読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

「演劇」ではなく「劇場」だった理由を思う―「劇場」

 芸人であり作家の又吉直樹さんの二作目。「劇場」のタイトル通り、東京を舞台に、舞台演劇の演出家・永田と、学校に通いながら役者もする沙希を軸に物語が進む。読み始めて止まらないのとは反対で、何度も、何度も立ち止まって本を閉じてしまう一冊だった。気がつけば、胸に空いた穴から血が滴り出すよな、ちくちくとした痛みに襲われる。それは、誰しもが永田の、あるいは沙希の、抱えている気持ちのかけらを、自分の心の中に感じてしまうからだと思う。

劇場

劇場

 永田も沙希も、上京してきている。だから本作は、東京都外からやってきて来た人と、東京都内で育った人では感じ方が若干違うかもしれない。上京は特別な意味がある。希望に胸が膨らんで、たとえうまくいかない可能性があっても、夢に向かっていきたくなるようなエネルギーが、「上京してきた」一点からあふれ出す。

 

 永田は演劇が好きだ。真っ直ぐに好きだ。演出家であることが存在意義だと感じている。一方で、売れてはいない。このあたりの立ち位置は、前作「火花」のスパークス・徳永と似ている。

 

 演劇が好きで上京することと、上京して演劇を続けることの間には高い高い壁がある。劇場収入だけではとても食っていけないから、働かなきゃいけない。原理的には、好きな演劇を追及して反響があれば、多くの来場があり、チケットが売れて、お金になって、次の演劇も打てる。でもそんなサイクルが生まれないから、演劇に付随してくるはずのお金や生活のほうが大きくなって、のしかかってくる。

 

 「演劇以外」にはお金のほかに名誉も含まれてくる。永田は同年代の演出家を、どうしても意識してしまう。もちろん「演劇による名声」じゃなくて、演劇そのものを追い求めたはずだった。でも評価が得られないことは、「このままでいいのか」という焦燥を生まないわけにはいかない。

 

 それでも永田は、演劇が好きだ。自分を苦しめる演劇を嫌いになれないから、もっともっと、演劇に苦しめられてしまう。

 (中略)高円寺のアパートにこもり、一人で演劇と向き合った。彫刻を削るように無駄を排除して言葉を整え、一秒一秒の見せ方さえも限界まで可能性を探った。こんなにも演劇と密接な関係が築けた日々はなかったように思う。演劇によって自分は苦しんでいるように感じていたが、この時期は演劇がもたらす苦しみによって生きていることを強く感じることができた(作中より)

 食べてはいけない演劇に打ち込みつつ、「食べていけないこと」や「評価されないこと」に劣等感を感じて、永田と沙希との関係は変わっていってしまう。

 

 それがもどかしい。だから本を閉じてしまう。永田、もういいよ、と言いたくなる。その言葉はきっと、夢とか目標とか、何かしらを理由に誰かを傷つけていた過去の自分にも、向いている。

 永田はひと言でくくってしまえば「ダメ男」なんだろうか。でも、永田のような「中途半端さ」が、あまりに普通に思えるからこそ苦しい。夢だけを追い掛けられるほど強いハートはない。生活だけに割り切れるほど、自分自身を諦めきれない。それって、あまりに平凡じゃないかと思う。

 

 作品のタイトルが「演劇」ではなく「劇場」だったのは、なぜだろう。読後に思うのは、永田は演劇を愛しつつ、劇場に苦しめられてきたよな、ということ。埋まらない席。響かない拍手。名のある同世代が劇場を沸かせた結果、生まれる雑誌インタビューや、劇場を出た後のうわさ話。もしも、劇場の、それも舞台の上の、「演劇」だけに生きられたなら。そんなことは中々に叶わないことを、東京という街は無情にも示す。

 

 読後にもう一度表紙を眺めると、帯の台詞に胸をかきむしりたくなる。これは作中でも、大切な台詞として現れる。

 一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

 一番会いたい人は永田にとって、演劇であったかもしれない。好きな人を好きだという。好きなことを好きでいる。簡単に思えることが、どうしてこんなにも難しいのか。