読書熊録

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終わりの匂いがする恋愛小説ー「じっと手を見る」(窪美澄)

 窪美澄さん「じっと手を見る」は恋愛小説だけれど、キラキラした希望より終わりの匂いがする。人間が誰も避けられない死の予感がする。むしろそれを正面から取り上げている。

 富士山が見える田舎町で、介護士として働く男女と、二人に関わる別の男女計4人が織りなす物語だ。圧倒的な重労働。働いても働いても楽にならない日常。閉塞感が曇り空のように漂い続ける街で、それでも4人は人を好きになる。汗にまみれて、夜は一向に明けなくて、それでも。この物語を希望と言っていいのかは分からない。何かが胸に残り続けるのだけど。幻冬舎。

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じっと手を見る

じっと手を見る

 

 

夢は足元から崩れて

 「じっと手を見る」というタイトルを聞いたら、石川啄木が思い浮かぶ。

はたらけど

はたらけど猶わが生活楽にならざり

ぢっと手を見る

 本書を読み進めれば、あながち的外れな連想ではないように思える。

 

 舞台の街は小さい。この街の特別養護老人ホームで働く日奈と、幼馴染でかつて彼氏だった海斗が軸となる主人公だ。そして、二人が卒業した専門学校のパンフレットを作るために、日奈の元にやってきた編集プロダクションの宮澤という男性。その宮澤へ、幸せの望めそうにない恋をする日奈を、じりじりした気持ちで見詰める海斗に接近する後輩の畑中という女性も主人公を演じ、計4人になる。

 

 小さな街から大きな街へ、ではない。小さな街でつつましい愛と夢を紡ぐ物語ともどうやら違う。むしろ物語は、濃く立ち込める閉塞感を一向に晴らさない。

 

 それに押しつぶされそうになっているのは、海斗だ。互いに介護士の日奈と一緒になれれば、と夢を描いていた。別れてもなお、そういった夢は消えないものだ。でも、生活というものは必ずしも夢を許してくれない。

 昼間から持ってきた自分のバッグから、通帳を出して開いた。五十万、二十万、十万、三万、一万……三十万。ある程度まとまっていた金額がどんどん減っている。専門学校を出て五年、こつこつ貯めた金が、母親に渡す生活費、今年の春から東京の私立大学に通うようになった弟の学費に変わっていく。

 まずケアマネジャーになって、何年か働いたら大学に行って、社会福祉士になるつもりだった。その後は日奈に交代で大学に行ってもらう。専門学校の先輩夫婦が、そんなふうにして、交互に大学に行き、今は二人とも社会福祉士として働いていた。自分も同じ道を歩きたかった。その夢がもろもろと自分の足元から崩れていく。金も、女も、自分は失いつつある。(p53)

 働けど、働けど。そんな現実が海斗にのしかかる。もちろん日奈だって、畑中だって同じようなものだ。「じっと手を見る」は、出口のない生活からスタートする。始まっても出口なんてないのに、人を好きになる。

 

なんでも揃うはずのショッピングモール

 物語ではショッピングモールが象徴的に扱われる。前作の「さよなら、ニルヴァーナ」でも窪さんはショッピングモールを一つのモチーフにしていたように思う。

 

 日奈にとってはこの小さな街でなんだって揃う場所がショッピングモールだ。

 「買いたいものあるからモールまで行ってくれる?」

 「おまえさぁ、休みのたびにモールモールって、あそこがおまえの世界の中心か」

 「だってあそこに行けば何でもあるもん」

 「年寄り相手に大変な仕事して、休みになったらモール行って、ユニクロとか無印で服買って、なんたらフラペチーノとかばっかり飲んで、ろくにメシも食わねぇし、おまえ、それじゃだめでしょ。人生なめてんの」

 「私はそれで十分幸せなの」(p21−22)

 会話の相手の海斗には、モールではまったく満足できないという気持ちがにじんでいる。なんでも揃うけれど、どこにだってあるのがモールだ。無印だって、ユニクロだって、それはこの街固有のものではない。街の中心が「どの街にもあるもの」であることに、海斗は許しがたい平凡さを感じるようだ。

