売春の背景には、「引力」だけではなく、「斥力」がある。荻上チキさんの「彼女たちの売春(ワリキリ)」は、冷静なトーンで売春を「社会問題」として描き出す。出会い喫茶や出会い系サイトで、個人として売春を行う女性らへの、親身なインタビューを縦糸に。社会学的な知識を動員して問題を構造化する視点を横糸に。丹念に編まれた本作は、「社会問題を個人問題化する」我々の「弱さ」を射抜いて、そこに陥らないための方策をくれた。新潮文庫。
七つの排除
チキさんが示してくれた最も重要なワードが「斥力」だと思う。本書を読む前、売春は「それでも女性たちが選んだもの」と思っている部分があった。お金が欲しい、手っ取り早く稼ぎたい、ホストに通う金がいる。だから、それが実現できる売春に「引かれていく」のかと思っていたが、それだけではなかった。
本書には、チキさんが実際に店舗に通ったりサイトで連絡を取り、カラオケやファミレスでインタビューした数十人の「彼女たち」の声がある。驚くのは、多数が精神疾患や虐待経験を抱えていること。そして、中卒や高校中退という経歴がよくあること。安定した家庭や、学校という居場所がないことが、「売春以前」にある。
チキさんはこうした個人のヒストリーを、貧困問題に取り組む湯浅誠さんの「貧困の背景にある五つの排除」につなげる。それは次の五つだ。
- 教育課程からの排除
- 企業福祉からの排除
- 家族福祉からの排除
- 公的福祉からの排除
- 自分自身からの排除
うつ病やパニック障害は、「自分自身を大切にできない状態」を引き起こすし、「企業での就労」も困難にする。そんな時にも「虐待を受けた家族には頼れない」。「学校に行けなかったために知識が不足」し、「生活保護などの公的サービスに頼れない」。このように、「五つの排除」は連鎖的に排除性を高めるという。
幾何級数的に高まった斥力の先に、売春が待っている。学歴に関係なく、職歴が問われず、家族と断絶してても、福祉につながってなくても、そして自分を大切にしなくても稼げる、売春が待っている。
チキさんは、売春をする彼女たちにはさらに「二重の追い討ち」が襲いかかると指摘する。一つは「ジェンダーの追い討ち」。女性はその性別ゆえに、たとえば路上生活などでの危険性が男性より高まる。そして「社会問題からの排除という追い討ち」。最初に自分が思ってしまったように、売春は「選択」として「個人問題化」されがちだ。
引力の前に、斥力がある。だからチキさんは、引力だけに焦点を当てても問題は解決しないと言い切る。
ワリキリを問題視する者は、問題行為の引力に注目し、ときにはそこを「浄化」しようと試みる。だが、その試みは大概の場合、失敗してしまう。社会のなかに斥力がある限り、すぐさま別のアウトサイドが誕生する。そのことは、風営法の改正が常に新しい風俗形態を生み続けてきたこと、裏風俗の摘発が新たな裏風俗を生み続けてきたことからも、よくわかる。(p88)
「自分の価値が減る」
男性として本書を読むと、シンプルに胸に突き刺さってきたのが「ワリキリ」に臨む「彼女たち」の「苦痛」だ。売春行為中について、チキさんがインタビューした女性のほぼ全員は「我慢」だと言っている。
裏を返せば、利用客は彼女たちの我慢に目をつぶって、時には反対に快楽があるはずだと幻想を抱いて、春を買っている。この愚劣さと情けなさが、本当にシンプルに胸に刺さる。
特に、比較的ライトな感覚でワリキリをしているという「ミナ」のこんな言葉が印象に残る。
「私は心の病気になったことは全然ないの。すごくポジティブ。でも、ウリやってる子って、そういう(病んだ)子、多いよね。思うんだけど、よく『減るもんじゃないし』って言うでしょ。だけど、減るんだよね、実際。何がって、自分の価値が。もちろん、人に言わなければわかんないじゃん。でも、なんか、それでも減ると思うんだよね。だから、なるべくはやりたくないと思うし、やらないでおこうと思っている。本当にお金がなくなったらわからないけど」(p142)
身体を差し出すことは何も減らないように見えて、自分の価値が減っているように感じる。これは、尊厳と言い換えてもいいんじゃないか。
もちろん、世の中には前向きな自己表現としてセックスワークに臨む人だっているだろう。でも「斥力」の結果として売春を「せざるを得ない」女性にとっては、たった一つの身体と魂を売り渡すことは、これ以上のない「苦痛」になる。
男による再生産
本書は最後の解説まで読みどころだ。担当は三浦しをんさん。京都のホテルで実際に若い女性を買ったとみられるおっさんを見た経験を話しながら、飾らない語り口でチキさんのレポートの深みと驚きを伝えてくれている。
そのしをんさんは、「彼女たち」の物語に耳を向けた上で、「男たち」にこんな疑問をぶつける。
それにしても不思議なのは、本書に登場する女性たちのほとんどが、「気持ち悪い」「お金を出してまでしたいの?」と思っているにもかかわらず(そしてそれは当然、相手にも伝わっているはずなのに)、それでも女性を買う男たちの根性(というか内面)だ。京都で女の子を買ったおっさんを見たときも、憤激が湧くとともに、底知れぬおそろしさを感じた。「おまえ、相手の女性にあんな目をさせといて、よく性欲抱けるな」と。(p374)
「気持ち悪い」と思われているのに、なぜ買春できるのか。もっともな指摘だ。ここで「引力」と「斥力」の話に立ち返ると、男たちが買春をできる理由は、女性たちが「売春に引かれた女性」「望んで売春している女性」と思うから、つまり「斥力」に目をつぶって「引力」だけを見ているからではないだろうか、と思える。
そうすると、男の都合の良さが「引力への焦点化」「売春の個人問題化」を再生産し、社会の斥力を放置する結果になっているとも言える。自分も男性であって、断罪なんて当然できない。だけれど、せめてできることはこの現象の逆回転、つまり「売春に導く斥力に目を向けて改善する」と「売春を属人的な話にしない」を、意識してやっていくことじゃないだろうか。
今回紹介した本は、こちらです。
個人のヒストリーに丹念に耳を傾ける、その上で個人的な痛みを丁寧にすくい上げると言う点で、上間陽子さんの「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」と本書は共通する部分があります。こちらも視点が変わる一冊。
性における女性へのバッシングの究極は、レイプ被害者への眼差しかもしれません。アメリカのレイプ事件を徹底的に取材した「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」は、その根深さをこれでもかと伝えてくれます。