読書熊録

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分断を超えろ!建築欲を放て!ー読書感想「バベる!自力でビルを建てる男」(岡啓輔)

 雨風を防ぎ、団欒を味わうために人は家を建てた。都市に溢れかえる人に平等に家を行き渡らせるためにモダニズムが興隆した。しかし、いつしか家は「消耗品」と化して、作る人と住む人、設計者と職人の間に深い「分断」が生まれている。そこで、「建てる悦び」を人のために取り戻すために、東京のど真ん中に自力でビルを建てることを選んだ男がいる。

 「バベる!自力でビルを建てる男」はそんな物語だ。

 

 著者の岡啓輔さんが建てる「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」は、「即興の建築」。コンクリートなのに無機質じゃなくて、壁の模様やフロアの様子は踊るように姿形を変える。紆余曲折があって、着工から10年以上経ったいまも絶賛建築中だ。この摩訶不思議な建築は、何を目指すのか、どこに向かうのか。建築史や、コンクリートの魅力といった歴史/サイエンス要素も詰まった贅沢なノンフィクション。構成は萱原正嗣さん。筑摩書房。

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バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

全ての人に家をー「モダニズム」

 ビルといえばゼネコンが建てるもの、高層タワー、高層マンション。そんな既成概念を打ち破る岡さんの一代記が本書になる。岡さんがなぜ奮闘するのか。ここをしっかり味わうために、まずは建築の歴史を学ぶのがいい。何より、素人の自分にとってこの歴史それ自体が面白い。

 

 岡さんが高専に通って建築の基礎を学んだのは1980年代。このころ学校で教えていたのが「モダニズム」だった。モダニズムとは「Less is More」(巨匠ミース・ファン・デル・ローエ氏)。少ないほど豊かである。つまり、装飾を排して、合理性を突き詰めた建築だ。

 

 岡さんはモダニズムの背景には19世紀後半の産業革命があったと説明する。急速な都市化、人口の密集。それまでヨーロッパの建築といえば豪華な大聖堂のような、美しさを追求したものだったけれど、多くの人に家を届けるには、とてもそんなに凝ったり時間をかけたりはできない。

 そこで生まれた発想が「シンプル」、「Less is More」。これからの建築は四角い箱でOKだし、むしろそれくらいシンプルなものが美しいのだ、という思想的回答がモダニズムだった。

 

 日本に、特に東京の住環境に目を向けてみれば、モダニズムはまだまだ健在だと実感できると思う。多くの人が住むマンションはまさに「シンプルな箱」だ。逆にいえば、我々はまだモダニズム以降のたしかな建築的思想にはたどり着けていない。

 

 モダニズムから抜け出せないのは、建築が経済の枠にはまったことも大きい。岡さんは自戒を込めて指摘する。

 それは、建築が経済にがっちり組み込まれてしまったことの影響が大きい。さらには、モダニズム以降の建築家が、先人たちが苦労して編み出したモダニズムという建築のあり方に、深く考えもせず、安易に居座ってしまっているようにも思えてならない。

 モダニズムをどう乗り越えていくかは、学校で教えられるようなことではない。その道筋は、建築家がひとりひとり自分で考え、自分がつくる建築で実践していかなければならない。(p145)

 人それぞれがうまくいくために発想した「近代」を超えられず、むしろ制度疲労した近代に人が追い立てられている。そんな状況は建築だけではないだろうし、岡さんの言う通り、その先の道筋は我々一人一人思考すべきことだ。

 

モノになった家、現代の「バベル」

 経済にがっちり組み込まれた建築。それは建築が、家が、「モノ」「消耗品」「商品」になっているということでもある。岡さんはこの状況に、強い問題意識を向ける。

 

 たとえば「シャバコン」。コンクリートは水と砂と砂利をまぜて作る。本来、水の比率は40%程度に抑えることで、コンクリート本来の強度が保てる。一方で、ちゃんとしたコンクリートはねっとりとして扱いにくい。そこで不正に加水してシャバシャバにしたコンクリートがシャバコンだ。当然ながら、シャバコンの品質・強度は担保されていない。

 

 なぜシャバコンを使うのか。たとえば納期に間に合わせるために。たとえば雨の日もコンクリートの打設をするために。実はシャバコンのほうがコンクリートの表面がつるっとして、見た目には美しいという側面もある。

 ここにあるのはいずれも、経済的な合理性だ。モノとしての建築を効率よく成立させるための「手抜き」だ。

 

 岡さんは、建築の足元が揺らぐ根本に「分断」を見る。この「分断」は、本書を貫く背骨のように、繰り返し繰り返し語られる重要な言葉だ。

 いまの建築のつくられ方はあまりに不透明だ。誰がどんな部材を使ってどういうふうにつくっているか、外の人からはほとんど見えない。これは、建築をつくる人と建築を使う(住まう)人の間に横たわる、ある種の〈分断〉だ。(p28)

