読書熊録

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道具による支配を脱するためにー読書感想「コンヴィヴィアリティのための道具」(イヴァン・イリイチ)

 人間をいかすための道具が、人間を支配する道具になっている。1973年に出版された「コンヴィヴィアリティのための道具」の問題意識は、現在にあっても色あせていないし、むしろなお、考えるべき問題といえる。

 

 ウィーン生まれの思想家イヴァン・イリイチさんの著作。資本主義や経済成長主義に疑義を呈す「脱成長論」の源泉となる一冊という。イリイチさんは、自動車から学校制度、医学といった近代における「便利な道具」がいかに人間の本質的自由を毀損するかを明らかにする。そこから、どう「人間をいかす道具」を取り戻すか。コンヴィヴィアリティ(自立共生的)をキーワードに解く。この概念を噛みしめると、「現代の魔法使い」落合陽一氏が唱える「デジタルネイチャー」とリンクするのも面白い。

 2018年上半期の傑作エッセイ「さよなら未来」(若林恵さん)で重要な文献として挙げられており、手に取った。渡辺京二さん、渡辺梨佐さん訳。ちくま学芸文庫。

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コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 

根源的独占と「現代化された貧困」

 コンヴィヴィアリティとは何か。本書の最大のポイントはここなんだけれど、そこにたどり着くにはまず「道具による支配とは何か」を考える必要がある。道具による支配は、「根源的独占」によってもたらされる。

 

 根源的独占とは、産業の進歩の結果として生じた排他的な独占状態を指す。

 これは、たとえばコーラの市場がコカコーラとペプシが支配している、という意味とは全く異なる。たとえそうでも、我々は喉が乾けばコーラではなく、水を飲む自由もビールを飲む自由もある。

 しかし、もしビールも水も奪われ、喉の渇きをコーラでしか潤せないとすればそれは、根源的独占である。

 

 イリイチさんは近代における「車」も根源的独占だと指摘する。

(中略)車は距離をつくりだすのである。高速の乗りものはどんな種類のものであれ、空間を希少なものにする。それは人が住む地域に高速道路のくさびを打ちこんでおいて、車自身のために人為的につくりだされた人々をへだてる遠い距離をつなぐ架け橋の上で、通行料をとりたてるのだ。国土に対するこういう独占は、空間を車の餌に変えてしまう。それは徒歩と自転車にとっての環境を破壊する。たとえ飛行機やバスが汚染をひきおこさず資源を涸渇させない公共サービスとして運行できたとしても、その非人間的な速度は人間生得の移動能力を退化させ、もっと多くの時間を移動に費やすように人間に強いてやまないだろう。(p122)

 車はもともと、人間をより速く、より遠くへ運んでくれる道具だった。しかし、車のために作られた高速道路や流通網は、経済的・空間的に我々を支配するようになった。街は車ありきで設計されているというのは、日本においても地方都市をイメージすれば頷けるはずだ。「車は便利だな」という次元から、「車なしでは不便だな」に変わってしまった。

 

 根源的独占は人間の営みを変質し、交換可能なものにする代わりに対価が必要なものにする。たとえば「葬儀」もそうだ。遺体を火葬、埋葬することは専門業者に委ねられ、彼らへの対価を支払わねば、自力で遺体を葬ることは難しい。

 イリイチさんはその結果、「貧困は現代化された」と指摘する。現代では金銭的対価を得られる仕事がなければ、車を使うことも家を建てることもできない。人間を道具にするはずの道具が逆に人間を規定し、欠乏状態を生むようになった。

 

コンヴィヴィアリティとデジタルネイチャー

 コンヴィヴィアリティー(自立共生的)とは、こうした道具のありようを変えていこうという考えだ。それは、人間が本来的に持っている可能性へ目を向けることだ。

 

 イリイチさんは「人間はそもそも、必要(ニーズ)をみたすようにできている」と語る。この指摘は端的で、とても本質的に感じた。引用してみる。

 人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値はもっている。人間が自由にそういう活動を行うことは、労働とはみなされない。(p125)

