読書熊録

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痛みはその人のものだ―「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」

 傷つくことと、傷つけられることは、どう違うのだろう。それは同じ傷であっても、同じ痛みではない。本書「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」は、誰かから暴力を受けるということが一体何を意味するのか、「暴力を受けた側」の言葉で、それも当人たちの普段通りの言葉で、描き出している。

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裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

 

  筆者の上間陽子さんは教員であり、大学の研究者として困難を抱えた女性の支援に取り組んできた。彼女が沖縄の風俗業界で働く女性の話を聞き取り、その一部を報告してくれたのが本書だ。上間さんの目線には体温がある。それは冒頭の、暴力とは何かを語る一文に現れる。

 私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。(P6)

 この定義は、暴力を加える側からや、それをどこか安全地帯から見つめる視座から生まれていない。おさえつけられ、なぐられ、泣き叫んでもやまない状況に立たされた、その人にとっての暴力だ。

 

 上間さんが出会った女性は、こうした暴力をいくつも受けている。ただ上間さんは、それを無理やりには引っ張り出さない。被害者の痛みを、被害者の言葉で語ってもらえるように、懸命な姿勢がある。痛みは、ほかのだれでもない、本人のものだからだ。

 亜矢、という望まない妊娠をした女性に付き添って、病院を訪れたシーンが印象的だ。対応した医師は「(亜矢の)お母さんには話せないんですか?」とか「子どもは誰の子どもですか?」「一人目の子どもの父親はだれですか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせる。どれも望まない妊娠をした女性にとって、答えること自体が苦しい。

 そもそも「妊娠すること」は、そのひとの置かれた生活の文脈によって異なる意味をもつ。妊娠を望んでいるならば、それは幸せなことのひとつになるし、妊娠を望んでいないならば、それは苦悩のひとつになる。それでも病院は、妊娠という出来事を媒介にしながら、産める状況にいる女性をよきものとし、産めない状況にいる女性を否定しようとする。(P143)

 筆者の怒りは、同じ瞬間に自分にも向いていく。

 あなたが知っている生活がすべてではないと、その医師の顔をひっぱたいてやりたいとわたしは思った。だがその一方で、自分にも怒っていた。亜矢に関わることを話すのは、亜矢でなくてはいけなかった。自分の顔もひっぱたいてやりたいと思いながら、硬い椅子に座って亜矢を待つ(P143-144)

 一方で、医師とは異なるまなざしで、亜矢に向き合う人もいる。

 看護師は、別室に移動するように亜矢を促して、亜矢を椅子に座らせてから、もう一度手術の同意書を取り出すように話した。それから名前を記入する箇所をマークし、同意書の必要な理由を説明し、メモ帳にカレンダーを書いて、「手術の日まで体調を整えないといけないよ」と亜矢にいった。そして「仕事なに?」「飲み屋」「だったら仕事は休んだほうがいいんだけど」と話した。「ま、休むよ」と亜矢はいって、それから「エイズだったらできない?」と尋ねた。それを聞いた看護師は目を丸くして「はぁ、もう、あんたよ、だったら大変さ、もう」、と亜矢の膝をぴしゃっと叩いた。(P144)

 看護師は、亜矢に向かって語りかけている。看護師にとってどうかではなく、亜矢にとっての不安(エイズだったら手術ができないのか)に向き合っている。そしてそれを社会常識の尺度で断罪はしない。「だったら大変さ、もう」と、心配することからスタートする。

 いま、苦しみを抱える人が読めば、それを言葉にする方法を、そこからわずかな光を見いだす方法を、見つけられる気がする。あるいは苦しむ人がそばにいるのなら、その苦しみにどう接せられるかも、考えられる一冊だ。