読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

黒人という長い長い轍を生きよう―「世界と僕のあいだに」

 生きていくということは、過去を積み上げていくことだ。20歳なら20年。たとえ生まれて1日であっても2日であっても、今日まで生きた日数の上に人生がある。その時間の中の、思い出、楽しみ、苦しみ。まるで足跡のように、過去はたしかに消えないものとしてそこにあって、それは自然と、未来への歩みを方向付ける。本書「世界と僕のあいだに」は、黒人の父が、黒人の息子に、過去を、それも息子が生まれる前から連綿と続いた黒人差別、黒人奴隷の「轍」を伝える、長い長い手紙だ。

世界と僕のあいだに

世界と僕のあいだに

 

  アメリカにおいて黒人はかつて、奴隷だった。人種差別を受け、公民権運動の果てにようやく権利を勝ち取った後もなお、不条理を受けてきた。それは、黒人以外の立場から見れば、過去から未来へ紆余曲折をへて伸びる道かもしれないが、当事者にとっては、無数の苦しみの足跡の集合体だ。それを著者タハナシ・コーツは、こんな言葉で表現している。

 「奴隷制」は漠然とした肉の塊ではない。それは具体性を持った、奴隷にされた女性のことだ。彼女の頭脳はお前自身の頭脳と同じように活発に働くし、感情はお前の感情と同じように豊かだ。(中略)

 この女性にとって、奴隷であることは寓話(パラブル)ではない。地獄に落ちることだ。明けない夜だ。そしてその長い夜が、僕たち黒人の歴史の大半を占める。僕たちがこの国で奴隷にされていた年月が、自由になってからの年月より長いことを絶対に忘れてはいけない。二五〇年の間、黒人は鎖につながれるべく生まれてきたことを忘れてはいけない―どの世代の後にも鎖しか知らない世代が続くだけだったんだよ。(P84)

 

 その足跡を見つめたとき、足跡を作ったその足は、まさに自分の足と同じなんだと気付く。「黒人の肉体」が、いまも簡単におとしめられうること、それが紛れもない現実であることを、コーツ氏は指摘する。「黒人の肉体が破壊されやすい」証左は、毎年のように起こる、白人警官による黒人の射殺事件だ。コーツ氏の友人プリンス氏もまた、こうした事件の被害者となり、命を落とした。

 それに、略奪されるのは、プリンスひとりに留まらない。彼に注がれた際限のない愛を考えてほしい。モンテッソーリ法の授業や音楽のレッスンを考えてほしい。彼をフットボールの試合やバスケットボールの大会、リトルリーグへ連れて行くのに使ったガソリンと、すり減ったタイヤを考えてほしい。お泊まりパーティーをアレンジするのに費やした時間を考えてほしい。(中略)交わしたすべての抱擁を、内輪のジョーク・習慣・挨拶・名前・夢のすべてを、その肉と骨の器に注がれた黒人一家の知識と能力のすべてを考えてほしい。そして、その器が奪われ、コンクリートのうえで砕け、その神聖な中身が、彼に注ぎ込まれたすべてが、流れ出して大地へと還ってゆくことを考えてほしい。(P95)

 

 長い手紙で父から子に伝えたかったことは、歴史と自らの過去が地続きであることにとどまらない。大切なのはそこでどう生きるか。それは「この道の上にたって闘うんだ」というメッセージだ。ここで、タイトルの「世界と僕のあいだに」につながっていく。

 僕を世界と隔てていたのは、僕らが生まれつき備えているものなんかじゃなく、僕らにレッテルを貼り、僕らにできる現実の行動より彼らが貼ったレッテルの方がだいじだと信じ込もうとする連中によって加えられる「現実の危害」なんだってね。(P138)

 まぎれもなく、黒人であるからこそ、強いられた足取りだった。ただそれは、「黒人であるから」当然の道ではない。あくまで人種をもって差別をする「現実の危害」が歩ませたものだ。その違いが、世界と僕の「あいだ」にたしかに存在することを、コーツ氏は見抜いている。

 だからこそ、コーツ氏は闘えと鼓舞する。轍は、それが強いられたものであっても、黒人が塗炭の苦しみをへて、生み出したものだ。一方で「現実の危害」を加える「連中」のためでなくていい、あくまで自分のための闘いなんだと説く。

 サモリ、僕は自分たちが連中を止められるとは思っていない。なぜなら、最終的に連中を止めるのは連中自身でなくちゃならないからだ。ただそれでも、僕はお前に闘争するのを求める。お前の祖先の記憶のために闘うんだ。知恵のために闘うんだ。「メッカ」の温もりのために闘うんだ。だけど「ドリーマー」の連中のためには闘うな。連中のためには、願ってやれ。(P172)

 

 黒人を生きる。長い長い轍を受け入れて、歩こう。息子の背中を押す言葉に、勇気をもらえるはずだ。読み終えたとき、自分は「僕ら」なのか「連中」なのか、そして自分にとっての轍はどこから来たものなのか、考えずにはいられない。

痛みはその人のものだ―「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」

 傷つくことと、傷つけられることは、どう違うのだろう。それは同じ傷であっても、同じ痛みではない。本書「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」は、誰かから暴力を受けるということが一体何を意味するのか、「暴力を受けた側」の言葉で、それも当人たちの普段通りの言葉で、描き出している。

