読書熊録

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私の過去が全部違ってもそれは愛ですかー読書感想「ある男」(平野啓一郎)

愛した人の過去が全部「別人のもの」でも、その愛は愛ですか。私たちは人の「何を」愛しているんですか。小説「ある男」は、愛している瞬間は疑うことのない愛の根本について、問い掛けてくる。

 

作者の平野啓一郎さんは「マチネの終わりに」でも「愛と時間」についてテーマにした。「マチネ」は「未来」、未来を選び取ることによって過去の愛は表情を変えるんだということを教えてくれた。「ある男」は「過去」の物語だ。そして人間の生を過去にしてしまう絶対的なもの、「死」の物語だった。なお、あらすじ以上にストーリーには触れないようにしています。文藝春秋。

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ある男

ある男

 

 

愛にとって過去とは何か

帯の裏にはこんなあらすじが書かれている。宮崎に住む里枝という女性がいる。かつて、二歳の次男を脳腫瘍で失った。その後、夫と離婚することとなり、長男を伴って十四年ぶりに故郷へ戻った。

 

そこで「大祐」という男と出会い、再婚する。幸せな日々を送るも、「大祐」は事故で命を落としてしまう。悲しみの渦中で衝撃の事実が明らかになる。「大祐」は「大祐」ではなかった。名前も過去も偽っていて、全くの別人だったのだ。では、「大祐」は本当は誰なのか。

 

「大祐」でなかった「ある男」。里枝はかつて依頼をしたことのある弁護士・城戸に、「ある男」が何者だったのかを探ってくれないか、依頼する。

 

この物語は、城戸が心のうちで自問したこんな思いに集約される。「愛にとって、過去とはなんだろうか」という問い掛けだ。引用したい。

 『現在が、過去の結果だというのは事実だろう。つまり、現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のお陰だ。遺伝的な要素もあるが、それでも違った境遇を生きていたなら、その人は違った人間になっていただろう。ーーけれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、真実の過去と異なっていたなら、その愛は何か間違ったものなのだろうか? 意図的な嘘だったなら、すべては台なしになるのか? それとも、そこから新しい愛が始まるのか?……』(p50−51)

 

愛する人がいる。その人に惹かれる要素は、その人が積み重ねた過去の集積として、現在に現れる。里枝もまさにそうだったろう。「大祐」という人の「現在」を愛しているのは間違いないのだけれど、その根っこには「大祐」が「大祐」として歩んできた過去があると信じていた。私たちは現在を愛しているようで、無意識に、無自覚に、その人の過去も愛していることになる。

 

あんな経験をしたから、優しいんだ。こんな過去があるから、強いんだ。現在と過去の間に、いつの間にか「ストーリー」を編み出していることも珍しくない。城戸はこの「ストーリー」という部分にも思索を広げている。語られる過去は、あくまで語られる過去であって、「過去そのもの」じゃない。

 

「大祐」が語った過去は、なかった。「現在の大祐」の根となっていると信じていた「過去の大祐」はいなかった。それは、嘘なんだろうか。不誠実なんだろうか。これは読者の誰もが、自分に置き換えることが可能な問いじゃないだろうか。

 

こう考えると、里枝が「ある男」の過去を突き止めたいと願うのも頷ける。私はなぜ「大祐」だったはずの「ある男」を愛したのか。「ある男」の愛すべき要素はどんな過去に基づいていたのか。それが分からなければ、愛が本当に愛だったのか、分からないのかもしれない。

 

不思議なことだ。過去がどうあれ、その人はその人のはず。なのに、過去が揺らいで、崩れ去って、変わらないはずの愛が不安定になるのはなぜだろう。でも里枝の気持ちは理解できなくない。むしろ切実に、自分も「ある男」を知りたいと思う。

 

あなたの死はあなたにしか死ねない

愛する人の過去が違っても、その愛は揺らがないのかというのが「ある男」の根幹だけれど、この物語はそこだけにとどまらない。この問い掛けを「ある男」の側から見た時に、「過去は偽れても、偽れないものはあるのか」という別の問い掛けが出てくる。これが本書の裏面、「死」についての問いだ。

 

「大祐」だった「ある男」はもう旅立ってしまったから、第二の問いを抱えるもまた生きている者たちになる。今度は里枝の述懐を引用してみる。里枝は病で亡くなった次男・遼へ思いを馳せながら、「ある男」の死を考える。

  里枝は決して、遼の死の身代わりなってやることが出来なかった。病に冒された子供に対する、いかにもありきたりな表現だったが、彼女は心から、身悶えするほど強く、自分が代わってやりたいと願い続けていた。彼女は、当てもなく、ただ何かの奇跡が起こることをひたすら祈っていた。しかし、遼は結局、自分の死を、自分で死ぬしかなかった。里枝には、里枝が死ぬべき死しかないのだった。

 「誰が死んだの?」と里枝は胸の内で呟き続けていた。戸籍上、「谷口大祐」という人が死んだことになっている。けれども、「谷口大祐」の死はただ、本人にしか死に得ないはずだった。彼は一体、誰だったのだろう、と里枝は亡夫のことを考えた。それはつまり、彼が誰の死を死んだのかということだった。(p89)

 

自分の死は自分で死ぬしかない。「偽った過去」と対極の「身代わりのきかない死」が見えてくる。私たちは、私たちそれぞれの死を死ぬ以外にない。

 

過去を偽れるというのは、存在の不安定さを示すことでもある。例えばいま、見ず知らずの誰かがやってきて、顔も何もかもを似せて自分の人生を代わったとする。周囲も気付かないほど溶け込んだとして、その誰かが自分以上に「自分らしく」自分の人生を生きてしまうかもしれない。「ある男」が「大祐」としていきいきと暮らし、愛すべき人を見つけて、幸せな家族を築いたように。

 

しかし、死だけは代われない。生は代替可能なのに、死だけは代わってやれない。ここにきてようやく、生に立ち戻ってこれるような気がする。私たちは結局、代替できない死に向かって、なんとか自分の人生を生きていくんだな、と。

 

過去を考えて、死を考えて、結局は「いま」に流れが行き着いていく。「ある男」は、足元を照らし出す物語だったんだと、ページを閉じてみて思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ある男

ある男

 

 

自分の葬儀で追悼文として読まれる過去こそ、その人そのものである。「過去」「良く生きること」をノンフィクションから考えるには、デイヴィッド・ブルックスさんの「あなたの人生の意味」が参考になると思います。

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自分の今も過去も明かせない、偽れない「殺し屋」という仕事。殺し屋の男が愛すべき家族を持ってしまったら、という伊坂幸太郎さんの小説「AX」も、人が人の何を愛するかを考えられる作品です。

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