読書熊録

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命を奪うことを肯定する女ー「そしてミランダを殺す」(ピーター・スワンソン)

 殺人計画の物語の顔をして、殺人計画「から」始まる物語だった。米国人作家ピーター・スワンソンさんのミステリー「そしてミランダを殺す」は転がるほどに予想外の軌道を描く。空港で出会った美しい女に、妻ミランダの不貞を打ち明ける。「ぼくは妻を殺すつもりだ」「そうすべきだと思う」。夫は本当に、ミランダを殺すのか。そしてこの計画を止めるばかりか、殺人を肯定し、加速させる女は、何者なのか。務台夏子さん訳。創元推理文庫。

 

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そしてミランダを殺す (創元推理文庫)

そしてミランダを殺す (創元推理文庫)

 

 

妻殺害の計画

 ヒースロー空港のビジネスクラスのラウンジ。バーでマティーニを傾けていた実業家のテッド・セヴァーソンは、見知らぬ女に声をかけられる。美しい赤色をした、長い髪。エメラルドの瞳。肌は白く、女は紛れもなく、美しかった。

 

 通り一遍の会話。テッドは何気無く「結婚している?」と尋ねる。「いいえ。あなたは?」。テッドは「うん、残念ながら」と答える。「なぜ、残念ながら、なの?」。もう二度と会うことのない他人なら。そう思ってテッドは、妻ミランダが、新築工事中の家に出入りする大工ブラッド・ダゲットと不貞をはたらいていること、その確かな証拠を掴んだことを打ち明けた。

 酔いに任せて口は滑らかになる。なるべく本気にされないように、ウインクを交えてこう続けた。「僕の本当の望みは、妻を殺すことだよ」

 

 女はこれを冗談とは受け止めなかった。まっすぐな眼差しで、こう返した。「そうすべきだと思う」

 

 ここまで、物語はまだ30ページも展開していない。「そしてミランダを殺す」は、いきなり浮上した殺人計画が、ぐんぐんと現実味を帯びていく。静かな文章。あまりに淡々と、妻ミランダをどう殺すか、話が進んでいく。

 あっという間に計画は進み、そして変質していく。タイトルの「そしてミランダを殺す」がネタバレなんじゃないかと思っていたら、全くそんなことがなかった。この物語は計画が生まれ、完遂するまでの話ではない。全体で400ページある。いったいどこに連れていくんですか?路線を外れたバスのように、もう終着点は見えなくなった。

 

殺人を肯定する女

 テッドは間違いなく主人公で、女もまた重要人物である。女の名は、リリー。彼女は美しく、聡明で、バーで見知らぬ男に話しかけて会話を楽しむくらいには社交性がある。ただ一つ異質なのは、リリーが、殺人を否定しないということだ。

 

 リリーとは飛行機の行き先も同じで、殺人計画は機内でも続く。そこでリリーは、テッドにこう打ち明ける。

 「オーケー」彼女は言い、しばらく考えた。「正直に言うと、わたしは、殺人というのは必ずしも世間で言われているほど悪いことじゃないと思っている。人は誰だって死ぬのよ。少数の腐った林檎を神の意志より少し早めに排除したところで、どうってことないでしょう? あなたの奥さんは、たとえばの話、殺されて当然の人間に思えるわ」(p43)

 理路整然として、一見して、穴のない考えに聞こえてしまう。人間は必ず死ぬ。神が定めた天寿より、早めに命が失われて何が悪いのか?ひどい裏切りをしたあなたの奥さんは、報いを受けるべきに思える。

 でも立ち止まってみる。これが、離婚や損害賠償の相談への答えならまだいい。まるで別離や裁判と「同列」に、殺人を語れてしまうことがリリーの異常さだと気付く。

 

 あるいは別のシーンでは、美しい詩を引用してみせる。

 「(中略)誰かが自分の力を悪用した場合、あるいは、ミランダがしたように、自分に対する他者の愛を悪用した場合は、その人物は死に値する。それは過激な罰のように思えるけど、わたしはそうは思わない。人間はみな、完全な人生を与えられている。たとえそれがすぐに終わるとしてもよ。すべての人生は完結したひとつの経験なの。T・S・エリオットの有名な詩の句を知っている?」

 「どの句かな?」

 「『薔薇の時もイチイの時も長さは同じ』(薔薇ははかなさの、イチイは長寿の象徴)もちろん、この言葉は殺人を正当化しているわけじゃない。でも、どれほど多くの人が、万人が長い人生に値すると思い込んでいることか。これはそのことに対する警句だと思うわ」(p76−77)

 はかない薔薇も、長く咲くイチイも価値同列であると言うのは、たしかにそうだろう。でもやはり、美しい詩句と殺人を、あたかも同じ地平で論じて、顔色を変えないところに、リリーの底知れなさがある。

 

4人の語り手はだれか?

 本書の帯や、裏表紙のあらすじには「男女4人のモノローグで、殺す者と殺される者、追う者と追われる者の攻防を描く」とある。この4人のうち、1人はテッドで、1人はリリーだ。では、あと2人は誰なのか?それが本書の肝になる。

 

 「殺す者と殺される者」「追う者と追われる者」とある。テッドとリリーは「殺す者」であり「追う者」なのだろうか。だとすれば、残る2人は「殺される者」と「追われる者」になるだろうか。

 

 でもおかしい。「殺される者」の1人がテッドの妻ミランダだとしても、あと1人、「殺される者」がいるだろうか?殺されるのが仮に、ミランダだとして、ではテッドとリリーの他に、「殺す者」がいるのだろうか?計画は2人で立てているのに?

 

 そもそも、「殺す者」と「追う者」が分かれているのはなぜか。追うとは、獲物を狙うことなのか、それとも違った意味を持つ言葉なのか。

 

 通読して、あえて「4人」をあらすじで示したことが、ぐっとスパイスになっていると感じた。この4人を最初から言い当てられる人はいないだろう。だからこそ「そしてミランダを殺す」は予測不可能で、面白い。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

そしてミランダを殺す (創元推理文庫)

そしてミランダを殺す (創元推理文庫)

 

  

 物語がどんどんドライブして、振り落とされるような疾走感がある。上下巻の長編ですが、同じような痛快さを備えた小説に「ザ・サークル」があります。こちらはSNSを題材に、つながること、承認されることについて価値観を揺さぶってきます。

www.dokushok.com

 

 リリーという女性は殺人に関する倫理観を平然と超越する、ずらす異常さを持った女性でした。中村文則さんの「R帝国」を読むと、民主主義や人権というものが、同じぐらいぐらつく感覚を得られます。物語の入り口と出口で、違った世界が見えてくることも共通点。

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