読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

ジャージの君へー読書感想「ナナメの夕暮れ」(若林正恭)

この本は「人生」という試合の舞台になかなか乗っかれない人のためにある。思い通り試合を運べないとか、勝てないとか、そんなレベルじゃなくて。そもそもユニフォームを着られずに、ジャージ姿で舞台の脇に立ちすくんでいる人のためにある。お笑いコンビ・オードリーの若林正恭さんのエッセイ「ナナメの夕暮れ」は、そういう人に向かって書かれている。

 

夕暮れのタイトル通り、40歳を迎えつつある若林さんの「自分探し」の旅の「終着点」が語られる。旅の終着は、人見知りでネガティブな若林さんがポジティブになったとかじゃなくて、そのまま日が暮れていくような形だ。でもそこに一抹の希望が感じられる。晴れた夕暮れの茜色が美しいように、「生きていくのも、歳を重ねるのも、悪くはないんだな」と教えてくれる。文藝春秋。

f:id:dokushok:20181014112552j:plain

 

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

疲れた先にある気付き

本の情報誌「ダ・ヴィンチ」の連載(2015年8月〜18年4月)に加筆した本書。背骨としてそれぞれのエッセイを貫いているのが「気付き」だと思う。「社会人大学人見知り学部 卒業見込」というエッセイ集を出した若林さんが、30代を駆け抜け、40になるにつれて見出したいろんな気付きが詰まっている。

 

テレビ番組で、パンケーキにカピバラの絵を描いて、カピバラの被り物をしながら食べるお店のVTRを見た若林さん。「昔なら鼻で笑っていた」のに、いまは「なるほど」と思ったという。こういう「ファンタジー」が必要なんだと。引用する。

 若い頃、ぼくはリアルに生きることを目指していた。この世界と自分の真実だけを芯で捉えて生きてやろうと息巻いていた。それがリアルだと信じていた。そんなことは無理だったし、ぼくがかつて「真実」と呼んでいたものだって時と場合によって簡単に姿を変える、有って無いようなものだった。それならば、今のぼくはファンタジーを選ぶ。使命というファンタジーを作り出し、それを自分に信じ込ませる。自分の仕事には意味があると言い聞かせて、虚無気味の世界にカピバラの顔を描く。趣味や娯楽を振り回し、ただ生まれて死ぬという事象にデコレーションしまくる。真実はあまりにも残酷で、あまりにも美しくて、まともに向き合うと疲れてしまうから。真実はたまにぐらいが丁度いい。(p44)

これは一言で言ってしまえば「ファンタジーの大切さに40歳目前で気付いた」ということなのかもしれないけど、そう要約するだけではしっくりこない。気付きを生み出したもの。それは「真実だけを芯で捉えて生きていくこと」が「無理だった」ということ。自分の仕事に意味を感じられないこと。生まれて死ぬという事象。真実と向き合っても「疲れる」ということ。そういう境地にあったのがファンタジーだった。

 

「まあ、いっか」と手に取ったファンタジーというもの。肯定したくて肯定したわけじゃなくて、否定して否定して、斜に構えて生きてきた先に「手に取れた」ものがファンタジーだったんだと思う。ああ、そういうものに出会えるんだ、生きていれば。若林さんの言葉に触れて感じられる希望はそんな風に、神々しくなくてむしろ仄かだった。

 

世界を肯定する自分を晒す

若林さんは別に「こんな人生が待ってるぜ」と誘ってるわけじゃない。希望があるってアジってるわけじゃない。自分が気付いたこと。気付いてしまったことを、報告してくれているというのが近い。

 

中盤の「凍える手」という章で、その思いがストレートに綴られている。「あるきっかけ」で、若林さんは「人間は内ではなく外に向かって生きた方が良い」ということを「全身で理解できた」。そのきっかけは本書で確かめてもらうとして、その時の思いを引用させてほしい。

 (中略)教訓めいたことでもなくて、内(自意識)ではなく外に大事なものを作った方が人生はイージーだということだ。外の世界には仕事や趣味、そして人間がいる。 内(自意識)を守るために、誰かが楽しんでいる姿や挑戦している姿を冷笑していたらあっという間に時間は過ぎる。だから、僕の10代と20代はそのほとんどが後悔で埋め尽くされている。(p143)