 産業や科学が発達する以前から、人間は生きていた。治療することは医療の専売ではなく、慰めることはカウンセラーの専売ではなく、移動するためには足さえあればよくて、学ぶために学校がなくてもよくて、家を建てたり死者を葬るのに専門業者は必要なかった。

 

 いまやニーズという言葉は商業的に語られている。ユーザーのニーズをみたす商品が次々に生まれている。しかし、ニーズはもともと人間さえあればみたせた。そこに交換価値がなくても、それが労働と呼ばれなくても。

 

 コンヴィヴィアリティ(自立共生的)とは、こうした人間の「自立性」を損なうことなく、かつ他人の「自立性」と「共生的」であることだ。道具が人間を規定し、社会を変質させるよりも、あくまで人間性をうまく活用するためにあることだ。

 

 そんな道具はどうやったら作れるのか。それは結局、「車がない時代の方が良かった」という懐古主義じゃないのか。ここで、現代の魔法使いと呼ばれるサイエンティスト落合陽一さんの「デジタルネイチャー」を持ってくると、未来へ道が開ける。

 

 デジタルネイチャーは「高度に発達した科学技術は自然と見分けがつかない」、すなわち人間を補助するテクノロジーから人間と「溶け合う」テクノロジーを目指す。落合さんの研究では、たとえば網膜投影がある。カメラから取り込んだ映像を極小のプロジェクターのような装置で網膜に直接投影できれば、遠視や近視、乱視が解消できる、というものだ。

 

 車にせよ葬儀業者にせよ、「外部化」していった道具が人間に牙を向いているのなら、道具を「内部化」することはできないか。人間が道具に合わせることが近代だったなら、未来は人間と道具が助け合うものになりえる。そこに、イリイチさんの言うコンヴィヴィアリティが成立する可能性はあるのでは、と思う。

 

医療も教育も根源的独占

 イリイチさんの言葉が刺激的なのは、人間を支配する道具の射程を「社会制度」にまで広げていることだ。たとえば、教育や医療だ。目に見えない制度も、人間が作り出した道具には変わりがない。

 

 イリイチさんの問題意識は「専門性」にある。たとえば医師の専門性の発達が、患者の力を奪っているのではないかという時の言葉は辛辣だ。

 医療の危機はその症候が表しているよりももっと深いレベルにあり、すべての産業主義的制度の今日の危機と合致している。それは、よりよい健康をますます供給すべく社会から支持され勧告されている専門家の複合体が発展した結果であり、患者たちが自発的にこの空しい実験のモルモットとなったことの結果である。人々は自分が病気だと言明する権利を失ってしまった。いまでは社会は医療官僚が認定したあとでだけ、病気だという人々の申し立てを受け入れるのである。(p30)

 いまや、人々は自分が病気であると言明する権利を失った。病気かどうかを決めるのは、専門性のある医師である。そう、ここでも根源的独占が起きているのだ。

 

 これは教育でも同様だとイリイチさんは言う。国家が整備した学校制度は、人々から「学ぶ」力を簒奪し、「学ぶためには教育を受けることが必要だ」という根源的独占を引き起こしている。その結果、教育のレールに乗れない「脱落者」を生み出していると本書では指摘されている。

 

 こう考えれば、コンヴィヴィアリティのための道具とは、人任せで、社会任せでは獲得できないことがわかる。陳腐ではあるけれど、足元から、自分自身から、自立的であり共生的である生き方の模索をしていく必要がある。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 イリイチさんの思想に出会ったのは、若林恵さんの「さよなら未来」でした。元WIRED日本版編集長だった若林さんが、あまりに一般的になったテクノロジーや未来という言葉をもう一度見つめ直すエッセイです。

www.dokushok.com

 

 落合陽一さんの「デジタルネイチャー」は、最初に言及されたであろう「魔法の世紀」を読むことで理解が進むと思います。イリイチさんとは異なる角度からテクノロジーを考えられます。

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