読書熊録

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1手ごとに混沌ー読書感想「盤上の向日葵」(柚月裕子)

将棋は1手ごとに複雑になる。将棋を題材にした柚月裕子さんのミステリー小説「盤上の向日葵」もページをめくるごとに混沌とする。山中から見つかった殺人遺体、一緒に見つかった超希少な名駒。警察が目を向けるのは、実業界から将棋界に転身した天才棋士。役者が出揃ったような幕開け。しかしそこから物語は予測不能になる。収束するように見えた世界はむしろ広がりを増す。500ページ超、最後に近づくほど止まらない。2018年本屋大賞エントリー作品。中央公論新社。

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盤上の向日葵

盤上の向日葵

 

 

ホワイダニット

 同じく本屋大賞のエントリー作品、今村昌弘さんの「屍人荘の殺人」でミステリーには「ハウダニット」「ホワイダニット」があると書いてあった。ハウダニットはどうやって、つまりトリック。ホワイダニットはなぜ、つまり動機。

 

 「盤上の向日葵」はハウダニットを問わない。埼玉県の山中から見つかった白骨遺体。しかし服には刃物で刺された形跡があり、出血もある。明らかに殺されている。埋められている。

 一方でホワイダニット。誰が、なぜ。ここでもヒントがある。菊水月という、名工中の名工が作った将棋の駒。しかも初代。自ずとその所有者を探し回れば、犯人にはたどり着く。

 

 しかも、物語の序盤も序盤で、明らかに警察が犯人視する人物がいる。山形県天童市。将棋の駒で有名な温泉街。そこで、将棋界注目の2人の決戦が行われている。一人は壬生芳樹。幼い頃から天才だった王道派。一方で、上条桂介。IT業界のトップになり、それを一転して放り出した男。全てを捨てて将棋界に異例の転身を果たした、通称「炎の棋士」。

 天童市に降り立った埼玉県警の刑事コンビ、佐野と石破の目線は、この上条に注がれている。

 

遺体は誰なのか、君は犯人なのか

 上条が犯人なのか。物語が動き出す。

 序章と終章の間には23の章がある。各章は、平成6年、埼玉県警が遺体を発見し、遺留品の駒の出自を追う佐野・石破の捜査がまず軸になる。しかし間に、事件前の昭和46年、長野県の片田舎に住むある少年と、彼に将棋を教える老教師の話が挟まる。

 

 過去と現在(平成6年)の往復運動を繰り返す読者は、わからなくなる。上条が犯人なのか。上条が犯人なら、なぜ時代の寵児になった男の手が血に染まったのか。ホワイダニットである。「なぜ」がどんどんと混沌とする。

 

 また、最初に提示された要素の中で、大きな謎があったことにも、読者はたちもどる。遺体は、誰なのか。殺されたのは、誰だったのか。

 

 将棋は後半ほど乱戦になると聞く。相手から奪った駒をもう一度使える以上、描ける局面は天文学的になる。本書もまた同じだと感じた。最初は定石通りに見えたミステリーが、どんどん読んだことのない物語になる。

 

 文章もまた、駒を盤に打ちつけるように硬質に感じる。それがいい。たとえば書き出しはこうなる。

 駅のホームに降り立つと、冷たい風が吹きつけた。

 空は寒々とした鈍色の雲に、覆われている。

 佐野直也は、冷たい風から身を守るため、コートの襟を立てた。

 佐野に続き、石破剛志が電車から降りた。身を竦め、声を震わせる。(p5)

 積み上げていく一文はシンプルだ。しかしその到達点にある景色は、心が震える。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

 

盤上の向日葵

盤上の向日葵

 

 

 同じくらいに静謐な物語に、「水曜の朝、午前三時」を挙げたいと思います。書き出しで物語の出口は見えるように思う。しかし、作者は違う景色を見せてくれる。

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 「盤上の向日葵」がホワイダニットなら、ハウダニットに痺れる小説。「屍人荘の殺人」もまた、本屋大賞にエントリーされるのが頷ける作品です。

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