読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

放射線と戦えるのか?ー読書感想「『心の除染』という虚構 除染先進都市はなぜ除染をやめたのか」

福島第1原発事故後、速やかな除染対策を打ち「除染先進都市」と評価された福島県伊達市を舞台に、「放射線被害とどう向き合うか」を問い掛けるノンフィクション。著者のジャーナリスト黒川祥子さんは伊達市がふるさと。事故後も生活を、子どもを守るお母さんたちの声に耳を傾ける中で、タイトルにもある通り、伊達市が打ち出した除染対策、その後に掲げた「心の除染」を「虚構」だと批判する。その指摘に賛同するにしても反対するにしても、本書は最前線からの濃密な、記録的価値の高いレポートだと思う。

 

 

「心の除染」という虚構

「心の除染」という虚構

 

 

放射線から逃げるのは恥なのか

伊達市が市民の避難、行政拠点の移転などではなく、積極的に除染作業に取り組んだ理由の一つは、いち早く事故前の住みよい故郷に戻したいという思いがあった。事故から3ヶ月後の6月30に近づく発行の「だて市政だより」16号で、市長は次のように訴えたという。

「……放射能に対して防戦一方でしたが、これからは放射能と戦っていく姿勢に転じていくべきだと考えます。具体的には、伊達市の総力を挙げ『除染』に取り組み、放射性物質を取り除いて、一日も早く元の住居に戻れるよう取り組んでいくことであると考えます。

    市民の皆さん、放射能に負けないで頑張って行きましょう」(p136)

だが、この「戦う姿勢」は著者が取材した子を持つ保護者の思いとはかけ離れていた。

「放射能と戦う?戦わないでいいから、逃してほしい。何より、子どもを放射能と戦わせてはいけない」

 市がさら唱えたのが「心の除染」だった。それは、過剰に心配しなくてもいいのでは?、というメッセージだ。市の発行物では、こんな風に語られる。

「……除染は生活圏中心で身近であったためか、本来は被ばく対策のため空間線量を下げる手段であったものが、いつのまにか目的化し、線量に関係なく『除染をしてもらってないので安心できない』という声になってしまった面があります。(中略)

  今、必要なのは、人々のここにそうした信頼を取り戻す『心の除染』と言うべきものなのではないでしょうか」(p324)

 

「虚構」の指摘の一番の核心に、行政側と子を持つ住民側とのこの「溝」がある。「防戦一方」「負けないで」という強い言葉から、市はまるで放射線被害を「敵」に見立て、それに勝利していけるようなスタンスを示している。

一方で、保護者にとっては、放射線は子どもに将来にわたってどんな影響を与えるかまったく不明の、見えない「毒」だ。それは先行きが見えない不安という側面もあるし、作中には甲状腺がん検査で高い内部被曝が確認され、再検査となった子どもも登場する。具体的な脅威なのだ。

もし自分の子どもの成長に影響が出たら、出産などに影響したら…。そう不安に思うことを、自分は「考えすぎ」とは思えなかったし、著者もまた同じだった。まず第一に、親自身の健康不安ではなく、自分とともに生きざるを得ない子どもの話であること。「がんになるリスクは他にもある」という意見もあるだろうか。生活習慣や喫煙は個人で制御可能でも、放射能それ自体をコントロールすることはできない。身を守るしかない。または、逃げるしかない。

行政は子どもたちを逃すのではなく戦わせるのは、なぜなのか。逃げるのは恥なのか。切実な思いが、読んでいてひしひしと伝わってきた。

 

分断を生んだ「特定避難勧奨地点」

一方で伊達市は国と連携し、線量の高い地点を限定して、市外への避難を助成する「特定避難勧奨地点」という政策をとった。これも、保護者や子どもたちの目線からはかけ離れたものだった。地点の設定を2日後に控えた、体育館での住民説明会の様子は次のようだったという。

マスクをした若い父親がマイクを持つ。

「地点か地点じゃないかという、線引きをしてほしくないんです。小国地区全体が、すでに汚染されているわけじゃないですか」

今度は若い母親だ。

「もしここに残った場合、どんなリスクを背負うことになるのか、教えてください」

答えたのは、仁志田市長の横に座る、国の原子力現地対策本部長の佐藤暁。

「普通に生活していただける分には、国として制約を設けるものではありません。普通にお暮らしいただいて問題ありません」

普通に?  避難か避難じゃないのかの瀬戸際に立たされている小国の住民に、国は「普通」という言葉を投げつけられる。今の小国のどこに「普通」があるのか。(p106ー107)

保護者らの不安は「地点に選ばれるか、選ばれないか」が子供たちにとって「助けるべき子どもか、そうでないか」と映らないか、というものだった。行政にとって勧奨地点とそれ以外の線量は明白に異なるのかもしれない。しかし住民の間にそんな線引きはない。ましてや子どもにとってはどうか。隣の友達が引っ越して、自分がここに残る理由は、こどもの世界では分断でしかないものだった。

 

 必要なのは、「子どもにとって」

本作に登場する母親や父親は、除染を強調し子どもたちの「防護」「避難」に力を尽くしてくれないと感じた伊達市への、反発一辺倒ではない。「子どもたちは、自分の姿をどう見ているだろう」。そこに親として、葛藤と困難がある。自主的に転居を選んだ家族で、子どもが体調を崩した際、胸に秘めていた苦しさを母親に打ち明けるシーンが印象に残る。

「僕、休み時間がつらかったんだ。ひとりでぽつんと机にいるんだ。みんな、いろいろするけど、僕、ひとりで机にいた。それを乗り越えて、友達、つくんないとって」

  龍也の切なさを思って、涙となった。道子は聞いた。

「なんで、ママに言わなかったの?話してくれればよかったのに……」

  龍也は首を振った。

「言わんにかった。これ以上、ママに心配かけさせたくないがら」(中略)

「2年間、私、何をやってたんだろう。子どもは成長していたけど、大人はただ足踏みして『このやろう、あのやろう』と憤慨して、闘ってばかりで。子どもを守るために精一杯やってきたけど、こどもの防御はできたかもしれないけれど、子どもに、大人が前に進む姿、進歩を見せていない。どう人生に立ち向かっていくかという姿を……」(p242)

子どもたちは、大人の姿をみている。これは、伊達市にも返ってくる真実ではないかと思う。除染を進め、いち早く環境を改善することは、行政的には効率がいいかもしれない。ただ、子どもたちには、「自分たちを守ってくれたか」、その姿勢や印象がずっと残る。「守ってもらえなかった」と唇をかんだ子どもは、その後、伊達市に住みたいと思ってくれるだろうか。

 

あえて現場に飛び込み、立脚点を保護者と子どもの側に置いている著者だからこそ、ここまで考えさせられる内容になっている。それは「偏り」ではなく、勇気だと感じた。

 

今回、紹介した本はこちらです。

 

「心の除染」という虚構

「心の除染」という虚構