読書熊録

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我々はまだ明日であるー読書感想「昨日までの世界」(ジャレド・ダイアモンド)

 伝統社会は、実はほんの「昨日」でしかない。人類生態学者ジャレド・ダイアモンドさん「昨日までの世界 文明の源流と人類の未来」は、人類の過去と現在をつなぐ回路を読者に開いてくれる。21世紀の我々が、狩猟社会や農耕社会に学ぶことはあるだろうか?たくさんある。我々も長い地球の歴史から見れば、そこから「明日」に到達したに過ぎないのだから。倉骨彰さん訳。日経ビジネス人文庫。

 

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昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 

 

 

昨日までの世界(下) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(下) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 

 

わずか1万年

 ダイアモンドさんの著作を読んで驚くのは、その時間軸である。読者にとって「昨日」とは24時間前、あるいは一晩前の昨日のことだ。しかしダイアモンドさんは数万年単位で人類史を眺める、長大な時間軸を持っている。こんな一節がある。

(中略)狩猟採集社会から農耕社会への移行は、わずか一万一〇〇〇年ほど前にはじまったばかりである。初めて金属器がつくられたのはわずか七〇〇〇年ほど前のことであり、初めて国家が成立し、文字が出現したのは、ほんの五四〇〇年ほど前にすぎない。局地的にせよ「現代」的な条件が一般化した時期は、人類の歴史全体からみればほんの一瞬である。あらゆる人間の社会は、現代化して以降の時間よりはるかに長い時間を、伝統的な暮らしのなかで過ごしてきたのである。(上巻p25)

 人類が生まれたのが数万年前。その後に生まれた農耕社会から、金属器が生まれるまでに約4000年。そこから国家、文字が誕生するまでに1600年。国家や文字が誕生して以降、まだ5400年しかたっていない。「今日」を過ごす我々より、「昨日」を過ごした先祖の方が多いと考えた方がいい。

 

 それは、「昨日」までの感覚が我々の中に息づいている根拠になりそうだ。我々は思うほど、時間を重ねていない。古代は遥か過去ではない。

 

 時間軸以外に、「社会の形」で人類を切り分けることも可能で、これまた面白い。ダイアモンドさんは、エルマン・サービスさんという人が人口規模、政治の中央集権制、社会階層の様子で分類した人間社会の4類型をよく使う(上巻p36)。

 

 まず、小規模血縁集団(バンド)。構成員は数十人で、文字通り家族と親類の集まりだ。数万年前から農耕社会の誕生まで、つまり人類の歴史の大半、我々はバンドだった。

 続いて部族社会(トライブ)になる。人数は数百人になるが、これならまだ誰もが誰もの知り合いである。バンドは氏族(クラン)に形を変え、複数のクランが協力した社会を作る。このころには牧畜、つまり狩猟と農耕を共に行うようになる。

 やがて首長制社会(チーフダム)へ移行する。いよいよ人口は数千人。農耕の活性化とともに、チーフダムは村を形成する。社会運営を行う首長とその親族、一方で経済活動を行う人々に「分化・専門化」している。

 そして登場するのが国家(ステート)。我々がいま生きているのもステートだ。人口は数万人以上。首長は官僚機構と政府に置き換わった。ステートが登場したのは、紀元前3400年ごろらしい。

 

 こう見ても、人類がステートとして過ごしてきた時間は、それほど長くない。ほとんど我々はバンドだった。トライブ、チーフダムと形を変えるにつれ、加速的に社会が変わってきた。我々は最初から、ステートではなかった。

 

建設的パラノイア

 では、我々はバンドに、トライブに、チーフダムに、何を学べるのか。

 

 まず、どう学べるのかが問題になるが、ダイアモンドさんはいまもバンド、トライブ、チーフダムの性質を残す社会の専門家だ。それはニューギニア。一部の人たちはニューギニア政府から現代的な支援を受けつつも、いまも伝統的社会を維持している。

 

 過去からの学びの中で最も面白かったのが、「建設的パラノイア」という現象である。伝統的社会に生きる人々が有していた危機管理能力とも言える。

 

 ダイアモンドさんがニューギニアで、ニューギニア人を伴って野営をしたときのこと。彼らは、ダイアモンドさんが寝ようとした場所の近くの木が枯れているので、そこで寝たくないという。たしかに枯れている。しかし、幹もしっかりしているし、根も張っている。この木が倒れるのは数年後であって、今ではない。気にし過ぎではないのか?