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裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

 

  筆者の上間陽子さんは教員であり、大学の研究者として困難を抱えた女性の支援に取り組んできた。彼女が沖縄の風俗業界で働く女性の話を聞き取り、その一部を報告してくれたのが本書だ。上間さんの目線には体温がある。それは冒頭の、暴力とは何かを語る一文に現れる。

 私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。(P6)

 この定義は、暴力を加える側からや、それをどこか安全地帯から見つめる視座から生まれていない。おさえつけられ、なぐられ、泣き叫んでもやまない状況に立たされた、その人にとっての暴力だ。

 

 上間さんが出会った女性は、こうした暴力をいくつも受けている。ただ上間さんは、それを無理やりには引っ張り出さない。被害者の痛みを、被害者の言葉で語ってもらえるように、懸命な姿勢がある。痛みは、ほかのだれでもない、本人のものだからだ。

 亜矢、という望まない妊娠をした女性に付き添って、病院を訪れたシーンが印象的だ。対応した医師は「(亜矢の)お母さんには話せないんですか?」とか「子どもは誰の子どもですか?」「一人目の子どもの父親はだれですか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせる。どれも望まない妊娠をした女性にとって、答えること自体が苦しい。

 そもそも「妊娠すること」は、そのひとの置かれた生活の文脈によって異なる意味をもつ。妊娠を望んでいるならば、それは幸せなことのひとつになるし、妊娠を望んでいないならば、それは苦悩のひとつになる。それでも病院は、妊娠という出来事を媒介にしながら、産める状況にいる女性をよきものとし、産めない状況にいる女性を否定しようとする。(P143)

 筆者の怒りは、同じ瞬間に自分にも向いていく。

 あなたが知っている生活がすべてではないと、その医師の顔をひっぱたいてやりたいとわたしは思った。だがその一方で、自分にも怒っていた。亜矢に関わることを話すのは、亜矢でなくてはいけなかった。自分の顔もひっぱたいてやりたいと思いながら、硬い椅子に座って亜矢を待つ(P143-144)

 一方で、医師とは異なるまなざしで、亜矢に向き合う人もいる。

 看護師は、別室に移動するように亜矢を促して、亜矢を椅子に座らせてから、もう一度手術の同意書を取り出すように話した。それから名前を記入する箇所をマークし、同意書の必要な理由を説明し、メモ帳にカレンダーを書いて、「手術の日まで体調を整えないといけないよ」と亜矢にいった。そして「仕事なに?」「飲み屋」「だったら仕事は休んだほうがいいんだけど」と話した。「ま、休むよ」と亜矢はいって、それから「エイズだったらできない?」と尋ねた。それを聞いた看護師は目を丸くして「はぁ、もう、あんたよ、だったら大変さ、もう」、と亜矢の膝をぴしゃっと叩いた。(P144)

 看護師は、亜矢に向かって語りかけている。看護師にとってどうかではなく、亜矢にとっての不安(エイズだったら手術ができないのか)に向き合っている。そしてそれを社会常識の尺度で断罪はしない。「だったら大変さ、もう」と、心配することからスタートする。

 いま、苦しみを抱える人が読めば、それを言葉にする方法を、そこからわずかな光を見いだす方法を、見つけられる気がする。あるいは苦しむ人がそばにいるのなら、その苦しみにどう接せられるかも、考えられる一冊だ。

音楽海賊一代記―「誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち」

 

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち

 

  泥棒、強盗、窃盗犯、盗人。盗む人の呼称は数あれど、別格の格好良さを備える言葉がある。海賊。「著作権を侵害する違法コピー」も、「海賊版」と呼べば、とたんにアナーキーな響きを持つ。

 

 本書はミュージックの音源を発売前に違法に入手し、ネットにリークし、音楽を「CD(あるいはレコード、LP)で買うもの」から「タダで聴くもの」に変化させた音楽海賊の物語だ。

 

 ◎書き手は海賊版ユーザー

 著者が海賊を取り締まる音楽業界の側ではなく、ユーザーの側であることが、本書をドラマチックにしている核心だと思う。スティーヴン・ウィット氏は「僕は海賊版の世代だ」と打ち明ける。1979年生まれ、1997年に大学に入った彼にとって、ネットで手に入るmp3ファイルは当たり前の存在だった。

 数年前のある日、ものすごい数の曲をブラウジングしていた時、急に根本的な疑問が浮かんだ。ってか、この音楽ってみんなどこから来てるんだ? 僕は答えを知らなかった。答えを探すうち、だれもそれを知らないことに気づいた。(P10)

 この素朴な疑問からスタートするからこそ、取材は「流出元」の最深部に迫る。そしてそれをレポートするにあたって、流出元を「犯人」とするような書き方をしていない。3人の主人公を設定しての群像劇という形で、「誰が音楽をタダにした」かを重層的に描いてみせた。

 

 3人の1人は、mp3の生みの親である技術者。そもそも音楽を電子ファイルとしてやり取りできる規格、CDから解放するテクノロジーがなければ、音楽は無料にはならなかった。

 そして、ウィット氏が取材に成功した、最大のリーク元。それは序盤で明かされるが、なんと米国のあるCD工場の労働者だった。

 そして最後が、リークされる側である音楽業界の敏腕ディレクター。ネットでやり取りされるヒットソング、特にラップの世界を大衆化させた人物だ。

 

◎誰が一番トクをしたか?

