読書熊録

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正しさから遠く離れて息を吸うー読書感想「メゾン刻の湯」(小野美由紀)

 日常が息苦しくなったら、小野美由紀さんの小説「メゾン刻の湯」を開くといい。正しさとか、美しさとか、生産性とか。「こうあるべき」だと、世の中が駆り立てる価値観から、遠く離れた場所が見つかる。そこで深く息を吸う。

 

 東京の昔ながらの住宅地に佇む、築100年の銭湯「刻の湯」。そこに若者が集うシェアハウスがある。どうしても就活の流れに乗れなかった「怠けアリ」の「僕」。マレーシアと日本のハーフというルーツを持つ女性。事故で片足を失った美容師。フリーエンジニア。ベンチャーで悪戦苦闘する社員・・・。ままならないなりに、それぞれの人生を歩いていく。サクセスストーリーじゃなくて、ライフストーリーが流れていく。ポプラ社。

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メゾン刻の湯

メゾン刻の湯

 

 

「怠けアリ」こそ必要

 主人公の「僕」、湊マヒコは企業への内定がないまま大学を卒業した。どうしても就職活動に入り込めなかった。見かねた幼馴染の蝶子から、「刻の湯」を手伝いながらシェアハウスで暮らせばいいと提案される。刻の湯は世捨て人のような若者アキラが実質的に経営していて、アキラはマヒコを一目見て「実にいい」と笑う。

「君さあ、ふてくされてんだろう」

 はあ、と僕は思わず聞き返した。

 「社会に受け入れらんなくて、ふてくされてんだろう、受け入れてくれなかった社会に、ムカつきつつ、馬鹿にしてんだろう。うん、いいね、実にいいよ。場所の質っていうのはさ、そこに長くいる人間の質で決まるだろ、君なんかまあ、合格だね。僕はさ、8割の働きアリには興味ないの。何にもやることなんかなくって、てんでダメで、ぶらぶらしているような、2割の怠けアリこそ、こういう場所には必要なんだ」(p18)

 

 刻の湯は、やることがなくって、ぶらぶらして、それでいて自分を受け入れてくれない社会へムカついてふてくされているような「怠けアリ」こそ必要だ。アキラの言葉の真意をゆっくりゆっくり探していくのが、この物語を読む楽しみだ。

 

 思い浮かべてほしい。働きアリを求める場所はいくつもある。会社も、家庭も、学校も、みんなが活躍と生産性を求めてこないか。一方で、怠けアリを必要とする場所はどこにある。そんな場所なんて、あるんだろうか。

 

 マヒコは結局、刻の湯で働きながら仕事を探すということで、居候をすることを決める。ただ、就職活動に乗り気になれなかったモヤモヤの根本が変わるわけでもなく、なかなか簡単に仕事をきめられない。

 

 それでも、マヒコの人生は続く。マヒコは内定もなく「終わり」だと思っていたけれど、生は終わることなく、淡々と続いていく。「不思議だった」とマヒコも語る。刻の湯は教えてくれる。肩書きも名誉もなくったって、食べるものと寝る場所があれば、とりあえず生きていける。

 

 「怠けアリ」を切り捨てず、確かな暮らしを紡ぐ場所になる「刻の湯」は、現実にはなかなか見つからないからこそ、優しく輝いて見える。

 

貼られたラベル、そうじゃない俺

 「メゾン刻の湯」にはシリアスなテーマも隠されている。それが、マイノリティ・ラベリングの問題だ。

 

 マヒコも「ない内定」というマイノリティ。同居人はある意味もっと「わかりやすく」マイノリティだ。小野さんはマイノリティの「分かりにくい」生きにくさを丁寧に描き出しているように思う。

 

 シェアハウスの住人の一人、龍くんは左足の膝から下がない。世間的に言えば、障害者というくくりに入る。でも底抜けに明るくて、人当たりが良くて、障害なんてへっちゃらというあっけらかんさを常にふりまいている。

 同居人のエンジニア、ゴスピがある問題に巻き込まれ、刻の湯を飛び出してしまうハプニングが起きる。その時に龍くんが紡いだ言葉は、普段の様子と少し違った。

 「(中略)……あいつさ、今、すごくしんどいと思うよ。ああやって、自分が意図しない形で好き勝手にラベリングされるのってさ、なんか、そればっかりになる気がしてさ、”そう”な俺と、”そうじゃない”俺があったとして、」

