読書熊録

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足元の宇宙―読書感想「ウォークス 歩くことの精神史」(レベッカ・ソルニット)

 「歩く」という一点から、これほど知的な旅が広がるのか。作家レベッカ・ソルニットさんの「ウォークス 歩くことの精神史」はそんな驚きをくれる。歩くことは運動であり、進化であり、宗教であり、女性差別やセックスワークと不可分であり、政治的であり、近代化の一部分でもある。この足元に宇宙があることを、約500ページの大著は言葉を尽くして教えてくれる。左右社。

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史

 

  

歩きの原点をめぐるヘンテコ仮説たち

 博覧強記とはソルニットさんのことだ。

 本書は歩くことを、解剖学、人類学、哲学、都市社会学、ジェンダー論、歴史学、地理学、文化史、宗教学と、様々な観点から検討する。

 著者はあらゆる分野に通じ、豊富な原典を引き合いに考察を進める。それは前著「災害ユートピア」で、様々な災害を取り上げて人間の良心の強固さを実証して見せた手法の拡大版でもある。

 まず面白いなと思ったのが、「なぜ人は歩き始めたのか」ということ。

ジョン・ナピエは太古の歩行の起源についてこう書いている。「一歩進むごとに全身を破局の瀬戸際に追いやる人間の歩行というものは、ユニークな運動である。……二足というヒトの歩行手段は、それ自体潜在的な災厄ともいえよう。顔面からばったりと転倒することは、脚がリズムよく交互に振り出されることによってのみ回避されているのだ」。小さな子どもをみていると、このことはよくわかる。(中略)(p59)

 たしかにその通り、歩くことは本来怖いことだ。

 1991年にパリで開催された二足歩行の起源に関する会議はさらに面白い。数々のヘンテコ仮説が紹介されている。

 モノを運ぶ延長に歩き始めた「よっこらしょ仮説」

 サバンナの草の上に顔を出すために立ち上がった「いないいないばあ仮説」

 男性器の誇示を目的にしたという「トレンチコート仮説」

 仮説の名付け方がすごい(笑)。歩くことの原点から、こんなにすったもんだあるなんて、本書を読まなければ知り得なかった。

 

巡礼から公共へ

 ルソーやワーズワースの言葉から歩くことの精神性を検討したり、どんどん著者の旅路は広がっていく。

 その中でも、宗教的な「巡礼」と政治的な「デモ行進」の結びつきが面白い。

 なぜただ歩くことによって信仰を示すことをするのか。

 著者のこんな言葉が印象に残る。

 キリスト教の巡礼において、旅することと目的地へ到達することは、互いに欠かせない関係にある。登山も似ているが、旅すれども到着しないのは、旅することなく到着してしまうのと同じくらい不十分だ。労苦と旅のあいだに訪れる変化を通じてそのふたつの関係を充たしてゆくこと。それが目的地まで歩くことだ。巡礼は形のない精神的な目的地へ、肉体の労役によって一歩ずつ具体的に向かうことを可能にする。(p86)

 精神的な目的地へ、具体的に向かうことを可能にするのが、巡礼

 著者はさらに後半にかけて、誰もが集まり歩く「公共空間」が民主主義の重要な舞台になったことも解き明かす。東欧の独裁政権打倒など、様々な政治革命が「大通りを歩くこと」を原点にしている。

 この根底はつながっている。宗教であれ政治であれ、それ自体は目には見えない。それを身体的に落とし込むための重要な方法が、歩くことだ。

 これは現代にあっても変わらないと思う。2014年の香港の「雨傘革命」も、たしかに大通りが政治的舞台となった。フランスでテロが頻発した際、人種や宗教を超えて政治指導者が手を携えて行進する姿は、連帯を示すアクションとなった。

 日本では欧米ほどデモ行進へのリスペクトがないように感じられる。だが、行進の根源に「目に見えないものを、なんとか見えるものにしたい」という人間の試行錯誤があると思うと、安易に手放すことは危険だなと思わされた。

ストリートの性的側面

 歩くことは民主主義とつながると同時に、セックスワークとも不可分だ。

 この多面性を丁寧にすくい上げるのが本書の読みどころでもある。

 「街娼」を示す言葉に「ストリート・ウォーカー」がある。なんて端的なんだろう。

 近代までのイギリスでは、女性が外を歩くことは非常に性的な意味をはらんでいたことも示される。現代でも、いわゆる風俗の「キャッチ」は同様に路上に立ち、徘徊している。

 それは女性が「家庭」という「路上以外」に押し込められてきたことの裏返しだ。

 公共空間である路上は先に上げた民主主義の舞台であると同時に、女性を排除した「男のための空間」であったことから目をそらしてはならないと感じた。

 衝撃的なのは、これは古代アッシリアにもあったということ。

(中略)それに比べて女性に課されてきた制約は、いずれのジェンダーについてもそれぞれの自己規定に対して千年単位にわたって根本的な影響を与えている。この事実は生物学的にも心理学的にも説明可能だが、おそらく決定的な要因は社会・政治的な状況だ。どこまで遡ることができるかためしてみよう。中アッシリア時代(前十七世紀ー前十一世紀)、女性は二つのカテゴリーに区分された。夫のあるものと未亡人は「通りに出る」際に頭部を人目に曝してはならないと法に定められ、娼婦と奴隷階級の少女は逆に頭を隠してはならないとされた。(p395)

 「通りを歩く」、たたそれだけが女性であるだけで制限された。

 夫がいる女性は隠れて歩き、隠れずに歩くのは娼婦扱いされた。

 歩くことに差別の歴史が埋まっている/息づいていることを、初めて知った。

 

 500pはあっという間とは言えない量だ。

 でも、あっちへいったり、こっちへいったり。

 まるで町歩きのように、変わりゆく風景を楽しめる。決して飽きない。

 連休の初日にでも買って、ゆったりと読み進めてほしい1冊です。

 

 今回紹介した本はこちらです。 

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史

 

 

 歩くことが印象的な小説と言えば、又吉直樹さんの「劇場」ですね。あの恋のスタートは震えます。

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  身近な所作や感覚に新しい視点をくれる本として、「非モテの品格」もおすすめです。「男らしさ」「生きづらさ」を改めて考えてみませんか?

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