読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

スキマの力ー読書感想「うしろめたさの人類学」(松村圭一郎)

 息苦しいなら、スキマをつくればいい。文化人類学者・松村圭一郎さん「うしろめたさの人類学」は、日本の社会に閉塞感を感じる人に、言われてみればシンプルなアイデアを投げかけてくれる。絡まった糸を解きほぐすきっかけに、松村さんが専門のエチオピア社会を持ってくるのがユニークだ。同じ市場でも、社会でも、国家でも、こんなにも違った向き合い方ができる。視界が晴れる一冊。ミシマ社。

 

f:id:dokushok:20180119223915j:plain

 

 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

 

交換のモード、贈与の可能性

 なぜ、社会に閉塞感や窮屈さを感じるのだろう?どうしたら、もう少し深呼吸できるだろう。松村さんは最初に、とっつきやすいテーマとして「贈与と交換」を挙げる。

 

 途上国にバックパックなどの旅行に出かけると、往々にして物乞いの人に出会う。「マネー、マネー」と。自分もそうだが、おそらく日本社会で長年馴染んできた人は、このときお金を渡すこと、喜捨行為に抵抗がある。

 その抵抗は「交換のモード」だと松村さんは指摘する。資本主義は交換のモードで成り立つ。100円を支払って、お菓子を受け取る。だからマネーと要求されて、何も受け取るわけがないとわかっている非対称のやりとりに、戸惑う。

 

 しかし、エチオピアでは路上の物乞いに現地の人が喜捨をする。

 歩いている人は、たいてい不意に腕や胸のあたりを手で突かれる格好になる。若い男性などは、不機嫌そうに振り返って、睨みつけたりする。でもほとんどの人は、その老婆の姿を目のあたりにすると、仕方ないなという顔になる。そしてポケットから小銭を取り出し、手渡している。(p34)

 睨みつけながらも、「仕方ないな」と、ポケットから小銭を取り出す。松村さんはこの動きを、「うしろめたさ」と呼ぶ。交換のモードのように、計算ではない。単純に、物乞いの人に対してなんとなく、放っておいたら悪いなという「感情」に「心を開いた結果」、「共感」の産物だと説明する。

 

 面白いのは、この「感情」「共感」と「交換のモード」に対する松村さんの視点だ。

 ぼくらでも、店で商品を買うような交換の場面で、店員とのモノのやりとりになんらかの思いや感情が「生じない」のではない。それは、そこから「差し引かれている」。

 ふとわきでるさまざな思いや感情は、交換のモードをとおして不適切なものとして処理され、「なかったこと」にされる。でもだからこそ、この「処理」はときどき誤作動する。(p38)

 感情が生じないのではない、差し引かれているのだ。「うしろめたさによる贈与」を日本社会に照射して、「なかったことにされている」状況を暴き出すのは、実に鮮やかな思考だと思った。

 

コーヒータイム

 松村さんはこうして、日本とエチオピアの「経済」の違いについて描き出す。テンポをそのままに、「社会」「市場」「国家」と、絶対的に見える社会システムの揺らぎを言語化する。こうやって、物事を絶対的ではなく相対的に、変化可能な構造物とみる目線を「構造人類学」と呼ぶそうだ。

 

 目を見張ったのが、エチオピアのコーヒータイムである。

 エチオピア・コーヒーは、その響きも、ブランドとしても、美味しいコーヒーの代表格として認知されている。実際、エチオピアの人々もコーヒーをよく飲むそうだ。ただ、1人で、ではない。家族で、でもない。村の隣近所の人を招き、20〜30分、コーヒーをお代わりしながら語らうというのだ。

 エチオピアにはイスラーム教徒とキリスト教徒が混在するコミュニティもあり、その場合はまずアッラーに祈り、アーメンと祈りも捧げる。民族の言語が違うケースもある。そうしたらそれぞれの言語に切り替えながら喋ったりする。

 

 コーヒータイムは、「つながり」を生む場だと松村さんは解説する。互いに「違う」からこそ、共通の時間を積み重ねていく営みだと。

 たぶん人類は、長い歴史のなかで、そうやっていろんな「他者(かれら)」を「わたしたち」の一部にしながら生きてきたはずだ。

 外国人だから、文化が違うから、異教徒だから、○○だから……。とかく、ぼくらは異質な他者を既存のカテゴリーに押し込め、最初から関係を築くことを拒絶してしまいがちだ。その排除のまなざしは、精神を病んだ人や障がいをもつ人などにも向けられる。でも、この排除が、じつは「わたし」や「わたしたち」の豊かな可能性を狭めていることに、多くの人は気づかない。(p81)

 「かれら」を「わたしたち」の一部にするような包摂は、意識しなければ起こらないのだ。裏を返せば、日本が息苦しく、「排除」に溢れているようでも、それは所与ではない。エチオピアの人たちのように「関わりあう」可能性は、残されている。

 

自分と社会の間にスキマをつくる

 松村さんはエチオピア社会をユートピアだと言いたいわけではない。実際、エチオピアの人たちは絶えず喋ったり遊んだりしていて、一人で静かに読書する時間も満足に持てなかったという。日本だって「ムラ社会」だった以前は、負の形に凝縮した「村八分」や「隣組」が存在した。

 

 そうではなくて、松村さんの語りの核心は、社会は「揺らせる」ということだ。エチオピアのようにもなるし、日本のようにもなる。そこに「スキマ」が立ち現れる。

 市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あふれる人のつながりを生み出す。その人間関係が過剰になれば、国や市場のサービスを介して関係をリセットする。自分たちのあたりまえを支えてきた枠組みを、自分たちの手で揺さぶる。それがぼくらにはできる。(p178)

   社会を、市場を、経済を、国家を、「自分たちの手で揺さぶる」。うしろめたさから始まった社会学、人類学は、そんな「柔らかい革命」と呼ぶべき道を示す。

 

 既存の枠組みを壊すのではない。あくまで揺さぶって、癒着をといて、糸をほどいて、スキマを生み出すだけだ。

 流れる水のように、松村さんの語りはすいすいと進む。タイトルは硬派だけど、とってもとっつきやすい本だと思う。そして得られる学びは、深くて優しい。

 

 今回紹介した本は、こちらです。 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

 

 ときほぐして、生きやすくする。この手法、語りのテイストは、伊藤洋志さんの「ナリワイをつくる」に通じるものがありました。サラリーマンかフリーランスではなく、ちょっと稼ぎが手に入るナリワイで、資本主義を軽やかにサバイブする方法を指南してくれます。

www.dokushok.com

 

 同じアフリカでも、この方は実にクレイジーに、日本社会を一直線に飛び出していく。「バッタを倒しにアフリカへ」は痛快な研究者ノンフィクションです。日本の学者が食っていけない、シリアスな現状も浮き彫りにします。

www.dokushok.com