 帯に「まるでスリラー小説のように読ませる」(テレグラフ)とあるように、ノンフィクションというよりも小説に近い読み味。一番の醍醐味は、CD工場従業員グローバー氏が、どうやって、また、なぜ、「音楽海賊」になったのか。

 この「一代記」がスピーディーなのが、今日的だ。音楽がネットにあふれたのは、2017年現在から見てもまだ20年ほどの間の出来事。テクノロジーを語る上でよく言うように、その20年は指数関数的な変化だった。

 「主人公3人のうち、誰が一番トクをしたか」を設問として頭に置きながら読み進めると面白いと思う。グローバー氏が利益を得たのか。「ぶっ潰された」ディレクター・モリス氏が一番損をしたのだろうか。漫画ワンピースであれば、音楽海賊=グローバー氏の栄光だろう。本書は果たしてどうであろうか。

 

◎技術者=ゴールドロジャー

 主人公3人のうち、ワンピースに置き換えると、グローバー氏はルフィ、モリス氏はさしずめ海軍のサカズキ(赤犬)だろうか。この構図は分かりやすい。では、mp3の生みの親・ブランデンブルク氏は?ベガパンク?

 最も近いのは、大海賊時代の幕開けを告げた伝説の海賊ゴールドロジャーだというのが読了後の思い。mp3はリークのために開発された技術ではないし、ブランデンブルク氏は音楽海賊ではない。でも、ブランデンブルク氏がmp3という技術を信じ、確立させなければ、誰も音楽海賊にはなれなかったはずだ。テクノロジー誕生の舞台裏、一代記の「前日譚」も、非常に読み応えがある。

 

 実はmp3は、mp2という技術と次世代のオーディオ規格を争っていた。「3」は「2」に比べて圧縮スピードはやや劣るものの、音質ははるかに改善されていた。ただ当時、mp2の方が資金力のある企業の支援があり、知名度があった。その結果、mp3は規格競争に7戦0勝、全敗した。

 ここでブランデンブルク氏がmp3を捨てず、守り続け、後にシェアウェアとしてネットで開放したことで大逆転に至る。同時に、音楽のあり方が変わった。

  予想に反して、mp3は12分の1のサイズでCDの音をほぼ完璧に再現した。アダーは言葉を失った。驚異的な技術だった。アルバムがたった40メガバイトに収まるなんて! 未来の計画なんて忘れていい。今ここでデジタルジュークボックスが実現できる!

 「自分がなにをやってのけたのか、わかってる?」最初のミーティングのあとにアダーはブランデンブルクに聞いた。「音楽産業を殺したんだよ!」

 ブランデンブルクはそう思っていなかった。mp3は音楽産業にぴったりだと思っていたのだ。(P78)

  ブランデンブルク氏の言うとおり、デジタル化の技術は音楽を聴くのにぴったりで、アイチューンもスポティファイも、その延長にある。ただ、同時に、グローバー氏のような海賊に、大海原を開きもしたのだった。

化け物の姿をした人か、人の姿をした化け物か―「よるのばけもの」

 

よるのばけもの

よるのばけもの

 

 夜になると、僕は化け物になる。

 ネタバレではない。書き出しである。『君の膵臓をたべたい』で泣かされた住野よるさんの作品を水平展開。最新作「よるのばけもの」を手に取った。週刊文春の書評で彩瀬まるさんが取り上げていたのも、興味を持ったきっかけ。

 

 主人公の男子中学生は文字通り化け物になる。黒色の粒子に覆われた体表に、六つの足を持ち、八つの目玉を光らせ、四本の尻尾を操る。表紙の絵の通り、イメージは「東京喰種」の隻眼の梟のような感じだ。

 何かのメタファーか、錯覚のたぐいなのかと思ったら割と序盤に否定される。不注意で踏みつぶした犬小屋が、翌日もぺしゃんこになったままだったそうである。

 こう書いていくとSFだったりミステリーだったりと思うが、違う。カフカの「変身」ともまた違う。端的に言えば、これは「いじめ」を扱った物語だ。

(割と思い切って書いてしまうのは、彩瀬まるさんもこの点は明確にしていたからです。言い訳ですが)

 

 「僕」が夜の学校で出会った「ひとりぼっちの女の子」は、すなわち彼の通う学校でいじめにあっている矢野さつきである。女の子は昼休みを十分に味わえない代わりに、夜間に再び教室に入り込んで「夜休み」を楽しむ。夜休み中に主人公が闖入してしまった形になり、そこから不思議な交流が始まる。物語はいじめが進行する「昼」とこの「夜休み」をいったりきたりして進んでいく。

 

 いじめとはなんだろう。矢野さつきが昼を過ごす教室には、3種類の人間がいると主人公は説明する。

 一つ目は、これ見よがしに害を与え、それを面白がっているもの。(中略)

 二つ目は、敵意を明確にしてはいるが控えめで矢野が近づいて来た時にそれを表したり、地味に嫌がらせだけをしたりするもの。(中略)

 三つ目は、矢野が悪いとは思っているけれど特に行動は起こさず無視だけを決め込んでいるもの(中略)

 

