読書熊録

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アニメ版を知らずに観た「美女と野獣」で感動した

「美女と野獣」を映画館で観た。本家のディズニーアニメをこれまで一度も観たことがなく、実写化の再現性がどうなのか、もともとの世界観の通りなのか、ストーリーに違いがあるのかは一切分からないけれど、ただただ感動した。あまりに有名な内容なんだろうからいいのかなとも思いますが、以下、そこそこネタバレを含みますのでご注意ください。

◎愛し愛される課題への向き合い方がよかった

主人公・ビースト(日本版では野獣なんだろうけど、あまりに無骨なのでビーストで)は、舞踏会に迷い込んできた魔女を無碍に扱ったことで麗しい王子からその醜い姿に変えられてしまったわけだが、その呪いを解く条件・課題は「人を愛し、愛されることを知る」というものだった。

「愛する」でも「愛される」でもなく、その両方というのがポイントで、愛するだけではないからビーストが愛せる人を連れてきても、その人がビーストを愛するとは限らない。愛されるだけでもないので、執事らの誰かがビーストを愛するだけでも足りない。

結局、近隣の村で変わり者扱いされているけど、知性と度胸と人間性を備えた女性ベル(エマ・ワトソン)が現れたことで、執事たちは可能性が出たと安堵する。ベルは決してビーストの醜い外見で全てをシャットアウトすることなかった。

ここでいいな、と思ったのが、ビーストがベルに「愛されること」を待ってはいなかったことだった。「愛し愛される」の条件は、愛されることで愛するという展開もありうる。特にビーストにとっては、この姿では自分は愛されるはずがない、という卑屈な気持ちを拭えないわけで、愛され待ちになってもおかしくない。でも、ビーストはベルの優しさに触れたのをきっかけにしても、愛することは自分からだったと思う。

一方でベルも、愛され待ちではなかった。ベルは村人に距離を置かれるとともに、自らも村人に距離を置いているところがあった。理想の王子がどこかにいないかしらと思う気持ちもなくはなかった。でも、ベルがビーストを愛するかどうかは、ベル自身が決めていたように思う。愛そうという気持ちが双方に重なって、愛し愛されるということを知った。それがとってもよかった。

◎敵役のガストンがよかった

作品のテーマは「美しさは内面から生まれる」ということになるが、この命題を浮かび上がらせるのに一役買っていたのが、敵役の騎士?ガストンだった。彼は騎士なのかな。村人?

ガストンは、変な子認定をされているベルに一貫して求愛する。でもそれは、ベルの豊かな知性に対してではなく、ベルの美しさに対してだった。それを見抜いているベルは一顧だにしない。ガストンがベルの家の敷地に踏み込むシーンで、土の上に伸びる作物の草を踏みつけるシーンがあった。ガストンが見ているのは内側から表出する美ではなく、見目麗しさでしかなかった。きっと花だったら、踏みつけなかったんじゃないか。

ガストンは完全な悪役ではなく、なんというか「惜しい」のがよかった。美醜に囚われるのは人として当たり前の気がする。少なくとも、ベルが変な子だという「評判」に左右されず、好きだと言っていた点は、「美醜だけ」で愛を決めていないということもできる。

ガストンとビーストの違いは、内省だったのかなと思う。ビーストはベルと交流する中で、執事らが自分を怖がっていないかと気に病んでいることを打ち明ける。癇癪を起こしてしまう自分をどうにかできないか、悩んでいる。一方でガストンは、なぜベルが自分に振り向かないのか、振り返る様子がない。顧みるということが心を育て、そこから美しさを表出するという話なのかなと思った。

◎歌が素敵だった

本作はミュージカル映画という感じで、要所要所で登場人物が歌を歌うのだが、これが素敵だった。作品によっては、歌が不自然に映るというか、「え?ここで歌う?」みたいなことがある。「美女と野獣」はそういうのがなく、シームレスに歌に入っていくし、歌からストーリーに戻っていく。

それは、歌わずにはいられないようなタイミングで歌うからなのかなと思った。同じように感じた作品に「レ・ミゼラブル」が思い浮かぶが、アン・ハサウェイが泣きながら歌うシーンがあったと思う。それは行き場のない悲しみを嘆くのに、歌わずにはいられないような、そんな歌い方だった。「美女と野獣」もまさにそんな風に、悲しみや喜びを、どうしようもないよなって時に歌ってくれるので、引き込まれる。あと単純に、エマ・ワトソンさんも、ビーストのダン・スティーヴンスさんも、燭台に変えられたルミエールのユアン・マクレガーさんも、みんな歌が上手い。沁みる。

アニメ版を知らない方でも、おそらく知ってる方でも、きっと楽しめる映画です!

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