読書熊録

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1984はつくれるー読書感想「生きるための選択」(パク・ヨンミ)

 北朝鮮の外交ではなく、社会を知りたい。そう思って手に取ったのが、13歳で母とともに決死の脱北をしたパク・ヨンミさんの自伝「生きるための選択」だった。ヨンミさんが描いているのは、ジョージ・オーウェルの「1984」のような世界。しかし、これは空想じゃなくて現実だ。身分が硬直した「成分社会」。心をも支配する「感性独裁」。そして、脱北者を絡め取る人身売買の闇。1984は、つくれてしまう。その恐ろしさを実感した。満園真木さん訳。辰巳出版。 

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生きるための選択 ―少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

生きるための選択 ―少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

 

 

「成分」ー超硬直社会

 ヨンミさんが語ってくれた中で最初に印象に残ったのは、北朝鮮社会を司る「出身成分」という、強力な「身分制」である。

 

 その内実はこうだ。最上位にいる成分は「核心階層」。北朝鮮を生んだ共産革命の中心を担った小作農や、兵士の遺族、国家元首・金一族を支える組織の人間で形成される。

 続いて「動揺階層」は、南朝鮮(韓国)の出身者や、元商人や知識人、つまり金一族の新たなる体制に完全に忠誠を誓っているか、まだ信用しきれない階層だ。

 最底辺が「敵対階層」。かつての地主や資本家の子孫、かつての韓国軍兵士、キリスト教徒や仏教徒、政治犯の家族、そのほか、「国家の敵」とみなされる者という。

 

 ヨンミさんは「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」で成り立つ社会を、こんな風に説明する。

 上位の成分にあがるのはきわめてむずかしいいっぽう、自分になんの落ち度もなくても、最下位の成分に落ちるのはたやすい。そして、私の父とその家族が身にしみてわかったように、いったん成分を失うと、それとともに得たすべてのものも同時に失うことになる。(p45)

 上の成分に上がるのは極めて難しく、下の成分に落ちるのは容易い。北朝鮮社会は、「超硬直社会」と言ってもいい状況なのだ。

 ここで1984を思い出してほしい。1984もまさに、強固な身分制社会を基盤にしていた。最上位が党の中枢、続いて平の党員、最後に党に入っていないプロレタリアート。まったく似たような三階層が、北朝鮮社会で描かれている。

 

 上がるのが難しく下がるのが簡単な超硬直社会で、平和に生きたいと思った時にとる選択肢はなにか。それは、とにかく上位の階層へ忠誠心を示して、引き立ててもらうこと。そして上位の階層の反感を買わないように、静かに、静かに生きることだ。

 そんな社会を一言で表すとすれば。まさにそれが、独裁なんだろう。

 

「感性独裁」ー夢にまで出る指導者

 もう一つ、1984を現実にする重要な支配方法が「感性独裁」だ。

 

 感性独裁という言葉は、元北朝鮮プロパガンダ機関の詩人で、脱北者のチャン・ジンソンさんが生み出したという。「成分」によって身分や人々の職業、行動を制限するだけでなく、「感性や情緒の面でもコントロールし、個人の主体性を破壊し、自らの体験に基づいて状況に対応する能力を奪うことで、国民を国家の奴隷にしている」(p72、ヨンミさんの説明)。

 

 たとえばそれは学校の授業に表れる。国語も、算数も、理科も、音楽も、偉大なる指導者・金日成(キム・イルソン)や、息子の親愛なる指導者・金正日(キム・ジョンイル)がいかに優れた人間性を備えているかが題材になっている。そしてヨンミさんには、こんな思い出もあるという。

 一度、金正日の夢を見たこともある。金正日は笑顔で私を抱きしめて飴をくれた。目ざめたあともとても嬉しくて、それから長いこと、その夢が一番の幸せな記憶だった。(p72)