 「矢野が悪いとは思って」の理由がなんなのかは本書を読んでもらうとして、これは「いじめを傍観するのもいじめだ」という正論をいいたいのではなく、いじめが起きた教室に描き出されるグラデーションを率直に描写したものだと感じた。すなわちいじめは関係性なんだと思う。害を与えること、たまに嫌がらせをすること、無視すること以上に、「そういうことをされてもいい人間」を設定した上で人間関係の生態系をくみ上げていくことが、いじめの本質なんじゃないか。

 グラデーションは濃淡がかわりゆく。昨日まで無視をしていた人間が、一足飛びに害を加えても、それは紺色が青色に変わったようなもの。変わらないのは、関係性の根本にある、いじめられる誰かだ。

 

 「昼休み」はこの「世界」の上にしか成り立たないが、「夜休み」は違う。化け物の「僕」は、矢野とまた違った形で関係性を結ぶ必要に迫られる。そしてその先に生まれるのは、「昼」と「夜」のギャップ。昼が夜に、夜が昼に、影響を及ぼしていく。

 

 僕は夜になると化け物になる。しかし序盤で矢野は、僕にこんな言葉をぶつける。

 

「そっちが本、当の姿、なの?」

「……え?」

「どうし、て、人間に、化けて、るの?」

 

 昼は人間、夜は化け物。でも「いじめられる」側から見れば、「昼の人間」はいじめを前提にした関係にあり、「夜の化け物」はいじめとは無縁の関係でいれる。「いじめる側」に逆転させよう。昼の人間の自分はいじめに荷担し、化け物の自分は彼女をいじめてはいない。昼より夜の方が化け物だと、本当に言えるんだろうか??いじめの関係性をためらいなく作り、維持していく自分は、人の皮をかぶった化け物ではないとなぜ言えるんだろうか??

 

 はざまを転がりながら「僕」がどこに行き着くのか。夜はどう推移し、昼はどう変わるのか。ぜひ見届けていただきたい。

 面白ければぜひ「君の膵臓をたべたい」も。レビューはこちら(※ネタバレはほぼほぼありません)

 

dokushok.hatenablog.com

 

被害者が責められる犯罪―「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」

 

  大切な人の命を奪われた。取り返しのつかない怪我を負わされた。空き巣に入られて家財道具を盗まれた。そのとき、周囲の人々や、もっとひろく社会は、被害者になったその人をいたわるだろう。つらかったね、と。一方で、「あなたが悪かったかもしれない」というまなざしを向けられる犯罪被害が存在する。それがレイプ(強姦、強制わいせつ、性的暴力)だ。

 ジャーナリストのジョン・クラカワー氏がレポートした本書「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」(菅野楽章氏訳、亜紀書房)は、レイプ被害者が二重にも三重にも傷付けられ、レイピスト(加害者)がいかに裁かれないかを、緻密な取材の積み重ねで明らかにしてみせる。本文は約500ページ。しかしそのほぼ全てが被害者へのインタビューや陪審裁判の様子などの具体的な事実で構成され、思わず次を読ませる内容だ。

 

◎加害者への甘さ=「女の子の落胆」扱い

 タイトルのミズーラは米モンタナ州にある都市の名前で、クラカワー氏はこの街にある名門大学で起きたレイプ事件を取り上げている。むしろ、その事件のみを虫の目で丹念に調べていくことで、日本にも通じる「レイプと社会」の問題をあぶり出す。

 加害者への甘さへつながる大前提に、レイプの実態と社会認識のずれがある。夜道や人けのない場所で、突然、見知らぬ人間に襲われることがレイプの典型的なイメージだろう。しかし、実際は被害の8割以上が顔見知りの犯行だという。このずれから生まれてくるのは、友人や親族からの被害を訴えた女性/男性への、「嘘つき」「誤解だ」という反応だ。実際、強姦罪での訴追を渋った検察官は、こう語る。

 パブストはこう言い放った。「陪審員のみなさん、この事件の本質はレイプではなく、一人の女の子の落胆なのです」。大きな期待を抱いていた性行為がうまくいかなかったことへの失望が、ミズーラのレイプスキャンダルという「迫りくる嵐」によってレイプ被害の告訴というかたちに変わった、というのがパブストの主張だった。(P334)

 レイプが法律上、重罪にされていないわけではない。その審理にたどり着く前に、人々の「常識」が、加害者の無罪放免を許している。著者はそれを「掟の門前に門番が立っている」と看破した。

 

◎被害者=終わらない自己否定

 加害者を守る地域や社会の実相が解き明かされるのと並行して、レイプ被害者の深い痛みが伝えられる。どれだけレイプへの知識がなくても(自分もだ)、そのつらさがなんたるかは必ず胸に迫ってくる。

 ある被害女性は、加害男性が自殺しようと橋から飛び降りる夢を見る。

 「(加害男性を助けようと)彼のところまで泳いでいって、岸に引っ張っていこうとしていたら、突然彼が目を覚ましました。あの表情で」(中略)「わたしのほうを見て笑ってるんです。それでわたしは、彼は溺れてなんかいなかった、自殺するために橋から飛び降りたわけじゃなかった、と気づきました。ボーはわたしをつかんで、水中に押し込んで、溺れさせようとしてきました」。そこで(人名略)は目を覚まし、恐怖に怯えたという。「(中略)まだボーを―幼馴染みを―を信じたいという思いがあって、その現実と格闘していたんだと思います」(P242)

 顔見知りからのレイプは、身体への侵略にとどまらず、培ってきた信頼をすべて破壊する行為でもある。それに加えて、周りは「女の子の落胆」という目でも見てくるのだ。「私が悪いの?」「彼を信じればいいの?」。でも、そんなの無理でしょう、と読んでいて叫びたくなる。なんで「傷付けられた側」にさらなる努力を求めるの??