 そう言って、龍くんは中空に手で輪っかを二つ作った。

 「”そうじゃない俺”はどこ行くの? って感じよ。俺だって、今でこそ慣れてさ、むしろそれを利用してやるぞー、みたいなとこあるけどさ、それでもやっぱ、きついときもあるもん。『障害者タグ』みたいなの、わかる? 付けられんの。それだけで判断されるっていうのはさ、自分に関する、それ以外の部分を、全部丸ごと無視された気になるんだ」(p161−162)

 

 龍くんは「自分が意図しない形で」、障害者とラベリングされる。左足がない状態を見て、障害者と思わない方が難しいのは、たしかにそうな気がする。でも、そうやって自分たちが「障害者」とラベルを貼るとき、「そうじゃない」龍くんが肩身を狭い思いをしている。無視されているようにすら感じる。

 

 ネット、SNSであらゆるものが「可視化」されているようにも思う。ただ、人間すべてを可視化しうるというのはきっと幻想で。「見えるもの」が増えた分、「見えないもの」への想像力を失っていないか、と自問する。

 

 「メゾン刻の湯」は別に、この難解さの答えを示しはしない。そんなことを期待して読むのは野暮なんだと思う。シェアハウスでみんなが理解しあって、ハッピーなんて話じゃない。だからこそ面白い。むしろ「理解」という言葉の難しさと複雑さを解きほぐして、また絡まっていく物語だ。

 

 どうすれば龍くんと、もっといい関係を作れるのか。「そうじゃない俺」と握手できるか。キリキリと締め付けるラベリングをどうコントロールすればいいのだろう。そんなことをつらつら考えながら、読み進めた。

 

意味のある瞬間が、いつかやってきます

 「メゾン刻の湯」にはいくつも、ふっと立ち止まりたくなる言葉がある。それは宝物みたいに、物語の展開とは別に胸に残る。

 

 明治から続く刻の湯を守るのは、戸塚さんというおじいさん。あるとき、マヒコに「自分は声楽家を目指していた」という話をしてくれる。これは要約するのがもったいないと思うほど滋味深い。その語りの最後に、戸塚さんはこんな言葉を掛ける。

「形にならなかったもの、行動できなかった時間、紡がれなかった言葉ーーそれら全てが意味を持つ瞬間というのが、人生には必ずやってきます。けれどその渦中にいる時は、その価値は分かりません」(p51−52)

 

 この言葉に救われた気がするのは、戸塚さんが「意味を持つ瞬間」が「人生には必ずやってくる」と言い切ってくれたことだ。そしてそれは必ずしも「今」ではないし、「今じゃなくていい」ということでもある。

 

 人生の「今」に「意味を持つ瞬間」を求めることは、実はしんどいと思う。もちろんその瞬間が今と重なっていたら万々歳だし、人生に意味のある瞬間がたくさんあったらそれは素晴らしい。でも、人生を意味で埋めつくそうとすると、急に苦しくなる。

 

 戸塚さんは、いつかやってくるんだと優しく微笑んでくれる。だから向い合えそうな気がする。 形にならないもの、行動できない瞬間、紡げない言葉に。

 

 刻の湯もそんな場所だ。湯に入って、一息ついて、ご飯を食べて、寝て。そして生きにくい社会と、日常と、自分なりに格闘していく。こんなに素敵なスポットは現実には見つけられないかもしれないけど、似たような隙間は、日常に織り込めるかもしれない。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

メゾン刻の湯

メゾン刻の湯

 

 

 この本を手に取るきっかけになったのは、小野美由紀さんと佐々木俊尚さんの対談記事をネットで読んだことでした。その佐々木さんの新刊「広く弱くつながって生きる」も、いまをどう生きるかのヒントをくれた一冊でした。

www.dokushok.com

 

 複雑なものを複雑なまま語る。わからない相手とわからないなりに付き合う。そんなテーマを扱った小説といえば、今村夏子さんの「星の子」が思い浮かびます。新興宗教にのめりこむ両親を持つ、少女の物語。

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