読書熊録

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停滞から循環にー読書感想「AIとBIはいかに人間を変えるのか」(波頭亮)

  人工知能(AI)とベーシックインカム(BI)が組み合わさったとき、停滞した社会は再び循環を始める。戦略コンサルタント波頭亮さん「AIとBIはいかに人間を変えるのか」は、そんな可能性を示す。AIは知的パワーを代替し、人間はギリシア時代のように「真・善・美」の価値の追求に邁進できる。BIは資本主義にも民主主義にも悪影響となる「格差」を緩和する。その未来はユートピアともディストピアともちがう、新しいステージだ。幻冬舎。NewsPicksアカデミア2月の教科書。

 

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AIとBIはいかに人間を変えるのか (NewsPicks Book)

AIとBIはいかに人間を変えるのか (NewsPicks Book)

 

 

 

AIは人間の情緒・身体性を補完する

 本書は3章で構成され、1章ではAI、2章ではBI、そして3章では、その二つが組み合わさったときに登場する新たな社会ステージを論じる。

 各章とも、そもそもAIやBIとは何なのかから懇切丁寧に教えてくださる。たとえばAIを論じる際は、第1次AIブームが起きた1956年のダートマス会議から振り返る。機械学習とディープラーニングの違いとか、ディープラーニングによってAIはなぜ飛躍的進化を遂げたのかとか、「今更聞けない話」も学び直せる。

 

 AIについては特に、波頭さんはテクノフォビア(技術への恐怖感)の解消に力を注いでくれる。AIがさらに発展すれば、人間の仕事を奪われるのではないか。AIは人類の敵なのではないか、という不安の解消だ。

 

 中でも、「AIは知的パワーを代替してくれる」(p206)という言葉が腹落ちした。

 

 いずれも産業革命を起こした蒸気機関、内燃機関(エンジン)、電力は、いずれも人類の「物理的パワー(エネルギー)」を代替してくれた。当時はどれも、「人間の仕事を機械が奪う」と不安視された。しかし結果は、我々は肉体労働の代わりに知的労働ができるようになった。世界中どこにでも気軽に行けるようになったし、ネットの登場後はどこにも移動さえせずに、開かれた世界につながれるようになった。

 

 同様に、AIは知的パワーを代替してくれるのである。計算や分析、傾向の抽出。知的労働も含めた生産活動を代替してくれる。それは「仕事を奪う」とは少し違う。代替してくれた分、また新しい「仕事」を見つけるのである。

 

 では、AIに代替できないものなどあるのか?波頭さんは、「情緒」と「身体性」だと指摘する。すなわち、次の仕事は「感情労働」と「活動」だ。波頭さんは「人間は知能だけではない」と表現する。

 一方で人間の知的能力には、合理的な思考・推論だけではなく、想像、直観、発想、大局観、未知の事象に関するシミュレーションといった様々なものがある。(中略)

 AIは人工の〝知能〟として人間と同等かそれ以上の知的能力が期待されているものの、そもそも心や身体性を持てなければ人間の知能の全てを代替することはできず、ごく一部の代替にとどまるのである。(p71-73から抜粋)

 同じ言葉でも、人によって受け止め方が違う。行動の裏に感情がある。体のふれあいや「勘」を通じて、関係を結び合う。そうした「知能以外」に人間が有するものまで、まだまだAIは入り込めてはいない。

 

 ここに、人間がAIと共生する余地がある。AIは人間の知能を補完してくれるので、人間はその分、感情と身体をリソースに新たな仕事や活動に乗り出せばいい。

 

BIは資本主義も民主主義も改善する

 続くBIの議論も刺激的だ。波頭さんはBIへの関心がAIへの関心に先行していたらしく、BIへの期待感と思い入れが一層にじみ出ている。

 

 BI、つまり「国民の全てに、最低の生活保障金を給付する」と聞いて、条件反射的な拒否反応はどうしてもある。「そんなことをしたら人は働かなくなるのでは」という「怠惰説」「フリーライダー説」。「そんなお金どこにもないだろう」という「財源説」も思いつく。波頭さんはいずれにも、きちんとした解を示してくれる。

 

 それ以上に強い知的刺激を感じたのは、「そもそもなぜBIは必要なのか」という問いで、「格差と貧困は民主主義にも資本主義にも合わない」(p192)という、波頭さんのメッセージだった。

