読書熊録

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化け物の姿をした人か、人の姿をした化け物か―「よるのばけもの」

 

よるのばけもの

よるのばけもの

 

 夜になると、僕は化け物になる。

 ネタバレではない。書き出しである。『君の膵臓をたべたい』で泣かされた住野よるさんの作品を水平展開。最新作「よるのばけもの」を手に取った。週刊文春の書評で彩瀬まるさんが取り上げていたのも、興味を持ったきっかけ。

 

 主人公の男子中学生は文字通り化け物になる。黒色の粒子に覆われた体表に、六つの足を持ち、八つの目玉を光らせ、四本の尻尾を操る。表紙の絵の通り、イメージは「東京喰種」の隻眼の梟のような感じだ。

 何かのメタファーか、錯覚のたぐいなのかと思ったら割と序盤に否定される。不注意で踏みつぶした犬小屋が、翌日もぺしゃんこになったままだったそうである。

 こう書いていくとSFだったりミステリーだったりと思うが、違う。カフカの「変身」ともまた違う。端的に言えば、これは「いじめ」を扱った物語だ。

(割と思い切って書いてしまうのは、彩瀬まるさんもこの点は明確にしていたからです。言い訳ですが)

 

 「僕」が夜の学校で出会った「ひとりぼっちの女の子」は、すなわち彼の通う学校でいじめにあっている矢野さつきである。女の子は昼休みを十分に味わえない代わりに、夜間に再び教室に入り込んで「夜休み」を楽しむ。夜休み中に主人公が闖入してしまった形になり、そこから不思議な交流が始まる。物語はいじめが進行する「昼」とこの「夜休み」をいったりきたりして進んでいく。

 

 いじめとはなんだろう。矢野さつきが昼を過ごす教室には、3種類の人間がいると主人公は説明する。

 一つ目は、これ見よがしに害を与え、それを面白がっているもの。(中略)

 二つ目は、敵意を明確にしてはいるが控えめで矢野が近づいて来た時にそれを表したり、地味に嫌がらせだけをしたりするもの。(中略)

 三つ目は、矢野が悪いとは思っているけれど特に行動は起こさず無視だけを決め込んでいるもの(中略)

 

 「矢野が悪いとは思って」の理由がなんなのかは本書を読んでもらうとして、これは「いじめを傍観するのもいじめだ」という正論をいいたいのではなく、いじめが起きた教室に描き出されるグラデーションを率直に描写したものだと感じた。すなわちいじめは関係性なんだと思う。害を与えること、たまに嫌がらせをすること、無視すること以上に、「そういうことをされてもいい人間」を設定した上で人間関係の生態系をくみ上げていくことが、いじめの本質なんじゃないか。

 グラデーションは濃淡がかわりゆく。昨日まで無視をしていた人間が、一足飛びに害を加えても、それは紺色が青色に変わったようなもの。変わらないのは、関係性の根本にある、いじめられる誰かだ。

 

 「昼休み」はこの「世界」の上にしか成り立たないが、「夜休み」は違う。化け物の「僕」は、矢野とまた違った形で関係性を結ぶ必要に迫られる。そしてその先に生まれるのは、「昼」と「夜」のギャップ。昼が夜に、夜が昼に、影響を及ぼしていく。

 

 僕は夜になると化け物になる。しかし序盤で矢野は、僕にこんな言葉をぶつける。

 

「そっちが本、当の姿、なの?」

「……え?」

「どうし、て、人間に、化けて、るの?」

 

 昼は人間、夜は化け物。でも「いじめられる」側から見れば、「昼の人間」はいじめを前提にした関係にあり、「夜の化け物」はいじめとは無縁の関係でいれる。「いじめる側」に逆転させよう。昼の人間の自分はいじめに荷担し、化け物の自分は彼女をいじめてはいない。昼より夜の方が化け物だと、本当に言えるんだろうか??いじめの関係性をためらいなく作り、維持していく自分は、人の皮をかぶった化け物ではないとなぜ言えるんだろうか??

 

 はざまを転がりながら「僕」がどこに行き着くのか。夜はどう推移し、昼はどう変わるのか。ぜひ見届けていただきたい。

 面白ければぜひ「君の膵臓をたべたい」も。レビューはこちら(※ネタバレはほぼほぼありません)

 

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