読書熊録

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後悔とはちがうものー読書感想「水曜の朝、午前三時」(蓮見圭一)

 もしもあの時、あの人の手を離さなかったならー。蓮見圭一さんの小説「水曜の朝、午前三時」は、そんな「有り得たかもしれない人生」がテーマだ。義理の母親が死の病の淵で残した、長大な音声テープ。そこには1970年、大阪万博の裏で散っていった一つの恋が語られていた。それは後悔とは違う、何か。言葉にならない「宝物」の存在を、水彩画のようなタッチの文章で描いていく。ほぼ絶版から復刊された、蘇る名作。河出文庫。 

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水曜の朝、午前三時 (河出文庫 は 23-1)

水曜の朝、午前三時 (河出文庫 は 23-1)

 

 

鍵盤を叩くように人生の練習を続けた

 テープを語り残した本作の主人公・四条直美の言葉は、繊細で知性的でウィットに富んでいて、1980年代生まれの自分からすれば、賢いおばあちゃんの話を聞いているようだ。それが耳に目に心地いい。

 

 たとえば、テープと共に娘へ残した手紙で、直美はこう語る。

 「私はこれまでに何千冊もの本を読んできたけれど、それ以上に日々の暮らし方から学ぶことの方がずっと多かった。二十代の私は嫌味な自信家だったし、多くの人を軽蔑していたけれど、それでもけして自分の知的確信の奴隷にはなれなかった。内心では花見客を馬鹿にしていながら、偶然に桜の花を目にして、その美しさに圧倒されていたりしたのです。ピアニストが毎日休みなく鍵盤を叩くように、私は人生の練習を続けてきたのです」(p18)

 ピアニストが毎日休みなく鍵盤を叩くように、私は人生の練習を続けてきた。何でもない言葉の組み合わせがこれほど詩的になるのかと思う。映像が浮かぶようで、それでいて「人生の練習」とは、ファンタジーな響きが醸されている。

 

 そんな直美の、まさに20代の恋である。1970年、大阪。関東の故郷を離れ、単身で万博のコンパニオンの仕事に就いた。人類の進歩と調和。世界各国のパビリオンが大言壮語とともに陳列され、日本中が熱狂した時代だ。

 

 直美はその喧騒で出会った一人の男性と恋に落ちる。それが誰で、どうなって、「なぜ叶わなかった」のかはぜひ楽しみに取っておいてほしい。ここでは直美の残したテープから、その恋の輝きを伝える言葉を引用したい。

 それまでの私は、水気を失ってしおれかけた花みたいなものだった。私はそれを周囲に生い茂って養分を奪う雑草のせいにしてきたけれど、事実はまるで違っていた。私は必要なだけの水を与えられたことが一度もなかったのだ。何百万人もの中から、自分にふさわしいたった一人だけの人を見つけた。ふいにそう思い当たり、どうしようもなく泣けてきた。これは何かの間違いか、そうでなければ奇跡だと思った。(p169)

 愛情という水を得た瞬間に初めて、渇きと潤いを知ること。それは何かの間違いのようで、あるいは奇跡のようで、泣けてしまうこと。直美の心の動きは、読むこちら側の心もまた満たしてくれる。

今度は、あなたたちの番

 解説で尾崎将也さんが指摘していて面白い、たしかにと思ったのは、この直美のテープを書き起こして読者に伝えているのが、「義理の息子」だということだ。

 

 有り得たかもしれない人生、叶わなかった恋。いまの娘、そしてその娘と結婚した義理の息子は「そちら」を選べなかったからこそ、生まれ来た存在だ。ある意味で、かつての恋を語るには最もナイーブな相手と言えるかもしれない。「そちら」を選んでいたら、あの人の手を取っていたら、娘も義理の息子も、出会うことはなかったのだから。

 

 だからこそ、直美がテープで繰り返す「人生は宝探しだ」という言葉が深みを増して来る。直美はテープの最終盤、こんな言葉を残す。

 この人生に私が何を求めていたのかーーここまで根気よく付き合ってくれたなら、もうわかったでしょう。私は時間をかけて、どこかにあるはずの宝物を探し回っていたのです。ただ漫然と生きていては何も見つけることはできない。でも耳を澄まし、目を開いて注意深く進めば、きっと何かが見えてくるはずです。

(中略)

 さあ、今度はあなたたちの番です。何も難しく考える必要はありません。人生は宝探しなのです。嫌でも歩き出さなければならないのだし、それなら最初から宝探しと割り切った方が楽しいに決まっているではないですか。そう、楽しめばいいのです。(p284−285)

 叶わなかった恋から先を生きた人生の先に出会った娘と義理の息子に、「今度はあなたたちの番」と語りかけること。ここに直美の宝探しの終着点がある。「有り得たかもしれない人生」は、恨みでも、後悔でもない。それを抱えて生きたこともまた、宝物なんだ。

 

 実は中略とした部分には、直美自身が「四十年以上の歳月をかけて、では私はどんな宝物を見つけたのでしょう?」と種明かししてくれた文章である。しかしこれは、ぜひ本書を開いて出会ってほしい。

蘇った名作

 「水曜の朝、午前三時」は、そのバックグラウンドが面白い。「web河出」で、担当者の方が出版までの背景を語っている。こんなにも心震える作品なのに、一度ほぼ絶版になり河出文庫として復活したというのだ。

 

 2001年、新潮社から刊行。新潮文庫に収録もされた。しかし刊行直後は話題にならず、ある書店員の地道なプッシュで火がついたという。そして児玉清さんが「こんな恋愛小説を待ち焦がれていた」と評価し、売り上げは伸長。それでもほぼ絶版になってしまうとは。

 

 そして今年、1984年生まれの河出書房新社の営業部Tさんが本書に出会って感動したことから編集部で河出文庫での復刊を提案したというのだ。Tさんの思いは「もう絶版にはしたくない」だった。

現在、出版界では80年前のベストセラー『君たちはどう生きるか』が大流行しています。かつて多くの人の心をとらえた作品は、時代を超えて多くの人の心に響くのだと思います。
『水曜の朝、午前三時』は、一時的に手に入らなくなっていましたが、今は店頭に並んでいます。
一読すると、忘れられない人を思い出してしまう、
きっと今でも多くの人の心に残る傑作だと信じています。
もう絶版にはしたくありません。
ぜひこの機会に読んでみてください。(web河出より)

 まさに自分も、時代を超えて「水曜の朝、午前三時」に胸を打ち鳴らされた。この体験が少しでも多くの方に広がってくれればと思う。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

水曜の朝、午前三時 (河出文庫 は 23-1)

水曜の朝、午前三時 (河出文庫 は 23-1)

 

  

 何かにつけて紹介してしまいますが、「かつての恋」が人生をどれほど豊かにしてくれるのかを教えてくれる傑作が早瀬耕さんの「未必のマクベス」です。本作があまりに感動を読んで、早瀬さんの前作「グリフォンズ・ガーデン」(絶版)は復刊の見込みだそうです。まさに時空を超越する力のある一冊。

www.dokushok.com

 

 紡がれる言葉が絵を描き、新たな世界を見せてくれる。そんな直美の語りに似た体験をさせてくれるノンフィクションとして、レベッカ・ソルニットさんの「ウォークス 歩くことの精神史」を挙げたいと思います。歩くという身近なテーマから、歴史、ジェンダー論、文学論に話題が広がります。

www.dokushok.com

 

 web河出の記事はこちらです。

web.kawade.co.jp