 あるいは建築を作る「職人」と建築を指揮する「設計屋」にも分断がある。岡さんは建築現場で、両者のトイレが分けられていることさえ見たことがある。

 いつのころからか、ものづくりのヒエラルキーの頂点には設計屋が君臨するようになった。ものづくりの主役であるはずの職人は底辺に追いやられ、設計屋が描いた一本の線を忠実に再現することがその仕事とされるようになった(それが、どんなに適当に引かれた線であってもだ)。職人が、現場で自らの創意工夫を施すことなど許されるはずもない。(p207)

 

 家を建てる人と住まう人。家を考える設計屋と実際につくってくれる職人。本来は建築を一緒につくっていくはずのそれぞれが「分断」されて、互いに不信を高めている。人にとって欠かせないはずの家にこれほど「分断」が埋め込まれていることは、現代社会の生きにくさと無縁とは思えない。

 

 古代メソポタミアの「バベルの塔」はあまりにも神に近づきすぎて、神は人々の言葉を「分断」した。これだけコミュニケーションが発達したいま、新しい、違った形の「バベル」に直面している。

 

ユートピアでも家を建てる

 岡さんが自力でビルを建てることは、この「分断」を乗り越えていく試みだ。岡さんは「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」の設計者であり、施行者であり、職人であり、そして完成すればそこに住まう住人でもある。ただ奇怪な取り組みじゃない。モダニズムが行き着いてしまった無機質さを突き破ろうとする、あくなき挑戦なのだ。

 

 自力でビルを建てるというアンサーに行き着くまでがまたドラマで、本書の一番の読みどころになる。ここではその一幕、「ユートピアの家」という思考実験を紹介したい。

 

 ユートピアの家は、岡さんが少年だったことに考えたことだ。

 話は、高専で建築を学び始めた十五歳のころにまで遡る。

 無知で単純だった少年は、建築についてこんなふうに教わった。

 建築とは、雨風や暑さ寒さをしのぎ、地震から人の命を守り、泥棒に入られないようにするためのものだ。だから、建築をつくるときは、そういう役割をきちんと果たすようにしなければならない。雨漏りしたり風で吹き飛ばされたり、地震ですぐに潰れてしまったりするものをつくってはいけない。建築とは、必要な機能を満たしたものなのだ。

 この説明を受け、十五歳の僕は考えた。

 だとしたら、雨も降らず風も吹かず、暑くもなく寒くもなく、地震も起きず、食べものも豊富で泥棒なんていないような、ユートピアみたいな世界があったとしたら、そこで人は建築をつくるだろうかーー。(p232−233)

 家は人を守るものならば、もしも、人が完全に守られたユートピアで、家はなお必要だろうか?もし必要なら、どんな家を建てるだろう。

 

 モダニズムの考えで言えば、ユートピアに家はいらないだろう。住まいの機能性を追求したからこそ、Less is Moreなのだ。岡さんも、10代の頃は「ユートピアでもつくるぞ!」と情熱に燃え、その後は結局、「つくらない派」に落ち着いていた。

 

 だが、「つくらない派」の席巻が「分断」ではなかったか。岡さんは再び、「つくる派」に踏み出す。それは、建築を作りたいから作る、「建築欲」を解き放ったとも言える。

 

 岡さんは終盤、建築とは表現なんだと思い至る。

 建築とは、紛れもまい表現活動だ。人が何かをつくる以上、そこにはつくる人のなにがしかの思いが表現されてしまう。つまらない建築をつくろうものなら、「つくることはつまらない」と表現しているに等しいのだ。

 (中略)

 建築に表現することが許されるものーー。それは「希望」しかありえない。

 たとえば住宅建築であれば、「家族が幸せな暮らしを歩む場所」として、学校であれば「ともに学ぶための場所」として、建築はポジティブな思いを表現するべきだ。(p256)

 建築は表現だ。それは「希望の表現」だ。

 

 だから岡さんは「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」を建てる。分断は乗り越えられると、つくる悦びをもう一度手にできると、「表現」するために。

 読み終えると、問われている気がした。あなたは何を表現する?と。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

 近代の制度疲労をどう乗り越えるか?この問いにテクノロジーから挑んだ良書が、落合陽一さんの「デジタルネイチャー」です。想像もできない世界をたぐりよせる、刺激に満ちた中身です。

www.dokushok.com

 

 建築における分断を乗り越えること。遠いノルウェーで、一人の大工として挑んでいる方もいます。その言葉には手触りがあって、頭にも心にも入ってきます。エッセイ「あるノルウェーの大工の日記」をどうぞ。

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