読書熊録

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ポスト・ディストピアー読書感想「ユートロニカのこちら側」(小川哲)

 これはディストピア小説を超えたポスト・ディストピア小説だ。小川哲さんのSF小説「ユートロニカのこちら側」は、読者に新しい地平を見せる。あらゆる情報を吸い上げる代わりに、極上の生活と、完璧な安全を保証した理想都市。そこで生きることは幸福以外ないものでもないのに、壊れていく人たち。技術の到達点がディストピア(ユートピアの正反対)を生む、と言うのではなく、そのディストピアは本当にディストピアなのかを問い掛ける。第3回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞。ハヤカワ文庫JA。

 

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ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

理想都市の陰で

 「ユートロニカのこちら側」は連作短編集の形をとり、いずれも近未来が舞台になる。そこには、情報管理企業マイン社が、サンフランシスコと連携して構築した理想都市アガスティアリゾートがある。

 アガスティアリゾートに住む人は、生活のあらゆる情報をマイン社に差し出す代わりに、生活を保証される。何を見るか、何が聞こえるか、どこへ行くか、何を食べるか、そして何を話し、何を考えるか。トイレやベッドルームといった例外を除き、一挙手一投足を、情報端末を通じてマイン社に記録される。

 

 第一章「リップ・ヴァン・ウィンクル」では、入所希望者が殺到するこの理想都市に(なにぶん、生活の全てが保証されるのだから)、ようやく越してきた一組の夫婦が描かれる。ジェシカにとってそこは絵に描いた「楽園」だった。

 完璧な景観に、温暖な気候、青い海、歩けば歩くほど可能性を広げてくれる街路に、あらゆるものが揃うモール。マイン社は住民が退屈しないように、毎日様々なイベントを用意していた。連日のパーティーや、カルチャークラブ、ヨガ教室。それらを通じてすぐに友人ができたし、同世代の隣人たちとの近所付き合いも順調だった。(p28)

 

 しかし、夫のジョンは馴染めないどころか、次第に心を病んでいく。ジョンにとって、この街は監視都市だった。ジェシカは「意識しなければいい、心を空っぽにするのよ」と慰める。ジョンは「ごめん。でも、たぶんそういうことじゃないんだ」と、どうしても期待に応えられない(p29)。

 

 ジョンの側に立ったとき、理想都市は景色を変える。理想の生活を手にする代わりに、常に誰かに「見られている」ことは、恐ろしいことじゃないか。しかし、小川さんはここからディストピアを描くことに一直線にならない。むしろ、アガスティアリゾートがユートピアなのかディストピアなのか、考えあぐねる人間の葛藤を主題にする。

 

 印象的なシーンがある。ジョンは、ジョンのように心に不調を来した人が集う療養施設で、かつて一緒に野球に打ち込んだ親友デレクに出会う。青春時代の、こんな会話を思い出す。その頃にはもう、マイン社が提供するAIサービス「サーヴァント」が生活の隅々に食い込んでいた。野球もまた、マイン社の提供するデータに基づいてプレイするのが普通だった。

 会社主としての初めての練習試合を三打席無安打で終えたあと、ファストフード店でジョンはデレクにそう愚痴った。「みんなサーヴァントの指示なんかに従って、まるでラジコンじゃないか」

 「それは正しくないな」とデレクは首を振った。「俺たちはより良い選手になるために、ラジコンになることを選んだんだ。単なるラジコンは、自分がラジコンになることを選べるか?」

 「騙されちゃいけないよ。ラジコンになることを選ばなければメンバーから外されるんだ。どう選択するかは実質的に最初から決まっているのさ。(中略)」(p45)

 未来社会で人は、自らラジコンになることを選んだのか、強制的にラジコンになったのか。この問い掛けは私たちにも無縁ではない。フェイスブックを自ら更新しているのか。更新しなければ人付き合いがままならないから、更新するのか。

 

 ジョンやデレクは、復調するのか。一度、ディストピアに見えてしまったアガスティアリゾートで、理想的生活を取り戻せるのか。本書を開いて、目の当たりにして欲しい。

 

人間性を問う人、問わない人

 ディストピアは本当にディストピアなのか。テクノロジーによる理想都市が、手の届く今だからこそ、その問いは刺激的だ。足元を見れば分かる。今は、それほど悪くはない。過去の人から見たら、人がまともに顔を合わせない、スマートフォンばかりをにらめっこする、冷たい都市だとしても。

 

 アガスティアリゾートもまた、悪くはない。しかしそこに葛藤する人がいる。なぜ葛藤するかを見つめると、そこに人間性というものが浮かぶ。理想都市に人間性を問う時、人は「これでいいのか」と思う。

