読書熊録

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藤原竜也の悪役力ー読書感想「22年目の告白」(浜口倫太郎)

同名映画のノベライズ(小説版)である「22年目の告白ー私が殺人犯ですー」は、社会は加害者をどう扱うべきかと、翻って被害者支援のあり方を考える良書だった。作者は放送作家としても活躍する浜口倫太郎さん。小説を実写化するとキャラクターと役者のギャップに悩まされることもあるけれど、今回は逆に、藤原竜也さんが最低最悪の殺人犯役だと思うことで、物語の輪郭がくっきりする気がする。同じく藤原さんが超下衆な連続幼女殺人犯を演じた「藁の楯」(木内一裕さん作)も合わせて読むと、さらに深められるかもしれない。

 

22年目の告白-私が殺人犯です-

22年目の告白-私が殺人犯です-

 

 

加害者出版を生む「社会的関心」なるもの

藤原さんが映画で演じるのが、主人公•曾根崎雅人。全身黒づくめで、アルカイックスマイルをたたえた絶世の美男子。そして、殺人の時効がまだ存在した22年前の、「東京連続殺人事件」の犯人を名乗る者だ。定食屋の主人や医師、ヤクザの愛人から警察官まで、計5人を殺め、いずれも最も近しい人にあえて凶行を目撃させるという残忍極まりないこの事件は、しかしながら全件時効を迎えている。

 

曾根崎が罪に問われなくなったその後に、犯行の詳細を記した手記を出版するところから、物語はジェットコースターのように加速する。かなりデフォルメされているけれど、これは現実に、加害者の手記がどうしてこれほどまでに出版されるか、という問いを突き付けてくる。

 

版元になったのは、「社名は立派だが出す本は下劣」でおなじみの「帝談社」という出版社(実際にはない)。加害者の、それも遺族を大いに傷つけかねない手記を世に出していいのかで、社内は揺れる。でも最終的に出す結論に至ったのは、「明らかに売れるから」。そして実際に、「私が殺人犯です」と名乗る男が超絶な美男子だったことは大反響を呼び、本は売れに売れる。

 

この背景に、全く本が売れない出版不況があることが、物語では強調される。さすがにここまで良識のない感じでは絶対にないと思うけれど、売れない中で何を売るかという思案の中で、究極の選択肢に手が伸びてしまうというのは、現実にあってもおかしくないな、と思わされる。加害者の出版物は発行者側の倫理の問題でもあれば、我々の「社会的関心」が生んだモンスターでもあるかもしれない。

 

これは、曾根崎が藤原竜也さんであると頭に描いた時の率直な感想でもある。もしもあんな絶妙なカリスマ性のある殺人犯が書いたものは、思わず買ってしまわないだろうか?。それぐらい、藤原さんは曾根崎という人物像にしっくりくる。

 

ちょうど本書を手に取る前に、地上波で「藁の楯」の実写版映画をやっていたのも、「藤原竜也さん=下劣な悪役」のイメージを強烈に頭に叩き込む一助になった。藁の楯では、曾根崎とはまた違い、とにかく救いのない超最悪な幼女殺しの犯人・清丸国英を演じている。そして遺族が「清丸国英を殺せば10億円払う」と広告を出し、警察官から輸送の飛行機のパイロットまで、あらゆる人間が清丸を殺そうと狙う中、清丸を守ることを命じられたSPを柱に物語が進む。

 

藁の楯も、出版とはまた違う、加害者の権利にスポットを当てる。清丸を殺してくれという声は、警察組織に拘束された瞬間に、ある意味誰かに殺害される危険性が完全に排除されるという矛盾をついている。誰かを残忍に殺したものが、刑罰を受けるとはいえ、誰にも殺されないということについて、思案を巡らせずにはいられない。その問いは結局は死刑制度のあり方まで伸びていく。

 

中学後半とか高校生になったら、この2作品を元に罪と罰、日本の司法制度について議論してみたら(脳内議論でも)面白い気がする。

 

今回紹介した本はこちらです。

 

22年目の告白-私が殺人犯です-

22年目の告白-私が殺人犯です-

 

 

 

藁の楯 (講談社文庫)

藁の楯 (講談社文庫)