読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

響き合う才能、人生―「蜜蜂と遠雷」

 作者の恩田陸さんは雑誌AERAのインタビューで、作品を生み出すことは列車が駅に止まるようなものだと語っていた。つかの間とどまるが、すぐに次の駅へ向かっていく。直木賞に選出された「蜜蜂と遠雷」は、ターミナル駅のような、ひとつの節目の駅だと話していた。読者にとっても、まさに本書は駅だと思う。ピアニスト、審査員、調律師、裏方のスタッフ、取材者…。ピアノコンクールをとりまく様々な人模様に出会う。そして読後は、どこか新しい線路に向かっていけるような、そんな思いを得る。

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蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

  507ページ。物語は、才気あふれる若手のピアニストが世界から集う「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の予選から本戦までの短い期間を描く。主人公はいずれもピアニストで、経歴やバックグラウンドが異なる4人。養蜂家の父とともに世界を動き回り、ピアノを持たない天衣無縫の異才風間塵(16歳)。神童として名をはせながら、師である母の死去を機に表舞台から遠ざかっていた栄伝亜夜(20歳)、「生活者の音楽」を胸に描く楽器店員の高島明石(28歳)。名門音楽院出身のマサル・アナトール(19歳)。ちなみにこのあたりの情報は帯に書かれている情報です。

 

 この物語が何より素敵だな、と感じたのは、彼らの競い合いというよりも、関わり合いに焦点を当てていることだと思う。もちろんコンクールなので、勝敗がある。相手より良い演奏をしようというのはある。しかし4人はそれ以上に、お互いが放つ音楽に触発され、それぞれが抱える葛藤を乗り越えていく。

 象徴的なのは亜夜。久しぶりのコンクールに立つにあたって、何度も何度も迷いが胸に浮かぶ。しかし、ある演奏が心に火をともす。

 

 弾きたい。かつてのあたしのように。

 かつてのあの歓びを、もう一度弾きたい。

 

 当たり前といえば当たり前だったのだけど、凡人の自分が思い及ばないような天才も、たった一人では立っていられない。才能はまた別の才能に共鳴して、少しずつ花開いていけるんだと思う。

 

 この思いは、亜夜の友人でコンクール中も常にそばにいる奏も語っている。

 この子たちは、自分たちがどんなに恵まれているか分かっているのだろうか。

 自分に音楽の才能が本当にあるのかどうかと悩み、日々長時間の練習をして、それでもミスするかうまく弾けるかと胃の痛い思いをして眠れぬ夜を過ごし、おのれの平凡に打ちのめされながらも音楽から離れることができない無数の音楽家の卵たちの気持ちが?

 僻みっぽい気分になりかけたが、考え直した。

 いや、分からないはずがない。

 人の苦労は比べられない。それは、亜夜のそばにいて知っていたはずだった。

 

 奏のように、4人を見つめる周囲の人々がまた、輝いている。そして4人を輝かせている。奏の支えなしに、亜夜はスポットライトに再び向かって行けただろうか。高島には、送り出してくれる妻満智子がいた。舞台袖には、コンテスタント(出場者)の背中を押してくれるステージマネジャー田久保がいた。

 

 表紙から一枚めくった折り返しの部分に、風間塵の「推薦状」がある。

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は『ギフト』である。(中略)

 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。

 これは才能(ギフト)に限るものでもないのだろうな。生きていくということは、たえず別の人生と出会う、贈られ、受け取るものなんだろう。自分がその人にどう響きを返すのか。ここでもまた、響き合いなんだと感じた。