 

 小川さんは人間性を問う題材に何度か、犯罪を取り上げる。これも今日的。犯罪を抑止するためにテクノロジーほど優位なものはない。一方で、テクノロジーだけで人を裁く事への違和感は簡単にはぬぐえない。

 

 第三章「死者の記念日」がそうだ。アガスティアリゾートのすぐ近くで、殺害された遺体が見つかった。サンフランシスコ市警殺人課の刑事、スティーヴンソンが捜査にあたる。一方でアガスティアからも、警察官ライルが派遣される。

 スティーブンソンは、容疑者候補からまともに聴取もできないライルにいらだつ。ライルはこう言い放つ。「(アガスティアでは)殺人は発生する前に防止します。だから殺人容疑者の証拠の集め方や対処の方法は一切習わない。必要のない技能だから」と。

 

 町中に、家の中にも、防犯カメラがあると思ってもらえればいい。アガスティアリゾートで殺人を犯すことは限りなく困難だ。そして何より、あらゆるバイタルサインと思考を読み取っている。殺人はもはや、予防できる。

 

 スティーブンソンは怒る。何への怒りか分からない怒りを抱く。

 スティーブンソンは、自分が抱いている怒りをどのような言葉で表現すればいいのかわからずに、廊下に置かれた消火器を蹴飛ばした。「悪とは何だろうか、正義とは何だろうか、君はそういうことを考えたことはあるのか?」

 「人並みには、おそらく」

 「殺意を抱くことは悪なのか? 過去に暴力を振るったことは罪なのか? 行為ではなく、意図や意志によって裁かれることは正当化されるのか?」

 「正義や悪なんていうのは集団を低コストで管理するための方便でしかなく、すべては法と結果が正当化します。現にABMは、殺されるはずだった人を何人も救ってきました。殺人や強姦などの凶悪犯罪を扱う僕たちのチームは、日々潜在犯の危険性を削いでいるのです」(p142)

 ここでもまた、問答がある。スティーブンソンの側に立つとき、アガスティアリゾートは「行為」ではなく「意図」で人を裁く恐ろしい町だ。人を殺したいと思うことすら罪になる場所だ。しかしライルの言葉を否定もできない。正義の原則は、殺されるはずだった命を救える可能性すら否定するだろうか。

 

 この葛藤。それがディストピアは本当にディストピアなのかという問いそのものだ。

 

忘却していくこと

 葛藤と問いは章を追うごとに深まる。アガスティアリゾートは発展するのか。それとも歯止めが掛かるのか。見届けて欲しい展開だ。

 

 最終の第六章「最後の息子の父親」に、印象的な言葉がある。それは忘却を巡る言葉だ。

 「忘却が本当に恐ろしいのは、自分が忘却したという事実さえ忘れてしまうことなんです。みんな、都合良く生きるために都合の悪いことを忘却しようとします。忘却するために、別の楽しいことで頭の中をいっぱいにしようとします。そうやって、自分が何かを忘却したという事実すら忘れ去ろうとするのです。次第に、意図せずとも不都合なことを忘れてしまうようになり、最後には、不都合なことはそもそも目に入れないようになってしまいます。罪の原因になりそうなものを、自分の周囲から徹底的に排除するんです。気持ちのいい言葉だけを耳にして、世界が自分の望むように回っていると思い込むんです」(p300)

 忘却の恐ろしさは、忘却したことさえ忘れること。楽園に見える絶望の、本質を突いた一言だと思う。

 都合の悪いことを忘れる。誰かの痛みを忘れる。そして忘れたことさえ、忘れる。そこで終わらない。忘れただけなのに、なかったことにする。痛みも、罪も、闇も。なかったことにして、理想だけを目に入れる。

 

 未来社会をディストピアと思うのは自由だ。反対にユートピアだと感じて気持ちよく生きるのもいい。しかし忘れてはいけない。自分が置き去りにしたものを、忘れてはいけない。

 

  今回紹介した本は、こちらです。

ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

ユートロニカのこちら側 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 輝かしいものにも負の側面があると言うのは難しい。IT起業家のアンドリュー・キーンさんはそれをやってのけてくれました。「インターネットは自由を奪う」。それも、大きな声で。アマゾンやグーグルの功罪の罪を指摘した一冊です。

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 小川哲さんの物語は豊かです。そのふくらみが大きく花開いたのが大作「ゲームの王国」でした。こちらもSFでありながら、非常に人間的な一冊です。

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