 

 しかし、ダイアモンドさんは彼らの「気にし過ぎ」の理由を知る。その後数ヶ月続いた野営生活で、「木が倒れる音を耳にしない日が一日としてなかったからである」(下巻p14)。

 現代人から見れば確率が低いリスク。しかし、365日を野営する伝統的社会にとって、自然界の少ないリスクが一度でも現実化すれば、間違いなく命を奪われる。

 

 このように、発生する可能性は少ないものの、頻繁に訪れるリスクに継続的に備えること、その注意深さを「建設的パラノイア」と言う。

 

 現代は、あまりにリスクが見えにくい。社会がどんどん安全になったために、日々潜んでいるリスクに無頓着でも生きていける。しかしニューギニア人から見れば、少ないリスクでも頻発するリスクは、注意すべき対象だ。

 いつも渡る交差点。階段の上り下り。ツイッターとかもそうだな、と思う。「毎日繰り返す」ことほど、異変に気付いたり、注意を払うことが大切だ。それを怠った時、もしかしたら事故に遭ってしまうかもしれないし、何気ない投稿が炎上してしまうかもしれない。

 

修復的司法

 現代から見れば驚くべき取り組みもある。ある意味で現代を先取りしていた取り組みもある。一例が「修復的司法」だ(上巻の第2章「子どもの死に対する賠償」)。

 

 ニューギニアで交通事故があり、子どもの命が失われた。ここから血を血で洗う抗争が起きるのではないかというのは偏見だ。なんと事故からわずか5日後、子どもを弔い、その死に対する賠償を行う儀式が行われた。

 儀式では少年の遺族の前で、事故起こした運転手が謝罪の気持ちを表明する。すると少年の遺族も「あなた方の対応や賠償に満足する」と表明する。最後には一緒に食事さえする。これによって事故が「解決」した。

 もちろん、心の底から和解したわけではない。あくまで、彼らにとっての「公式」な和解の場だった。儀式が終われば、もう交わることもない。

 

 それでも、たった5日で事故の加害者と被害者が関係を修復するのは驚嘆としか言えない。日本なら、深刻な事故であれば数年単位で、裁判所での係争になるだろう。

 ステートにおける賠償プロセスは、伝統的社会における賠償プロセスよりもはるかに時間がかかる。さらには、和解にこぎつけないケースも多い。むしろ、深刻な対立を生みさえする。

 実は、伝統的社会のようなプロセスは、「修復的司法」として現代に再登場している。これは、仲裁人を置き、被害者がなぜ事件・事故が起きたのか、加害者と対話しながら、両者の和解を目指すプロセスだ。ニューギニアの「儀式」は、結果的にこれを先取る形だったとも言える。

 

 

 ダイアモンドさんが本書で読者に届けようとしている学びの一端が、ここにある。つまり、伝統的社会にあった叡智を、もう一度現代社会に呼び起こすことだ。

(中略)だからこそ、私はいま法学者および法曹関係者の方々に考えていただきたいのである。小規模社会の紛争解決のシステムのさらなる理解と広範な知見にもとづき、彼らのシステムの優れたところをいかように取り入れれば、われわれの国家社会のシステムをよりよいシステムにできるかを。(上巻p256)

 学ぶべき過去がある。取り入れられる過去のシステムの知見がある。それがどれだけ幸福なことで、どれだけ知的興奮のある取り組みかを、ダイアモンドさんは教えてくれる。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 

 

 

昨日までの世界(下) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(下) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 

 

 過去の知恵を、積み上げた伝統を大切にしている人。その1人が、カウボーイという職業かと思います。「カウボーイ・サマー」は、そんなカウボーイに実際になってみた日本人の心を晴らすエッセイでした。

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 過去から現在へ。長い時間軸を持って、学びを抽出する手法は、レベッカ・ソルニットさんにも共通しています。「ウォークス 歩くことの精神史」は、歩くという営みを深く深く探求し、その多面的な意味を学ばせてくれます。

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