読書熊録

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逃れられない罪ー読書感想「イノセント・デイズ」(早見和真)

主文、死刑。罪状、元彼氏への未練、自分を置いて幸せになる恨みから居宅へ放火し、中にいた妻と1歳の双子の命を奪った。本書「イノセント・デイズ」は、凶悪としか言いようがない事件を起こしたとされる、ある女性死刑囚の物語だ。刑事コロンボよろしく、冒頭では既に、死刑判決が言い渡されている。彼女は、なぜ罪を起こしたのか。あるいは「本当に罪を犯したのか」。彼女と関わりあった多数の人の目線と声を通じて、あらゆる可能性を含んで、ストーリーは進む。果たして彼女は、家族は、友人は、元恋人は「イノセント」なのか?

 

 

イノセント・デイズ (新潮文庫)

イノセント・デイズ (新潮文庫)

 

 

「傷つけることのない」

手元にあるジーニアス英和辞典によると、イノセント(innocent)の原義は傷つける(noc)性質の(ent)ない(in)、すなわち「傷つけることのない」様をいうらしい。転じて、giltyの対義語になる「無罪の、潔白の」という意味、「無邪気な、純潔な」という意味、「無害な(harmless)」という意味など複数の意味を持つようになったとみられる。

 

主人公の死刑囚・田中幸乃(30歳)が辿った日々が「イノセント・デイズ」だとすれば、そのいずれの意味にも取れそうで、物語の先行きは読めない。無罪だった日々で、いまは大罪を犯した身であることを強調しているのかもしれないし、無邪気な子ども時代のことや、人生を通じて無害だったことを示すのかもしれない。

 

450ページ余りの一冊は複数の章に分かれていて、各章には、幸乃が言い渡された判決文の一部が冠されている。例えば第1章は「覚悟のない十七歳の母のもとーー」。幸乃の母が、幸乃を出産した経緯を、産婦人科医・丹下建生の視点で振り返る。幸乃の判決を伝えるニュースを目にして、丹下が直感したのは違和感だった。

 

(中略)残忍な放火事件の容疑者というだけで、女は立派に"悪魔"に見えたが、腑に落ちない記述もいくつかあった。

とくに裁判長による判決要旨の一部分だ。幸乃の母、田中ヒカルが出産当時十七歳であったことも、横浜でホステスをしていたのも間違いない。しかし、だからといってあの母親に「覚悟」がなかったかと問われれば、その答えは絶対に「ノー」だ。彼女と自分だけが知っている、あの朝の匂いが鼻腔によみがえる。

丹下は静かに目をつむった。瞼の裏を過ったのは、ヒカルがはじめて病院を訪ねてきた日のことではない。

自分が産科医としての道を歩み始めた、もう半世紀も前のことだった。(p42)

 

この違和感と、幸乃の死刑判決に直面して自分の人生を省みることは、各章の軸になる友人や関係者らに共通する。違和感や、明白に判決文と異なる実相を突きつけられて、読者は大いに迷う。幸乃は本当に悪人なんだろうか、と。

 

丹下が述懐を幸乃の母ヒカルとの出会いをさらに遡って、自身のキャリアのスタート地点から始めたことも大切なポイントになる。プロローグを読む限り、幸乃は粘着質ではあるものの、決して激しやすい性格ではなく、どちらかといえば鬱屈とした性格だ。彼女の「日々」に関わった人はそれほど多くはなく、裏返すと数少ない彼ら・彼女らにとって、幸乃との時間は確かに人生の一部を共有するものだった。だからこそ、絡み合った糸をほぐすように、回顧は人生の立脚点まで到達する。

 

そして登場人物は、問われる。「自分はイノセントだったろうか」と。丹下の章では、産科医にとって避けては通れない堕胎の問題が描かれる。ネタバレになってしまうので触れられないが、友人や関係者それぞれにも、幸乃と関わった人生を振り返らざるをえない「何か」がある。

 

イノセントには複数の意味がある。無邪気であることはできても、無害であることはできても、無罪であることは果たしてできるだろうか、と思わされる。「何か」はまさに、法的なものか道徳的なものかは別にして、罪(giltやsin)の一種だろう。そして罪は一度犯せば、それを取り消すことはできない。だから読んでいて不安になる。読者である自分にとっても、きっと「何か」があるはずだから。

 

文庫版巻末にある作家・辻村深月さんの解説が、読後の余韻を深めてくれる。本人も書かれているが、衝撃的なラストを踏まえて考察してくれている(だから未読の方は絶対に読んではいけない感じです)。「少女はなぜ死刑囚になったのか」。帯にある問い掛けを、一緒に消化してくれる。

 

一体誰が「犯人」なのか分からない緊張感と、人を信じることの難しさを正面から扱った吉田修一さんの「怒り」に近い、静謐なパワーのある作品。獄中からスタートする点では柚木麻子さんの「BUTTER」と共通しているが、柚木さんの瑞々しさとはまた違って、本書の著者は早見和真さんは、銅のような、不思議な冷たさと温もりが特徴な気がする。

 

今回紹介した作品はこちらです。

 

イノセント・デイズ (新潮文庫)

イノセント・デイズ (新潮文庫)

 

 

 

  同じ女性の凶悪犯罪者を題材にした柚木麻子さんの「BUTTER」。こちらの主人公は人の心を足元から揺らす魔性の女性です。

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 報道されること(見えるもの)と実際(本当のこと)の差異という観点から時代の闇を描いたのが、ノア・ホーリーさんの「晩夏の墜落」。上下巻ですが、ぐいぐいと引き込まれて、あっという間に読めてしまいます。

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