そしてこう続ける。

 そんな陰鬱な青年期を過ごしてきたから、おじさんになった今こそ世界を肯定する姿を晒さないとダメだと思った。慣れてないからたどたどしいし、背伸びをしている姿は滑稽に映るだろうけど。さっきからずっと良い格好をしようとしているけど「出待ちの男の子に向けて」なんて聞こえの良い話ではなく、自己否定の世界を生きていた「10代20代の自分のため」なのかもしれない(ここへ来てまた自意識)。(p143)

世界を肯定することを、外に開かれて、大事なものを内(自意識)じゃなく世界に持つことを、「晒している」のだと若林さんは言う。誰のためだといえば、自己否定にまみれた若い頃の自分のため。自意識を出ようとしてまた自意識に後ろ髪を引かれながらも、若林さんは「世界を肯定すること」を晒している。

 

何に希望を感じるかといえば、そんな姿を晒してもいいと思えるような、「世界を肯定すること」を「全身で理解できる」瞬間が、いまはなくても、この先待っているかもしれないということだと思う。その瞬間を迎えても、過去が「後悔」に変わるだけかもしれない。自分は何をしていたんだと。でも、夕暮れに一瞬展開するマジックアワーみたく、有無を言わせず「良かった」と思える時間が、待っていることは希望以外なにものでもない。

 

茶帯が黒帯になるための本じゃなくて

なぜ若林さんのエッセイは読んでいてここまで救われるのか。その理由がはっきり分かったのは、あとがきのこのフレーズに触れた時だった。

 一流のアスリートが「全ては自己責任だ」と言い切ったり。

 ビジネスの成功者がビジネス書なんかで強者の論理を振りかざしたり。

 マジで反吐が出る。

 そういう奴らは、

 「考えすぎ」

 「気の持ちようだよ」

 「前向きに捉えなきゃダメだよ」

 とか、

 「口角を上げよう」

 「背すじを伸ばそう」

 「挑戦し続けよう」

 みたいな、生き方音痴にとっては何の役にも立たないクソみたいな言葉を簡単に投げかけてくる。

 それを凝縮して固めたような自己啓発本なんか、当然何の役にも立たない。

 あそこに書いてあるのは、人生の茶帯が黒帯になる方法だ。

 道着すら持っていないジャージの見学が、黒帯になる方法はどこを探しても書かれていないのだ。(p210−211)

自己啓発書に書かれているのは、人生の茶帯が黒帯になる方法。道着すら持っていないジャージの見学が、黒帯になる方法はどこを探しても書かれてない。本当にその通りだと思う。

 

そもそも黒帯を目指さなければいいのかもしれないけど、いま社会はなぜか、黒帯合戦ということで話が進んでいるような気がしている。黒帯になったら最強なんじゃなく、ようやく参加資格のような。

 

だからジャージも、形の上では「黒帯を目指している」ようでなくちゃいけない。黒帯のバトルに乗っからないと、生きていくこともままならない気がする。「生産性」だとか「個の時代」だとか、ジャージでは恥ずかしいと思わせる言葉ばかりじゃないか。

 

「ナナメの夕暮れ」はかといって、「ジャージが黒帯になれる本」ではない。そもそもそんな本はないのかもしれないけど。かといって「ジャージはジャージのままでいい」でもない。黒帯だろうがジャージだろうが、道場の外の日は暮れるんだと、そこで巡り会う感情があるんだと、そんなことが分かる本だった。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

なんの解決にもならないけど、読むことで救われるのがエッセイの効用かもしれない。小説もまたそういう効果があって、小野美由紀さんの「メゾン刻の湯」はまさに深呼吸する隙間をくれる物語でした。ワケありの若者が集う銭湯シェアハウスのお話。

www.dokushok.com

 

若林さんのエッセイは前作「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」も素敵でした。まさに外(世界)へ飛び出した時の発見を綴った作品。キューバの明るい太陽が、自意識に日差しを注ぐような中身です。

www.dokushok.com