読書熊録

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見えないから見えるものー読書感想「伴走者」(浅生鴨)

 目が見えないということは、何も見えないということではない。むしろたくさんのものが見えることを、浅生鴨さんの小説「伴走者」は教えてくれる。伴走者とは、視覚障害のある選手のスポーツで、選手の「目」となる存在。「夏・マラソン編」と「冬・スキー編」の二編が収められている。

 

 感動の物語やサクセスストーリー、とは違う。マラソン編では、サッカーで頂点を極めるも事故で視力を失ったランナーと、「速いが勝てない」と言われ続けた伴走者。スキー編では勝利を至上し弱さを切り捨ててきたスキーヤーが、奔放さと天才的な技術を持ち合わせる全盲の女子高生。それぞれの「関わり合い」を描く。

 読み進めるうちに、「見えないこと」や「障害」とは何かが問われ、「見える/見えない」の境界が溶けていくように感じた。目が見えないから、見えるものがある。講談社。

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伴走者

伴走者

 

 

したたかな言葉

 「伴走者」の登場人物が放つ言葉は、したたかだ。

 

 「夏・マラソン編」の主人公の一人・内田健二は、「異端児」と言われるサッカー選手だった。二十代半ばでいきなりヨーロッパのリーグに現れ、ふてぶてしい態度でヒールな魅力を振る舞いていた。本田圭佑選手や、中田英寿選手をもっとざっくばらんにしたようなイメージかもしれない。しかし全盛期半ばにして、バイク事故で視力を失う。

 その描写は淡々としている。伴走者を務めるランナー淡島の述懐の中で、流れるようにさっと触れられるだけだ。むしろ、内田の言葉が目につく。 

 

 パラリンピックで金メダルを獲ると豪語する内田に、淡島は世界レベルというのは別次元なんだと諭す。それに内田は答える。

 「俺は一度世界を見ているんだぜ。そのころはまだ視力があったから、文字通りこの目で見てきたんだ」そう言ってからグヘヘッという下品な笑い声を出した。(p48)

 晴眼者(目が見える人)の自分は、そして淡島も、こういう物言いにドキッとする。視覚障害者に「見える/見えない」の話をすることは、もっとナイーブなものなんだと思い込んでいる。触れないように、傷つけないように慎重になりすぎる。

 

 しかしそれは、「見えなくても幸せ」という単純な話でもないのだろう。内田は底抜けに前向きだ。しかし「なぜブラインドマラソンに挑むのか」を問われる時、内田の違った一面が垣間見える。

 淡島は不思議に思った。元サッカー選手なのだからマラソンではなく短距離走のほうが世界を狙いやすいんじゃないのか。

 淡島の問いに内田は黙り込んだ。控え室の入り口に置かれたウォータークーラーの低い振動が床を伝わってくる。遠くのほうで車のクラクションが響いた。

 「一人で杖をついて歩くのは今でも怖い。でも長距離を走っていると、恐怖がふっと消える瞬間があるんだよ」

 しばらくしてから内田は頭をそっと上げて、顔を淡島のほうへ向けた。

 「走っている間だけ、俺は自由になれるような気がするんだ。好き嫌いじゃない。俺にはマラソンが必要なんだ」(p21)

 豪快で、視力を失った後に金メダルを目指そうとする男も、杖をついて歩くのは怖い。その怖さを抱えて走る。自らの境遇を笑い飛ばすことさえする。内田の言葉は真っ白な強さではない。いくら傷を負ってもなお進もうとする、したたかさを感じる。

 

弱さのない人は強くなれないんですよ

 「冬・スキー編」の主人公の一人・鈴木晴はもっと奔放だ。内田は途中で視力を失ったが、晴は光のない世界を生きてきた。内田よりもっと、「弱者」として扱われてきた。

 ファミレスに入れば、注文をどうするか、店員が尋ねるのは晴の横にいる誰かだ。見えないことが「何もできない」ことと同義だと思ってしまうのは、晴眼者にとっては人ごとではない感覚だと思う。

 

 春をブラインドスキーのスターにしようと、東北地方の中堅メーカー北杜乳業が動き出す。そこで伴走者に任命されたのが営業マンの立川涼介だった。立川は日本最速クラスのスキーレーサーだった。

 涼介はアスリートの矜持に溢れ、勝利こそが価値であり、邪魔になる弱さを切り捨ててきた人物だ。マラソン編の内田も、伴走者の淡島も、ここまでではないにせよ、勝利や記録を目指すスタイルは同じ。

 しかし晴は違う。楽しく滑りたい。望むように滑りたいというのが願いだった。

 

 晴と涼介が出会った時、互いの価値観のぶつかり合いがある。この「関わり合い」が本作「伴走者」の魅力だと思う。本作は、晴眼者の伴走者が、視覚障害者の選手を引き上げるストーリーではない。一致団結して勝利を目指すというほど美しくはいかない。関わり合い、ぶつかりあい、ばらばらになりそうになってもまだ前進することが物語の核心にある。

 

 本来、目の見えない晴が問題なく滑れるように、涼介がガイドする。雪面の状況、こぶの様子、コースの方向。しかし、練習の後半でガスによって視界が悪くなったあるとき、晴が「自分が伴走者をやりたい」とリクエストする。この時の会話が胸に残っている。

 「怖がるのが不思議なんですよねー」

 「何で不思議なんだよ」

 「だって、それまで何でもできていた人が、急にダメ人間になるんだもん」

 「俺たちは視覚に頼ってるからな。視覚がなくなると動けなくなる」

 そう。その瞬間、強者は弱者になり弱者は強者になる。光のない世界に入り込めば、視覚障害者は圧倒的な力を持つことになる。

 「それなのに立川さんは弱さを見せない」

 「どうせ俺は偉そうだよ」

 「弱さのない人は強くなれないんですよ」

 ゴーグルに隠れているせいで、晴の表情はうまく読み取れなかったが、その口調は真剣だった。(p197)

 涼介は、晴眼者が視界が奪われる様子を「強者は弱者になり弱者は強者になる」と表現する。これは強者と弱者の線を意識して、それが逆転するという認識だろう。

 

 一方で、晴は「弱さのない人は強くなれないんですよ」という。ここでは強さと弱さが分かれていないように思う。むしろ輪っかのように、弱さが強さとつながるようなイメージが湧く。

 

 弱さと強さが輪になるとは、どういうことなのか。涼介は次のページで晴の伴走で滑ることで、実感を得る。それは読者にとっても発見だろうと思う。ぜひ、本書を手にとって、その様子を一緒に体験してみてほしい。

 

革命家にだって伴走者はいたでしょう

 涼介が晴の伴走を受けることで「弱さのない人は強くなれないんですよ」という言葉の真意を発見したように、本作のテーマのひとつは「伴走とは何だろう」ということだ。それは、強者が弱者を誘う、先導する、とは違うんじゃないか。

 

 そして、伴走者という存在はスポーツに限らない。改めてページをぱらぱらとめくっていくと、「夏・マラソン編」に印象的なシーンがある。

 

 パラリンピック出場に向けて、重要となる大会の舞台は「南半球の島国」だった。この国ではかつて革命があり、革命家の家が文化遺産として残されている。内田はそこを訪れたいと淡島にリクエストする。

 革命家の家を管理する小さな小屋には、浅黒い肌の老人がいた。淡島は、革命家の家を見ることができない内田に、家をじかに触らせたいと思って相談した。もちろん難しい相談で、老人は怪しむ。

 「なぜ目の見えない者がここに来たのだ」

 「彼自身を変えるためです」

 「お前は何者だ」

 老人は怪訝そうな表情になった。

 「俺は伴走者です」淡島は胸を張った。「革命家にだって伴走者はいたでしょう」

 伴走者はレースを共に走るだけの存在ではない。誰かを応援し、その願いを叶えようと思う者は、みんな伴走者なのだ。(p97)

 革命家にだって伴走者はいたでしょう。淡島は内田と出会い、伴走する中で、この言葉をとっさに出すようになった。そして内心で「誰かを応援し、その願いを叶えようと思う者は、みんな伴走者なのだ」と確信する。このあと、老人はある理由で淡島の言葉に胸を打たれ、涙を流す。

 

 革命家にも伴走者はいただろう。 だとすれば、平凡に生きる我々にだって、伴走者はいるだろう。あるいは伴走者になれるだろう。

 自分は、伴走者になれるだろうか。本気で誰かの願いを一緒に見たいと願えることがあるだろうか。そんな問いも浮かぶ。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

伴走者

伴走者

 

 

 

 視覚障害のあるひとのスポーツという、未知の世界を歩く中で、日常にまで響く発見があった本作。この感覚、前にも味わったなあと思い出したのが、前田将多さんのノンフィクション「カウボーイ・サマー」です。広告マンをやめて、本当にカウボーイになったお話。前田さんが見た空が、自分にも見える気がします。

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 したたか、あっけらかんさ、ただただ明るいというよりは、諸々含んで前に進むというスタンス、バッタ博士も同じじゃないかと思いました。前野ウルド浩太郎さんの「バッタを倒しにアフリカへ」は、なかなか研究費に恵まれないバッタ博士前野さんの奮闘が描かれています。

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