 絶えず繰り返す自己否定と、「人を信じること」を失い、取り戻すのが困難であることこそ、レイプが「魂の殺人」と呼ばれる理由だと感じた。

 

 ◎アメリカでこうなら、日本は?

 衝撃を受けたのは、「アメリカでこうなの?」ということ。読む前のイメージで、性犯罪への「厳格さ」は、少なくとも日本よりも持っている国だと思っていた。

 実際、日本にはない進歩的な側面は本書でも描かれている。たとえば、舞台になった学校では、一般の刑事裁判とは別の「大学裁判所」が存在し、独自にレイプ加害に対して「大学からの除籍」などの制裁を課すことができる。しかも、刑事的な犯罪認定とは異なる「証拠の優越」という基準を採用していて、実際にレイプ被害があったとみてしかるべき証拠があれば、加害行為の立証は十分となる。(いわずもがなだが、刑事罰ではなく大学としての処分なので、証拠の優越という判断基準が採用できている。刑事罰もこうしたらいいかは別問題)。

 また、地元紙「ミズーリアン」の存在感も大きい。レイピストが在籍する大学は名門であり、わけても彼らが所属するアメフト部は「地域の誇り」だ。しかしミズーリアンは臆せず、被害者の話を丹念に聞き取り、被害者の側に立って報道する。

 それでも、なのだ。それでも加害者は許され、被害者は責められる。だとすれば、日本のレイプ被害者はどれほど苦しんでいるだろうか。恐ろしくなった。

アートミステリーという二重らせん―「神の値段」

 

神の値段 (宝島社文庫)

神の値段 (宝島社文庫)

 

 旅先、出張先で手持ちの本を読み終わってしまうことは、本読みあるあるだと思う。ただ宿泊地や中継駅に必ずしも本屋がない。そんなときに頼りになるのが、キヨスクや駅構内のコンビニに置かれている文庫本。本書は、そんな棚で見つけた一冊だった。

 

 キヨスク棚(あるいはコンビニ棚、セブン―イレブン棚でもなんでも) は急に活字に飢えた中毒者への「特効薬」を意識してか、「誰にとっても絶対に外れなさそうな作品」をそろえてくれている気がする。たとえば西村京太郎。たとえば赤坂次郎。そして「このミステリーがすごい!」大賞作品で、「神の値段」は第14回の受賞作という。

 ミステリーの中でも、「アートミステリー」にあたる。なんと著者の一色さゆりさんは現役の学芸員!!大森望さんの解説で触れられている経歴によると、1988年京都市生まれで、東京芸術大学を卒業し、東京のギャラリーに3年間で働いた。この間に上海、台北、香港、ソウルのアジア各国を飛び回った経験が反映されていて、「神の値段」のストーリーも日・米・香港・中国を股に掛けている。

 

 自らの姿も、声も、コメントも、何一つ表に出さず、墨と紙を使った芸術作品を世に送り出し続けるアーティスト「川田無名」。主人公は、川田作品を専門に扱うギャラリーのアシスタント佐和子だ。上司で、川田と唯一といっていい信頼関係を築いている唯子が謎の死を遂げると同時に、川田の超傑作が発掘され、取り扱うことになり―。というのが筋書きになる。

 あらすじだけ見れば、ミステリーの典型にも思える。唯子の死の真相を探るもなかなかたどり着けず、一方で超傑作を買い求めるコレクターが現れ、思惑が渦巻く。ここに、「アート」という要素が入り込むことで、とたんに物語が面白くなる気がする。

 

 それはおそらく、アートの素人にとって、アートそのものに謎が多いからだ。たとえば、芸術作品を入手するには、佐和子が勤めるような作家と直接のつながりがある「プライマリー・ギャラリー」で買うか、オークションで出品されるのを落札するかであるかということ。現代アートには、必ずしも作家が自作しなくても、弟子らにディレクションすることで「作家の作品」となるケースもあること。自分にとっては初耳。ミステリー自体の謎に、知らなかったアートの世界が絡まって、二重らせんを描いていく。

 

 知らない世界に足を踏み入れる快感だけでなく、普遍的な問いかけにもあふれている。たとえば、オークションの落札額と作品の価値をめぐるやり取り。

 「価格というのは、需要と供給のバランスに基づいた客観的なルールから設定される。一方で値段というのは、本来価格をつけられないものの価値を表すための、所詮比喩なんだ。作品の金額というのは売られる場所、買われる相手、売買されるタイミングによって、常に変動し続ける」

 「じゃあ、あの作品につけたられたのは、値段」

 

 本来価値をはかれないはずの「美」についた経済価値は、価格ではなく値段なんだ。ふむふむ。

 

