読書熊録

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憎悪の刃は自らに返ってくるー「相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム」

  相模原市の障害者施設が襲撃され、入所者19人の命が奪われた殺傷事件が起きたのは、2016年7月26日のことだ。本書「相模原障害者殺傷事件  優生思想とヘイトクライム」の第1刷発行は翌年1月5日で、半年ほどの極めて早いスピードで、事件の根本にある、安楽死や優生思想、障害者への憎悪犯罪の内容を見つめるものとなっている

 

安楽死は「誰にとって」安楽なのか

著者は立命館大学院の立岩真也教授(社会学専攻)と、批評家の杉田俊介さん。杉田さんは「非モテの品格」で男が社会の中で男らしく在ろうとすることで起こる苦しみを丁寧に切り取られていて、本書を手に取るきっかけになった。

 

まず、立岩さんが歴史的な経緯を織り交ぜながら、この事件の根幹にある優生思想の言説が繰り返されてきたことを明らかにする。優生思想は安楽死とつながっていて、立岩さんは安楽死は「誰にとっての」安楽死なのかを問い直す。それは、本人のためを装って、実は健常者にとっての安楽である

 

本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合の良さを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常とう手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただ少なくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。(P19、朝日新聞掲載のコメントを引用したとのこと)

報道によると、容疑者の主張はまさに、入所者が生きていても幸せになれないというものだった。だが、そう判断しているのは、まさに容疑者自身の都合である。人が何に幸せを感じ、何に苦しみを感じるかは、その人自身のものだ。この欺瞞が優生思想の根っこにある大問題だ。

 

他人への憎悪は、自分への嫌悪から生まれる

続いて杉田さんは、障害者への憎悪犯罪であるこの事件が、そもそも容疑者本人の抱える「生きづらさ」を発端にしたのではないかと考える。

過剰な刺青の入れ方といい、顔の整形手術といい、彼には身体改造へと向かっていく欲望があり、別の存在へと変貌しようとする願望のようなものがあった。彼のそうした異形のキメラ的な身体は、そのまま、彼の内なる優生思想や自己嫌悪の軋み、歪みを示してしまっているかにも見えた。(P134)

これは「非モテの品格」で、「男の弱さとは自らの弱さを認められない、ややこしい弱さなのではないか」という分析に通底する。容疑者は障害者を「生きる価値のない命」と断じた。でもその前段階では、自分が生きる意味を見失いかけてはいなかったのか。本当に嫌悪していたのは、自分自身ではなかったのか

 

杉田さんは、コリアンルーツの人々へのヘイトスピーチなど、社会に起こる差別的な動きにも同様に「生きづらさ」があると見通す。だからこそ、容疑者の行為を英雄視する動きも生じてくるし、「この生きづらさをなんとかしたい、誰かのせいにしたい」という無意識の欲望へ働きかけ「毒のように染み込んでいく」と表現する。

 

自分への嫌悪が弱者への憎悪となって今回の犯罪が起きたとすれば。それによって進行する優生思想は、別の弱者の命を選別していかないか。障害者が要らないというように、働かない人はいらない、病気の人はいらない、暗い人はいらないとなれば・・・。その先に刈り取られる命は、自己嫌悪を抱えざるを得ない、脆い、自分自身ではないのか?だとすれば、憎悪の刃は結局、自分へと返ってくる

 

憎悪よりも怒りを

どうすればいいのか。通読して、キーワードは「怒り」だと思った。自分が生きづらい時、より弱者を憎むことで解決するだけが、道ではない。怒ればいいのだ。それは、うまく自分の苦しみを汲み取ってくれない社会制度にかもしれない。ほかならない自分自身かもしれない。怒って、自分はいま生きづらいんだと、叫べれば、誰かを傷つけることなく物事が好転する余地はある。もちろん怒りを誰かにぶつけることは他害であって、慎まなけらばいけない。

 

同時に優生思想を、憎悪犯罪を食い止めるのも怒りかもしれない。これは立岩さんが第3部の杉田さんとの討論の中でも指摘する。

何度か繰り返して言ってきたことは、あの青年にまじめに怒った人がいたのかということです。かなりいろいろな人が手を焼いたではあろうという感じはします。福祉施設の管理職の人にとっても困った人で、何かしらの手を打ったようですが、それはどういう言葉だったのか。私は彼の手紙は読まないながらもすでに腹が立っているので、馬鹿野郎と言いそうになるし、言わなきゃいけないと思っています。言ってどうなるのかとも思うのだけど、彼と、彼があの所業に及ぶ前の出来事に対してはそう思っています。

完全に間違っていることが少なくとも二つある。一つ、殺されてよいことにした相手たちが不幸だということにした。なんで他人のことをそう決められるのか、そんなことはできるはずがないという単純な話です。一つ、殺してこの世を救うと言った。しかし、人を殺さなければ救えないようなこの世ではない。これは事実の問題です。(P201)

 

君の憎しみは筋違いだと、怒る。そして「君が生きづらいのなら、それは怒っていいんだ」と怒る。本人も、周囲も、その怒りを受け止めて語り合えれば、まだ「本人の生きづらさ」を「優生思想」「憎悪犯罪」の怪物に、膨れ上がれさせなくて済むだろうか。

 

その怪物の幼体は、自分自身の心の中にある。

 

相模原障害者殺傷事件-優生思想とヘイトクライム-

相模原障害者殺傷事件-優生思想とヘイトクライム-

 

 

非モテの品格は、こちらでレビューしました 

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