 

 一方で、東京で生まれ育った宮澤は言葉の前提が違う。

(中略)けれど、隣のテーブルも、奥に続く目に入るテーブルも、赤ん坊や幼児を連れた母親ばかりだ。ここで夕食をすませてしまおう、ということか。どんなに簡単な食事でもいいから、こんなに埃っぽい場所ではなくて、家で手作りの物を食べさせてやりたいと思うのは、自分に子どもがなく、子育てもしたことがないからだろうか。(p169)

 何もかもある都会の感覚で、モールの価値は決して測れない。それは希望と夢が溢れる側には、それがない側の気持ちを想像し得ないことと似ている気がする。

 

 海斗が、宮澤に好意を寄せる日奈が許せないのは、この断絶も起因しているように思う。宮澤の感覚を、海斗は持ち得ない。そんな宮澤に元に日奈が近づこうとして、海斗はどうして止められるだろう。その心の隙に畑中が近づいてきて、どうして拒めるだろう。

 

なんで生まれてくるの?

 海斗も日奈も(畑中も)従事している介護の仕事が、物語の中では色濃く描かれる。それは凄まじい重労働で、心も体もすり減らしていく。海斗がいずれ社会福祉士に、という未来予想図を描くのも、介護士として一線で働けるのはいつまでだろうという不安があるからだ。恋をしていたって、この不安が拭えるわけじゃない。

 

 そして端的に、介護の現場では「死」は身近にある。介護される高齢者はすべからく、死に向かっている道中で、様々な不具合は死に向かうからこそ生まれる。

 

 仕事の中で日奈の心の中に渦巻く言葉が胸に残っている。

 (中略)けれど、介護の仕事に携わる時間が長くなるほど、生の終わりの決定権を誰一人持っていないことを思い知らされる。介護をされている三好さん自身にもその権利はない。自分の仕事は、死を看取るのではなく、死までの長い時間にほんの少し寄り添うことだけだ。愛美璃だけでなく、この仕事があまり人に好まれるものではないこともわかっている。けれど、自分にできることはこれしかない。老いて死に向かっていく人の面倒をみること。それをして、私は自分の生を持続させている。いつ終わるのか私自身にもまったくわからない生を。

 「人はいつか死ぬのになんで生まれてくるの?」

 愛美璃の無邪気な問いに私は答えを持っていない。(p155)

 

 介護をされている三好さんの孫娘・愛美璃の「人はいつか死ぬのになんで生まれてくるの」という問い掛けに、答えを持っている人はいるだろうか。

 恋愛はある意味で、いつか死ぬことを度外視してのめり込むものだと思う。死の予感を振り切れるくらい、生を謳歌しようとして、あるいは生が終わるなんて思いもしない気持ちを持っているからこそ、できることでもある。(もちろん不治の病の方で恋愛をされるケースもあるから、一概には言えないかもだが)

 でも日奈は常日頃から、人間とは死に向かっていて、死に方も死ぬときも選べないことを感じ取っている。それでも人を好きになる、という始まり方なのかもしれない。

 

 だからこそ、共感とは違う何かがある。日奈の抱えるもの、海斗の閉塞感は、分かるようでやっぱり分からない。恋愛と聞いて想像する希望とはちがうものが、この物語の中に埋まっている気がする。

 

 今回紹介した本はこちらです。

じっと手を見る

じっと手を見る

 

 

 「じっと手を見る」を読み終えて思い浮かんだのは蓮見圭一さんの「水曜の朝、午前三時」でした。恋人の母親が大切な恋を回顧する物語で、これも異質な恋愛小説かなと思います。

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 ノンフィクションで、介護の現場とは違う「死」、戦場における死を克明に描いているのがクリントン・ロメシャの「レッド・プラトーン」です。アフガン兵に囲まれ、奇襲された米軍の前哨で戦った兵士のレポート。

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