 本書は、アートについて知らなければ知らない人ほど楽しめる気がする(詳しい人は詳しいゆえの頷きをもって読めるのだろうから、それはそれでうらやましい)。前回レビューした成毛さんの「AI時代の人生戦略」(SB新書)では、科学技術への素養や未来への想像力はSF作品で学ぶようアドバイスがあるけど、同様に「STEAM」のA(Art)はアートミステリーで学べるのでは。原田マハさんの「楽園のカンヴァス」などで。そんなことを思いました。

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

 

  改めて成毛さんの本もおすすめです。

 

dokushok.hatenablog.com

 

羅針盤をインストールせよ―「AI時代の人生戦略 『STEAM』が最強の武器である」

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AI時代の人生戦略 「STEAM」が最強の武器である (SB新書)

AI時代の人生戦略 「STEAM」が最強の武器である (SB新書)

 

  STEM、あるいはSTEAM、OK Goのすごさ、クオンツ、セルロースナノファイバー、AI「Watoson」、フィンテック…。ここに出る単語のうち一つでも「ん?」となる方は、いますぐ本書を手に取るべきだ。ハウツー本ではない。教養本でも。これからを生きるために必要な、羅針盤だ。

 

 STEAMとは、STEMに筆者がAを足したもの。これが羅針盤の正体になる。

 サイエンス(科学)の「S」

 テクノロジー(技術)の「T」

 エンジニアリング(工学)の「E」

 マセマティックス(数学)の「M」

 Aはアート(芸術)の「A」だ。(~P36)

  STEAMは、既に社会を左右し、未来を変革していく要素だと筆者は説く。ゆえに、学ばなければこれからの世界を生きていけない、と。

 まさにこれを実感したニュースが最近あった。日経新聞が言語理解研究所(ILU)と東京大学松尾豊准教授研究所とチームを組んで導入した「完全自動決算サマリー」だ。

pr.nikkei.com

 人工知能(AI)が上場企業が発表する決算データを記事化、自動で配信するサービス。そこに「人によるチェックや修正などは一切行いません」という。できあがったものを見れば、たしかに決算情報は数字を正確に並べることが重要なので、人が書いたものと差は感じない。これまで日経新聞のプロの記者が仕事にしていたことが、人の手を必要とせず、科学と技術と工学と数学を結集したAIで十分やれてしまう、ということだ。

 

 筆者の成毛眞さんは豊富な知識で、AIをはじめとしたSTEMがどれだけ人の仕事を代替し、その代わりに新たな技術やサービスが可能になるかを解説してくれる。知的好奇心が刺激されると同時に、「今すぐ学ばないとマズイ」と背筋が凍る。自分の仕事がいつなくなってしまうか、代替されてしまうか分からないからだ。

 

 とりわけ強烈なパンチになるのが、文科省大臣補佐官の鈴木寛さんと、堀江貴文さんとそれぞれ行った対談だった。鈴木さんも堀江さんも、STEAMを理解すると同時にアンテナを張り巡らしていて、教育の未来からロケット技術まで、話は次々に展開する。「このレベルの会話をスタンダードにできないと、社会について行くにはお話にならないのか…」とくらくらしてくる。

 鈴木寛さんとはこんな会話が出てくる。

 成毛:今となっては、経営者として当たり前ですよね。今さらSTEMをわかっているからといって安心はできません。

 鈴木:すでに教育界では、STEMだけでは不十分だと考えていて、シンギュラリティ以降は、善と美が人間の仕事として残ることを前提とした話をしています。

 成毛:つまり、AIに使われるだけの人間にならないためにSTEMは必須だし、AIを利用した仕事をするためには善と美が理解できないといけない。(P109)

 

 A(芸術)が加わるゆえんだ。STEMはいままさに、社会の変化について行くための必須要件。そこでAを加えることで初めて、未来を生き抜ける可能性が出てくる。

 

 後半には「今すぐ読みたい本」として推薦図書も挙げてくれている。一つ前にレビューした「限界費用ゼロ社会」が上がっていたが、たしかにかの書を読んでから成毛さんの本に触れると、内容がリンクして、もっと知識をつなげたいと思える。 

dokushok.hatenablog.com

  それと、すぐに書店に行って「星を継ぐ者」(ジェイムズ・P・ホーガン著、池央耿訳、創元SF文庫)も購入、読んでいる最中。SFを読め、との薦めに素直に応じました。

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

  繰り返すが「今すぐ」読むべき一冊である。でないと、成毛さんの教えもやがて役に立たなくなる。そのくらいのスピード感で社会は動いているようだ。羅針盤はさっさとインストールして、次の読書でどんどんアップデートしなければ。

資本主義の「次」―「限界費用ゼロ社会」

 

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

 

  資本主義に未来はあるのか。取って代わる次の経済システムは存在するのか。本書はその問いに、自信を持って、大胆な答案を示す。それは「共有型経済」。自信を持って、というのが単なる未来予想と異なる点だった。著者のジェレミー・リフキン氏は断言する。共有型経済は資本主義を浸食するにとどまらず、代替する。新たなパラダイムになる、と。なぜ、そう言えるのか。

 

パラダイムシフト=コミュニケーション×ロジスティクス×エネルギー

 経済制度が代替する、いわゆる社会にパラダイムシフトが起こるための条件として、著者は①人と人とのコミュニケーション媒体の変化、②人や物を運ぶ輸送手段、ネットワークの変化、③いずれをも支える新エネルギー(動力源)を挙げる。