 

 BIは格差を緩和する。社会が富裕層と貧困層で分断され、中間層がぼろぼろと歯抜けになった状態が「格差」だ。BIは全国民に統一的に給付をすることで、富を強力に再分配する機能がある。

 この話になると「格差の何が悪いのか」という反論が出て、議論はデットロックになる。そこで波頭さんは、民主主義にも資本主義にも格差とそれに伴う貧困が相いれないことを示す。

 

 民主主義の根幹は、「個人の自由」と「機会の平等」である。格差が固定化した場合、そこには「階級社会」が登場してしまう。ここで貧困層側に落ち込んだ人は、貧困によって個人の自由が制限される。格差が固定化すればするほど、誰もが自分の人生を変えていける機会の平等も狭まる。

 ここまでは普通の話だが、格差は資本主義にも悪影響になる。富裕層がどれだけ富を増やしても、消費量には限界がある。どれだけ高級車が好きでも、千台も二千台も持てないだろう。しかし、貧困層の富が増えれば、「稼げればやりたかったこと」に金が流れる。中間層にとってもさらにお金を得るための運用資金になる。裏を返せば富が偏ったままでは、経済全体の消費は伸びようがない。

 

 BIは貧困層に限らず、中間層にとっても富の再分配になる。これ以上、消費を増やしようがない富裕層から、個人の自由や機会の平等に直結する消費可能性を抱える層に富が移る。これは社会全体で見れば、「循環」と言って良いだろう。

 

「ギリシア時代2.0」へ

 AIが知的パワーを代替して人間を肉体労働からも知的労働からも解放し、BIが民主主義と資本主義の循環を再開させる。この二つが組み合わさった「新しいステージ」とは何か。それが第三章のテーマになる。

 

 ここで面白かったのが、実は、「新しいステージ」は歴史上存在したということだ。それはギリシア時代である。波頭さんが語る。

 生きるための労働が不要になれば、多くの人々は働かなくなるのかというと、実は人間はそのようにはできていない。人間は生きるために労働する必要が無くとも、何らかの仕事や活動を行うものである。

 生きるための労働の必要が無かった存在として、ギリシア時代の市民が挙げられる。農業や建設といった人々が生きるための労働はもっぱら奴隷が担っていたため、市民は自ら労働する必要は無かった。ではギリシア時代の市民は日々のうのうと遊んでいたのかというと、むしろ逆である。市民は、人生の時間とエネルギーを学問や芸術や政治に注ぎ込んで毎日を送っていた。(p239-240)

 AIが労働を解放し、BIが格差を解放しても、人にはまだやることが残っている。ギリシア時代は、その可能性を示している。それが学問や芸術や政治。「真実はどこにあるのか、善く生きるとはどういうことか、美しいとは何なのか」の、「真・善・美」の価値の追求だ。

 

 ギリシア時代に生み出された哲学も、民主主義という政治手法も、芸術や神話も、現代まで輝きを放ち続けている。AIとBIが連れてくる「新しいステージ」は、もう一度そういう土壌になる可能性がある。奴隷なきギリシア時代、「ギリシア時代2.0」がやってくるかも知れない。

 

 ここに、AIやBIがもたらす社会変化へ備えるヒントがあると思う。それは、「代替される仕事は辞める」といった表面的な話ではない。「真・善・美」を追求するためには、「その人自身」がなくてはならない。何を愛するのか、どんな問題に向かい合うのか。日々考え、向き合い、心や体を動かすことこそが、労働無き未来に生きる「指針」を養うことにつながるはずだ。

 

 今回紹介した本はこちらです。

AIとBIはいかに人間を変えるのか (NewsPicks Book)

AIとBIはいかに人間を変えるのか (NewsPicks Book)

 

 

 「労働無き未来」を構想し、その中に残される人間の価値、仕事の価値を論じる。同じようなテーマの本で非常に読みやすかったのが井上智洋さんの「人工知能と経済の未来」でした。本書と合わせて読めば、知識の層が重なっていくと思います。

www.dokushok.com

 

 人間の情緒の中でも極めつけは「性愛」でしょうか。なぜ人は愛を求めるのか。孤独を埋めるために性を求めても、それは愛に繋がるのか。そんなテーマを考えさせられたのがナンパをテーマにした「声をかける」です。AIともBIとも関係がありませんが、面白いです。

www.dokushok.com