥行きがあるが、本作も例外でなく、だからなんとなく実写化もうまくいくんではないかと思う。カバーの背景は新緑にも、しとしとと降る雨に見えるのも、読後の余韻が影響しているからかもしれない。

 

ここも戦場だという叫び―ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか

 

ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか (集英社新書)

ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか (集英社新書)

 

  フリージャーナリストから現役通信社記者、新聞社特派員OBなど、多種多様な国際報道従事者が、「なぜ自分は『戦場』を取材するのか」「報道はなぜ必要なのか」を経験ベースで語った本。執筆者は10人にのぼる。

 

 初めにアジアプレス・石丸次郎氏が出版の経緯に触れ、背景に日本社会の報道、それを支える社会の風潮への危機感を示している。過激派組織「イスラム国」(IS)による、後藤健二さん殺害事件で感じた「自己責任」の風潮。その後、新潟在住のジャーナリスト杉本祐一さんに国が旅券返納命令を出した事件。紛争地や、国際政治の狭間で劣悪な環境に置かれている地域の取材が、「勝手な行為」とみなされることへ、説明責任を果たしていこうというのがその趣旨だと感じた。

 

 どのジャーナリストの経験も、肉厚だった。目の前で飛び交う銃弾。一歩で違えた生と死の境界。政府発表とは全く異なり、民間人の犠牲が明かな空爆現場。帯に書かれているとおり、「誰かが行かなければ世界を見る『眼』が奪われる」。その重みを観念論ではなく現実として理解できる内容だ。

 

 読後になおさら強まった疑問は「どうして、ここに書かれている信念の重要性は社会に共有されないのだろう」ということだった。日本国民が内向きになっているとか、ニュースが読まれなくなり大事にされなくなっているとか、返答の仕方は様々ある。でももしかしたら、危険地取材が尊ばれるのではなく責められるのは、「日本だって」、もっとえば「危険地も大変だろうけど、私だって大変なんだよ」という叫びなんじゃないかと、そんな思いがよぎった。

 それはブラック企業なのかもしれない。保活かもしれない。低賃金労働かも、過労かも、結婚できない悩みかも。孤独を抱え、顧みられなかった思いをじりじりと焦がす人たちが、果たして「戦地を取材するジャーナリストは必要だ」と思えるんだろうか。それよりも、ならば自分のこの声を代弁して、苦境を変えてほしいと思うんじゃないか。

 

 日本を飛び出して、苦しむ人々に寄り添おうとするジャーナリストを認められないのは、この社会の閉塞感より、生きづらさを示しているように思えた。

暮らしはやまない―「この世界の片隅に」

konosekai.jp

 

 「暮らしの映画」だった。

 

 「スゴ本」さんを始め、絶対みた方が良いとの評判がそこかしこから聞こえていたので劇場へ。

 (スゴ本さんの記事はこちら)

なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

 昭和20(1945)年、広島・呉。18歳で嫁いだ主人公すずさんの物語。徐々に徐々に、45年8月6日、そして8月15日に近づいていく。

 

 すごいなあというか、そうだよなあと思ったのは、どんなに戦況が悪化し、空襲が激しくなっても、生活は続いていくんだということ。食わなきゃいけない。寝なきゃいけない。この視点にはすごくはっとさせられた。たとえ大切な人を失っても、明日はやってくる。その明日を、すずさんや家族のみんなは懸命に歩いて行く。

 

 思い浮かんだ情景は、東日本大震災が起きた2011年3月の東京だった。当時、春から働く予定の会社で人手が足らなくなって、急に内勤に入ることに。そのとき、あんなにとてつもない災害の後も、こんなに駅のホームに通勤客があるもんなのかと驚いた。でもそれが本当だ。何があっても暮らしはやまない。すずさんたちも、連日続く空襲警報に睡眠を邪魔されて、辟易としながらも、ゆるゆると生きるほかない。

 

 だからこそなのか、途中から涙が止まらなかった。本当は立ち止まりたくても、生きなくてはいけないのだ。生きたいのだ。でも生きていいのか?戦争に直面したときに、「家族の戦死」や「出兵の見届け」以上に、その先も残る生と葛藤が、市民の実際の苦難なのかもしれない。

 

 ハンカチ必携。ぜひ観賞してほしい。余談で、すずさんの生きる強さは、フォレスト・ガンプに通じるものを感じた。こちらもいい映画。

 

フォレスト・ガンプ 一期一会 [Blu-ray]

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愛と時間の物語―「マチネの終わりに」

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

  「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」。書店で帯を見る度に気になっていた本。又吉直樹さんが推薦しているのもあり、ようやく手を伸ばした。

 

 これは愛の物語と同時に、時間を巡る物語なんだと感じた。愛とは何かはもちろん問われている。合わせて考えさせられたのが、人間にとって過去とは何か。今を生きるとは。そして、望むような未来を選べるのか、ということ。

 

 読む前にネタバレを含む書評は読まず、読まなくて良かったと思っている。だから自分も詳細に触れたくないし、引用も説明も控えたい。そんな思いを抱かせるのは、物語がまとう空気感、読んでいて流れる不思議な余韻であり、それを壊したくないという恐れだ。

 

 ひとつ、作者の平野啓一郎さんの「私とは何か――『個人』から『分人』へ」は本書の前に通読しておくと、ストーリーにより深く分け入っていけるように思う。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

  「私とは何か」は論考なので多少中身に触れても問題ないはずと信じるが、要するにアイデンティティを巡る問題提起。たとえば友人を前にした自分と、会社の仲間を前にした自分と、どちらも自分であるというメッセージが含まれる。自分とは一つではなく、誰かに対する自分の集合体である。この概念が「マチネの終わりに」も練り込まれている。

 

 それとツイッターなどでも盛んに触れられているが、本書の音楽世界を表現したCDがある。これは必聴。自分は読後に購入したが、主人公のクラッシックギタリスト蒔野聡史が傍らにいるような、優しい演奏に胸を打たれた。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに