読書熊録

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散歩は楽しまなきゃー読書感想「さよなら未来」(若林恵)

 行き先もルートもそこで出会う何かも、全てを予想できる散歩を散歩とは言わない。散歩は楽しまなきゃ。「さよなら未来 エディターズ・クロニクル2010-2017」で語られていることは、そういうことだと思う。

 

 「WIRED」日本版前編集長だった若林恵さんが、WIREDの巻頭に乗せたエッセイや取材記事、ブログ、書籍の解説文などなどを集めている。話題は原子炉からビヨンセの妹でもあるアーティスト・ソランジュまで、中森明菜から腸内細菌(フローラ)まで多岐に渡るけれど、「経済と社会の関係ってこれでいいの」「未来志向って、誰のための未来よ」という壮大なテーマが通奏低音になっている。雨が水たまりに落ちるように、発見と驚きが連続してさらなる波紋になる。それが心地いい。岩波書店。

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さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

 

 

社会からディスエンベッドした経済

 WIREDは最新技術だったり、新しいビジネスを意欲的に取り上げる雑誌のイメージがある。だから前編集長の若林さんが「さよなら未来」と銘打って本を出されるのは、どことなく引っ掛かりがあった。一体何が書かれているのか。行き過ぎたテックへの批判なんだろうか。

 

 いわば作品集なんだけれど、各章の冒頭に「いま」の若林さんが一言付け加えていて、それがそれぞれのエッセイ・文章をつなぐ「縦糸」になる。その縦糸が何なのかといえば、「社会と経済の関係はこれでいいの」ではないかと思う。

 

 2016年2月10日、WIRED第21号に寄せられた「夜明け」というエッセイが端的な気がする。ここではカール・ポランニーという経済学者の言葉を引き合いに出す。

 「社会における経済の位置」ということを考えてきたポランニーという人は、本来は社会というものの中にエンベッドされていた(埋め込まれていた)「経済」というものが、産業革命以降、社会から「ディスエンベッド」し(「離床」という訳語があてられる)、肥大化することで、逆に、経済システムのなかに社会を埋め込んでしまったと説明する。(中略)

 ああ。そうだ。その通りだ。人間は商品ではないし、「投資」して「開発」すべき「材」でもない。けれども経済システムにしっかり埋め込まれてしまった学校や教育というものは、終局的にはいつだってそのシステムに適応すべき「部品」を「開発」し「生産」すべく方向づけられている。(p274−275)

 社会にエンベッドされていた経済がディスエンベットして、反対に経済の中に社会を埋め込んでしまったというポランニーの指摘を、人口に膾炙した「人材」という言葉に若林さんは照射してみせる。そして違和感を浮かび上がらせる。

 

 この「違和感」や「それでいいの?」という思いを、若林さんは何度でも語る。同じことを繰り返しているとかではなく、違った語り口で、何度も突きつける。読者にとっては、音楽の話が、アートの話、イスラエルの話、理研の話なんかと、思わぬ形でリンクを結ぶのが楽しい。

 

 たとえば、沖縄の音楽をテーマにした「音楽に産業は必要か?」というエッセイがある。これはポランニーを取り上げた2年近く前の2014年3月16日にWIREDのネット版に寄せられたものだ。「沖縄の音楽産業をいかに振興するか」というテーマのイベントに参加するため、沖縄で乗ったタクシー。運転手さんが当たり前のように三線をひけて、小学校でも習うんだよ、という話から、若林さんはこう思う。

(中略)たとえ何十人の安室奈美恵を、何十組のBEGINやKiroroを輩出することが経済にとっていいことだったとしても、「すべてのひとが楽器が弾ける県」であることのほうが、たしかに、ずっと豊かだろうし、はるかにカッコいい。なんなら新しい感じさえしてくるほどだ。それでいいじゃん。タクシーのなかで思ったのは、そういうことだ。音楽を、無理に経済に従属させなきゃいけない理由なんて、実際のところ、どこにもない。(p138−139)

 

 生産的であるとか、経済的に成立することが唯一の「価値」のようになる傾向が、あまりに進んだ「いま」と、その延長線上の「未来」に若林さんはきっちり疑問を呈する。読んでいて、自分の頭も「経済」にガチガチに塗られて、もはやその下に何があったかさえも分からなくなるほど固まっていることに気付く。

 

未来などない。あるのは希望だけだ

 だから「さよなら未来」なんだと合点がいく。それは単なるテック批判じゃない。懐古主義じゃない。「未来」って、AIやアルゴリズムで予測可能で、経済や資本主義を突き詰めた「未来」だけじゃないじゃん、という話だ。

 

 「最適化されてはいけない」(2017年12月9日、WIRED第30号)が刺激的だった。小学生の身体データをビッグテータとして蓄積したとして、その子が最も向いているスポーツ、「最適」なスポーツが分かるとする。サッカーには向いていないけど、重量挙げには向いてそうだとわかれば、その子は将来、重量挙げのオリンピアンになれるかもしれない。

 でも、重量挙げの才能があるとアルゴリズムがはじき出した子が、「サッカーをやりたい」と言い出したらどうなるだろう?それでも「最適」な重量挙げをやらせることが、その子にとって「最善」なんだろうか。

 

 若林さんは、「マラドーナやメッシが存在する以前の環境に基づいたデータ解析は、果たして幼きマラドーナやメッシを「サッカー選手として適性」と認定することができただろうか」という問い掛けでこの問題の奥行きをぐっと広げる。そして、こう続ける。

 彼らが、たとえ周囲になんと言われようとも、サッカーを選んでくれたおかげで、サッカーというゲームは確実に豊かになり、拡張したということだ。世界は彼らを通して新しい熱狂、新しい価値を手に入れた。それは過去の「最適」からハミ出すことでしか生まれえなかったもののはずで、そのことをもって彼らは世界中の「適性ではない」子どもやオトナにだって、新しい夢を与えたにちがいないのだ。(p486)

 

 予想できる未来から「ハミ出した」ものが、新しい価値を生む。そこに初めて「いまの延長線上」ではない何かが見つかる。ハミ出すというのは、奇抜だとか目新しいとかじゃなくて、過去や現在の言葉や理論で安易に説明し得ない何かのはずだ。

 

 こういった思索をぎゅっと詰め込んだ「さよなら未来」というタイトルなのだけど、最終盤ではより鋭い言葉で言い換えられている。

 イリイチは晩年に「「未来」などない。あるのは「希望」だけだ」って言い遺しているんだけど、これも、なんだか似たようなことを言っているようにも思えて。未来に期待をして、予測をして、計画をしていくことで、ヒトも人生も、開発すべき「資源」や「材」とされてしまうことにイリイチは終生抗い続けたんだよ。

 

 ー単に「お先真っ暗だから、せいぜい希望をもつくらいしかできない」って意味じゃないんですね。

 

 未来ーーあるいは、ここでは人生って言ってもいいんだけどーーにやみくも期待し続けることから脱けだせなかったら、ヒトはいつまで経っても未来というものの奴隷なんだというのが、その本意だと思う。(p509−510)

 未来などない、あるのは希望だけだ。オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチの言葉を、若林さんは「未来に闇雲に期待しない」ということだと受け止める。むしろ、ヴィクトール・フランクルの「あなたが人生になにかを期待するのではなく、あなたが人生からなにを期待されているのかを考えること」という考えが、未来を考える上で大切なんじゃないかと。

 

 未来は夢を描くキャンバスというより、絶えず降りかかり、私たちを驚かす何かである。「未来が」期待したものに自分が思いっきりスイングするためには、予想外の未来に向き合うためには、むしろ考えるべきは「いま」なんだろう。そう思った。

 

点と点がさらに点

 ここまで「さよなら未来」の通奏低音の話をしてきたけれど、本書の楽しみはそもそも「各曲」、それぞれのエッセイがすこぶる面白いことにある。点と点が線になるというより、点と点がさらに別の点を想起させたまま、つながらいままワクワクする、そんな感覚がある。

 

 ひとことで言ってしまえば出会いなんだと思う。ぱっと目に飛び込んだフレーズ、短いエッセイで描かれるものが、鮮明な心象風景になって胸に焼きつく。

 

 「音楽にぼくらは勇気を学ぶ」(2016年2月10日)では、ナチスドイツ下、処刑直前に教育者のアドルフ・ライヒヴァンが11歳の娘に宛てた手紙を引く。これが文脈を離れてさえインパクトがある。

 いつでも人には親切にしなさい。

 助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、

 人生でいちばん大事なことです。

 だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、

 いっぱい勉強するようになると、

 それだけ人びとを助けることができるようになるのです。

 これから頑張ってね、さよなら。お父さんより。(p282−283)

 若林さんは「ヒトラーに抵抗した人々」(對馬達雄さん、中公新書)でこのメッセージに出会った。その出会いを胸に留めて、WIREDの特集とリンクさせた。 

 今回の特集は、つまるところ、「人はなぜ学ばねばならないのか」という問いの答えを探しつつ、誰しもが「金融屋や銀行屋」のようにしかものごとを評価できない世の中にあって、経済の指標に対するオルタナティヴな価値基準ってのはなんだろうと考えるものとなった。それをうだうだ考えながらつくりあげていく途上で、音楽とも学校とも、ほとんど関係のない一冊の本と出会って、ぼくは「勇気」と「学び」について、ひとつ大きな答えをもらった。(p282)

 

 学ぶことはそれだけ誰かを助けられることだと、極限下でも語ることを忘れなかったひとの言葉。「人はなぜ学ばねばならないのか」、なんでもかんでも数値化して数値化できない価値を認めない現在を「うだうだ考えながら」、その言葉に出会った衝撃。ひとつのエッセイで、ここまでビビットに伝わるものなんだと驚く。

 そういえばこれも雑多な現れとして、巻末には宮崎夏次糸さんの「海へ」という漫画が収録されている。冒頭の散歩の話は、この漫画で描かれていることから拝借した。

 

 「さよなら未来」は、こういった小さな出会いの寄せ集めだ。それは必ずしも統合できない。もやもやと頭の片隅に残りっぱなしな話もある。でも、それがいい。統合できない、管理可能でないことが、なんだか安心できる。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

 

 

 身体が突然分解し、世界のどこかで再構築する、つまり明日同じ場所に留まれない「量子病」になった女性のライフストーリーを描いた小説「マレ・サカチのたったひとつの贈物」は、「さよなら未来」の通奏低音にぴったり乗っかる物語じゃないかと思います。

www.dokushok.com

 

 未来ということばを疑って、もういちど捉え直す。同じようなことを「コミュニティ」に対して行なっているのが、ジグムント・バウマンの「コミュニティ」かと思います。なぜ、いまつながりが喧伝されるのか。コミュニティはこれまで誰が作ってきて、どうして崩れてしまったのか。そんなことを思索しています。

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