 コミュニケーションがなければ、私たちは経済行動を管理できない。エネルギーがなければ、情報を生み出すことも、輸送手段に動力を提供することもできない。輸送とロジスティクスがなければ、バリューチェーンに沿って経済活動を進めることはできない。(P31)

 たとえば、社会を工業化した第一産業革命は以下の通り。

 産業革命=高速印刷×機関車×蒸気

 石油エネルギーの登場は

 電話×内燃機関(車、エンジン)×石油

 だった。そして著者が台頭を明言する共有型経済は

 共有型経済=インターネット×分散型ネットワーク×再生エネルギー

 となる。社会が変革し、新たな「スマートインフラ」が生まれる素地があると言うのだ。本書はこの歴史的な流れについて前半で丁寧に解説してくれる。

 

◎資本主義は「限界費用ゼロ」を生み出す

 共有型経済とは、あらゆるもの・情報・サービスがシェアされる経済を指している。それは、資本主義の最終形が限界費用ゼロ、すなわち何かを生み出すための費用が限りなく0円に近づくからだという。

 一例が「3Dプリンター」。驚いたのが、いまや家すらも3Dプリントで建築できるということ。月の砂を原料に、月面に機械が自動で家を造る計画もある。車もだ。こうしたものまで安価に、しかもその土地その土地で生産できれば、「住む」も「移る」も抜本的に変わってしまうであろうことはうなずける。

 製造業に限らず、サービスもだ。教育では「大規模公開オンライン講座(MOOC: Massive Open Online Course)」がある。2012年にハーバード大とMITが共同で開講したエデックスという講座では、15万5000人が受講。これはMITの設立以来150年間の卒業生と同じだという。

 「分散型ネットワーク」とは、これまである工場、ある大学でした生み出せなかった何かが、このように水平的、分散的に、どこでも、大規模な資本を必要としない形で生み出せること。そうしてあらゆるものが大衆化すると、ものの希少性がどんどんなくなり、結果として、資本主義の根本である「利益」が霧消する、という。

 

◎所有からシェアへ

 そうしてあらゆるものが「潤沢」になれば、ものを「持つこと」の価値より、必要な時にものへアクセスし、それ以外は共有することが価値になる、というのだ。これはカーシェアなどの分野で既に現実化している。

 シェアすることがさらなる価値を生む点にも触れている。たとえば、難病患者のオンライン・ネットワークでは、医師の疑念に反して、当事者同士の活発な情報交換で疑わしい治療情報の誤りが正され、体調管理や副作用に関する知見が高まった。インフルエンザの流行予測では、ツイッターのつぶやきによる予測の精度がどんどん高まっている。

 

 本書の醍醐味は、この主張を読み進める中で論拠として挙がる豊富なケースだ。共有型経済が資本主義を完全に飲み込むと納得できるかはともかく、その胎動が想像以上に大きいことを実感できるはず。IoT(あらゆるもののインターネット化)ってどういうことなの?と言うレベルだった自分には、洪水のような情報量だった。

この言葉以外に、ない―「君の膵臓をたべたい」

 

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 買った。読んだ。読む手が止まらなかった。読み終えて涙が止まらなかった。

 

 圧倒的なインパクトがあるタイトルで、書店で見かける度に気になっていた。ただあまりに印象が鮮烈すぎて、読み終わった今となってはまったく的外れで申し訳ないのだが、「膵臓食べるって、やばい奴が主人公なのか?もしや受け狙いか」と、うがって見てしまっていた。住野よるさんに心からおわびしたい。恥ずかしい。

 

 実際は、このタイトル以外にないのだ。

 

 その理由をお伝えするために、あらすじや登場人物の台詞に触れることは残念ながらできない。というか、しない。おそらくどんなに簡略化したあらすじもネタバレにつながってしまうであろう。それでこの素晴らしい物語を損ねたくない。事実、今販売されている本書や帯には、なんの概略も記されていない。「読後、きっとこのタイトルに涙する」とは書かれている。その通りだ。付記されている読者の声も「3回読みました。50過ぎのおっさんをその度に泣かせる青春小説がかつてあっただろうか」。まさに。

 

 唯一、表紙の絵については触れてもいいだろうか。小説の世界観がにじみ出る素敵な絵だ。

 淡い桃色をした、満開の桜の木のそばの河川敷。腰まで伸びた黒髪を風に揺らせた少女がほほえみ、川にせりでたちょっとした広場?の手すりに身を預けている。もう1人、同じくらいの年代の男の子が写るが、こちらに向けて背を向ける形で手すりに寄りかかり、本を読んでおり、表情は伺えない。二人とも制服姿。空は柔らかい青空で、日差しはふんわりと、春の気配がする。

 まさに、そういう世界でめくるめく物語だった。痛みや悲しみを、そっと受け止めてくれるような優しさが、ちゃんとある世界。

 

 そこで、登場人物は「君の膵臓をたべたい」という言葉にたどりつく。この言葉以外に、ない。自分の思いを乗せるたった一つの言葉に出会うまで、歩み、関わり合う、その尊さと苦さを教えてくれる小説だった。

そんな自分も悪くないかも―「非モテの品格 男にとって『弱さ』とは何か」

(2017/10/09更新) 

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非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

 

