読書熊録

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ひとり飯も悪くないと思える小説4選

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

 小説の食事シーンの中には、かぐわしい匂いや料理の色合いまで鮮明に浮かぶような、思わず「食べたい」一コマがある。「何を食べるかより、誰と食べるか」とは言うものの、ひとり飯も悪くない。そう思えるような作品を挙げてみました(一部、既に譲渡などして手元になく、うろ覚えも含む)

 

①「BAR追分」(伊吹有喜、ハルキ文庫)

BAR追分 (ハルキ文庫)

BAR追分 (ハルキ文庫)

 

  小説版「深夜食堂」ともいえるような空気感。夜はバー、昼はバールのお店を舞台に、人生に立ち止まる人と、そこで出される一品が描かれる。印象に残っているのは、あたたかなスープと男性の話。新しい一歩を踏み出すにあたって、そのスープのぬくもりを思い出す様子に、ひとり飯は、ある意味「自分だけの味」で、ひっそりと背中を押してくれるものなんだなと思わされる。

 

②「アグルーカの行方」(角幡唯介集英社文庫

  北極で壮絶な最期を遂げたフランクリン隊の足取りを、著者が実際に追っていくノンフィクション。雪原の行軍はすさまじいカロリーを消費し、栄養食(チョコレートなどだったと記憶している)を喰らう姿は、読者も極限状態のその場所に連れて行ってくれる。飯はそもそも「生きるために食べる」、その当たり前がひとり飯の味をも押し上げてくれる気もする。

 

③しゃぼん玉(乃南アサ新潮文庫

しゃぼん玉 (新潮文庫)

しゃぼん玉 (新潮文庫)

 

  無軌道に通り魔や強盗を繰り返した青年が、迷い込んだ山村で自らの罪に向き合えるようになるまでの物語で、食事は「孤独」と「人の優しさ」を対比する象徴として描かれる。自損事故で怪我をした老婆を助け、その家で近所のおばあちゃん仲間が振る舞ってきたソバや煮物、漬けものを食べるシーン。

 蕎麦など、ほとんど食べたことはなかった。麺類といったらラーメンか、せいぜいうどんに決まってる。だが、こんなにうまいものだとは思わなかった。初めての香りだ。ラーメンとも、うどんとも異なる歯ごたえだ。(中略)

 一つ。二つ。三つ。つい数えたくなるほどの器が並んでいる。それらを眺めるうち、もうずいぶん長い間、器一つで済んでしまう、または食器さえも使わないような食事の仕方しか、してこなかったのだと思い至った。ハンバーガーは紙包みだけだし、あとはほとんどが、使い捨ての容器や丼一つで済むものばかり。(P56)

  ひとり飯が寂しいのは、そこに人の手間暇を感じられないからかもしれない。手間暇を掛けることは、思いやりの現れ。だとすれば、自分の、自分のためだけのご飯にも、手間暇をかけてやれはしないか。それだけで、ひとり飯もぐっと温かになる。要するに、自炊しようと思わされた。

 

騎士団長殺し村上春樹、新潮社)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

  最近読んだからか、真っ先に浮かんだのは本書。主人公の「私」は妻に別れを切り出されて家を飛び出し、その後は山の上の家で1人暮らしをする。そこで私は自分の食事は自分でなんとかし、時には女性やれ謎の近隣住民に振る舞うわけだが、その一つ一つがやけに魅力的に映る。

 私は週に一度、まとめて料理の下ごしらえをする。作ったものを冷蔵したり冷凍したりして、あとの一週間はただそれを食べて暮らす。その日は料理の日だった。夕食にはソーセージとキャベツを茹でたものに、マカロニを入れて食べた。トマトとアボガドと玉葱のサラダも食べた。夜がやってくると、私はいつものようにソファに横になり、音楽を聴きながら本を読んだ。(第1部:P202)

 なぜだろう。なにか余裕というか、生活感とは違う匂いが漂う。「私」はしばしば、グラスに注いだワインや生(き)のウイスキーを飲む。コーヒーメーカーにはいつもコーヒーがちょうど良い具合に置いてあり、客人の分までカップに注ぐ。「町外れの国道沿いのファミリー・レストラン」で食べる夕食は「海老カレーとハウスサラダ」。

 それ自体に特段の描写があるわけではないけれど、「騎士団長殺し」の「私」のひとり飯はどれもこれも、生き生きさと影を両方含んだ、芳醇なものに感じられる。何を食べるかでも、誰と食べるかでもなく、食べる当人が「何者なのか」も、食事の質を左右するんだろうか。

 

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