 夢にまで姿をみせる指導者。そしてそれが子どもにとって「一番の幸せな記憶」になる。感性独裁は、24時間、頭の中さえも支配する。

 これも1984で言えば、有名な「二分間憎悪」「イングソック」が思い浮かぶ。「国家の敵」を毎日憎悪することを強いられる。「戦争は平和である」という概念を刷り込まれる。そうすることで、「国民を国家の奴隷」に変えていく。

 

 感性独裁の破壊力は、ヨンミさんが紆余曲折を経て韓国にたどり着いた後にも、まざまざと立ち現れてくる。ヨンミさんが全くできなかったのが、「自己紹介」だった。好きな趣味は?ミュージシャンは?映画は?何一つ、ヨンミさんは答えられない。北朝鮮国民にとって、「私」というものが一切なかったからだ。

 (中略)「むずかしければ、あなたの好きな色を教えて」そう言われて、私はまた固まった。

 北朝鮮の学校では、なんでも丸暗記するように教えられるし、ほとんどの場合に正解はひとつしかない。だから、教師に好きな色を尋ねられたとき、私は必死に”正解”を出そうとした。あるものがべつのものよりいいと考えられる理由を合理的に判断する、そういう批判的思考のやりかたを教わったことがなかった。

 教師が言った。「そんなにむずかしくないでしょう? じゃあ私から言うわね。私の好きな色はピンクよ。あなたは?」

 「ピンクです!」ようやく正解を教えてもらえたことにほっとして、そう答えた。(p259−260)

 自分の好きな色を答えられない。”正解”を求めて、教師がピンクが好きだと言えば「私もピンクが好きです」と答えてしまう。傷跡があまりにも深い。

 

国境を超えた中国で待ち受ける「人身売買」

 ヨンミさんの半生によって突きつけられる、もう一つの重大な現実は脱北した先の中国で待ち受ける「人身売買」である。

 

 犯罪に手を染めれば「成分」が下落し、最悪の場合、処刑されるリスクもあるのに、なぜ北朝鮮の人々は脱北をするのか。それ以上に、圧倒的に管理されているはずの国境警備兵らは、なぜ脱北を見逃したり、場合によっては手助けするのか。その答えは一言で「カネになる」からである。その源泉が人身売買だ。

 

 まだ13歳の少女だったヨンミさんと、お母さんも、その魔の手にからみとられる。抜粋して描写することもはばかられる、凄まじい現場だ。最小限の引用に留めるなら、売買の結果の「価格」はどうだろう。

 最終的には次のように話がまとまった。母は北朝鮮人のブローカーに五百元(二〇〇七年当時の価格で約六十五ドル)で売られたあと、ジーファンに六百五十ドルで買われた。私の当初の値段は二百六十ドル相当で、ジーファンには一万五千元(二千ドル弱)で売られた。次々に売られるたびに値段があがっていった。(p160−161)

 13歳の少女が2000ドル弱で売り買いされてしまう。それは、わずかなカネでさえ切実に欲している中朝国境の人々の状況を物語ってもいる。

 

 北朝鮮社会に残っても、抜け出しても、あまりに過酷な現実が待っている。その衝撃に言葉を失うとともに、心の傷を抱えながらこうして伝えてくれた著者のパク・ヨンミさんに改めて敬意を表したいと感じた。

 

 今回紹介した本は、こちらです。 

生きるための選択 ―少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

生きるための選択 ―少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

 

 

 北朝鮮社会を知りたい、そう思うきっかけになったのが、現役記者・竹内明さんが上梓された北朝鮮スパイ小説「スリーパー 浸透工作員」でした。公安取材の内幕をたっぷり盛り込み、あの国の若者をリアルに描いた作品です。

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 当事者の声に耳を傾けた時、思わぬ社会の実相が見えることがある。それを感じさせてくれるノンフィクションといえば、荻上チキさんの「彼女たちの売春(ワリキリ)」です。性産業の「引力」だけじゃなく、社会が彼女たちをそこへ押しやる「斥力」について考えさせられます。

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