  表紙の帯に漫画が書いてあると、それだけで「ライトな内容なのかな」と疑ってしまう、正直なところ。書店で見ても手に取らなかった本書が、年末の朝日新聞である選者の(メモし忘れ)「今年のベスト」に選ばれていたことから、半信半疑で読んでみた。

 

 良い意味で裏切られた。重厚。新書の形をした小論文というのが実態で、先行する研究者や哲学者の言葉が多数引用され、言葉を紡ぎながら一歩ずつ思索の地平を広げていく。

 キーワードとなるのは3つで、2つはタイトルにも入っている「非モテ」と「男の弱さ」。そして最も救いを与えてくれるあと一つが「自己尊重」だ。

 

男の弱さ=自らの弱さを認められない

 第1章はメインタイトルの「非モテ」には触れず、「男の弱さ」から探求が始まる。そう、本書は非モテ解消のハウツーではない。弱さと向き合うための足がかりである。

 男の弱さとは何か。著者の杉田俊介さんは、鮮やかに表現する。

 男の弱さとは、自らの弱さを認められない、というややこしい弱さなのではないか(P15)

 男性社会の日本にあって、男はマイノリティではない。男は多数派だ。強者だ。恵まれている。男は強くあれ。「男らしくあれ」。一方で、家庭も大事にできなければ真の男ではない。そういうメッセージを感じ取って、つらくてもつらいと言い出せない。「俺はそんなに強くないよ」と正直に言えない。脆さとか、非力さとは異質の弱さが、そんなところにあるんではないかと指摘している。

 それは、自らを追い込む弱さでもある。できない自分が悪い。自分の力が足りないんだ。弱さを言い換えれば「否認の病」だと、筆者はたっぷり60ページほどをかけて、丁寧に描き出してみせる。

 

非モテは化膿

 続いて2章で、「非モテ」に話が移る。自分も無自覚に使っていた「非モテ(もてないコンプレックス)」について、本書は三つの類型を上げている。

 ・非モテ1=モテたい、という欲求

 ・非モテ2=愛したいし愛されたい、という欲望

 ・非モテ3=「性愛的挫折」がトラウマ化し、日常的に苦しめられる状態(P93-96など)

 

 「なるほど」と思わされるのが、非モテはもてたいだけでも、愛されたいだけでもないんだということだった。恋人ができても、非モテ意識に苦しむことがあると筆者は例示する。それが類型の3番目だと。

 第1章に絡めて言えば、弱い自分の否認、認められずにいる状態。もてない自分が嫌で、でもそれを表だって表現もできない苦しみ、「化膿した」弱さが、非モテだと論じている。

 

自己肯定ではなく、自己尊重

 杉田さんがタイトルに「品格」を入れた理由は、最後のキーワード「自己尊重」を分かりやすく伝えたかったのではないかと読後に思う。これが、処方箋というときれいにまとめすぎることになってしまうが、男の弱さに、非モテに自縄自縛している男たちへ送る、小さなエールなんだと思う。

 自己尊重とは何か。胸を打ったのは次の一文だった。

 「こんな人間になりたい。だから努力する。でも、そうはなれない」「頑張ったけれど、どうしてもダメだった」。これまでの人生の中で、そうした失敗や間違いを繰り返してしまったこと、それらのプロセスを決して丸ごと肯定はできなくても、ただ、それそのものとしては尊重できる。そしてその小さな尊重の気持ちが、これから自分を変えていくための、ささやかな足場になり、足がかりになっていく。その程度の自己尊重であれば、誰にでもできるのではないか。(P137)

  自分はできるんだと言い聞かせる、自己肯定ではなくていい。だめだなあ、自分。いいよ、いいよ。そんな自分も悪いかもしれないよ。とりあえず、いいじゃない。そんな、やり過ごしというか、ちょっと自分の肩をもんであげるぐらいの、小さな小さな励ましが、杉田さんの提示してくれた自己尊重なんだろうと感じた。

 

 ここまでの流れを、ゆっくり解きほぐして、何度もかみ砕いて導いてくれるのが、本書のすばらしさだと声を大にして言いたい。ほかにも「ルサンチマン」「タナトス」「アディクション」などのワードを手掛かりに、自分の弱さの輪郭をよりはっきりさせてくれるインク、筆を与えてくれる。

 

 読んでいるうちに自分の弱さを顧みて、そこにもやもやとしてしまった自分はちゃんと消化できていないのだが、本書のゴールは自己尊重の《さらに先》にある。それは男の弱さからさらに視界を広げて、たとえば障害者や赤ちゃんなど、社会的に弱者とされるひとの「弱さは本当に弱さなのか」と問い掛けるものだ。

 

 なんで自分はこんなにダメなんだろう。あるいはサブタイトルの「男にとって弱さってなんなの?」と少しでも感じた人は、新たな視座を得られる一冊になるはず。

 

 今回紹介した本はこちらです。

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)

 

 

 弱さの複層的な側面に目を向けるように、他人が語り得ない「痛み」について新しい景色、言葉をみせてくれるノンフィクションとして「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」をお勧めします。本書ともリンクする内容。

www.dokushok.com

 

 弱い男をこれほどまで魅力的に描いた小説は少ないと思います。又吉直樹さんの「演劇」も、自分をうまく認められない弱さが主題の一つかと思います。

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