人間はどうしてここまで進化したのか。複雑なビルを建設し、原子力を生み出せたのはなぜか。賢さ、知性があり、それを磨いてきたことが大きい。しかし、人間は時に大きな過ちも犯す。「知ったかぶり」をしてしまうし「知っていると思い込む」ことも少なくない。では「なぜ」知ってるつもりになってしまうのか?そう根本を問われるとなかなか答えられないわけで、だからこそ「知ってるつもり 無知の科学」が解き明かしてくれる「人間の知ったかぶりのメカニズム」は面白い。
スティーブン・スローマンさんと、フィリップ・ファーンバックさんの認知科学者コンビが執筆している。人間が賢いのは、一人ではなくみんなで考えるという「認知的分業」を徹底しているから。だからこそ「他人の知識」を「自分の知識」と思い込んでしまう錯覚も起こりうる。加えて知性は個人として独立しているのではなく、コミュニティと密接に関わっているからややこしい。
では、人間は「知ってるつもり」から脱せられないのか?議論はその先まで続いて、読者を知的に遠くまで連れて行ってくれる。土方奈美さん訳。早川書房。
- 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/04/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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他人を頼るからこそ人間は賢い
この世のあらゆるものは「認知的分業」の産物である。スローマンさんらはまずこの前提を強調する。たとえば食器洗いを想像してみる。私たちは洗剤の作り方も知らないし、それぞれの化学成分の効能も知らない。そもそも蛇口をひねって水を出すけれど、なぜ蛇口をひねると水が出るのか、その原理を説明することはできない。全て「誰か」が研究し、解き明かし、構築してくれたものでしかない。
言い換えれば、人間の知性は「総和」であって「単体」ではない。アインシュタインのように個人として爆発的な知性を持っている人でも、たった一人で蛇口や洗剤を生み出すことは不可能だった。
面白いのは、一人の人間で考えても「脳は知性の一部でしかない」ということだ。たとえば、このエントリーの最初の一文を覚えているだろうか?きっと覚えていないはずだが、それによって不安にはならないだろう。なぜなら指をスクロールし、視線を動かせばその一文が「あることは分かっている」からだ。
あるいは、住み慣れた我が家の全体像が分からないと答える人はいない。人間の視野はスポットしか見えないにも関わらず、みえない家の全体像を「分かっている」と思えるのは、「見れば分かるから」。ここでも、分業的に、「情報の外部化」が働いている。
人間は膨大な「外部支援装置」を頼りにしている。それが人間の知性の本質だと、スローマンさんらは語る。
ここまでで、個人レベルでは比較的無知なのに、なぜ人類は自らを取り巻く環境を思うままにできるのかという問いに、多少は答えられたと思う。外部からの手助けがあれば、個人はかなり無知ではなくなる。身体を含めた身の回りの世界が記憶装置や外部支援装置の役割を果たすことで、それらがないときよりずっと賢くなる。(p121)
他人や、外の世界の何かを頼れるからこそ、人間は賢い。
グループシンク(集団浅慮)の罠
だからこそ、人間は「他人の知性」を「自分の知性」と勘違いする。これが「知ってるつもり」「知ったかぶり」につながる。情報を外部化し、シームレスに使う分業能力が裏目にでる格好だ。
面白い例が本書で紹介されている。グループのプロジェクトにおいて、人間はいつも「自分の貢献度を高く見積もる」という。既婚夫婦に「夫と妻が担っている家事は全体の何%か」を尋ねると、自己評価の平均は50%を超えた。足し合わせると100%を超えてしまうのは、きっと夫は妻の、妻は夫の、「やってもらった家事」を適切に認識できていないからだ。
この「他人と自己の知性の混同」が話をややこしくする。つまり人間はたった一人で思考するわけではなく、常にコミュニティや社会と連結して思考しなくてはならない。その結果、集団における知性は相互作用を起こして、「無知が無知を呼ぶ」というネガティブ・フィードバックになりうる。この危険性をスローマンさんらも指摘する。
これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。(p191)
誰も適切な専門知識を持っていないのに、「知ってるつもり」が伝染することで、コミュニティ全体が知識を持っているように装う。こういった現象を「グループシンク(集団浅慮)」という。
グループシンクに陥った場合、知性はほとんど「カルト的な思い込み」「教義」に変質してしまう。互いの無知が支え合い、蜃気楼のはずの意見を岩のように確かだと誤解してしまう。だから、その意見を容易に変えられない。誰も自分が無知だったとは認めたくないし、信じていたものが蜃気楼だとは思いたくない。
日本であれば原子力政策や、夫婦別姓をめぐる議論が対立的になるにはグループシンクが影響しているからかもしれない。なんとも悩ましい話だなあと思う。人間は分業するからこそ賢いし、一方で分業するコミュニティによっては浅はかにもなりうる。
「賢い」とはチームへの貢献
本書はこのあと、グループシンクをどう解消するかにも触れていく。そのソリューションは簡単ながらこんな効果があるのか、と目から鱗が落ちるものだった。その中身は本書で確認していただくとして、ここではさらに先の議論、「そもそも賢いとはどういうことなのか」を紹介したい。
認知的分業が人間の賢さの理由であり、反対にとんでもない思い込みの原因でもある。これを個人の側から見てみれば、「賢い」とはチーム(集団、社会、コミュニティ)にどう貢献しているかという話になる。つまり、「賢さとは個人の性質ではない」。
知識のコミュニティに生きているという事実を受け入れると、知能を定義しようとする従来の試みが見当違いなものであったことがはっきりする。知能というのは、個人の性質ではない。チームの性質である。難しい数学問題を解ける人はもちろんチームに貢献できるが、グループ内の人間関係を円滑にできる人、あるいは重要な出来事を詳細に記憶できる人も同じように貢献できる。個人を部屋に座らせてテストをしても、知能を測ることはできない。その個人が所属する集団の成果物を評価することでしか、知能は測れない。(p230)
「賢い」とはチームへの「貢献」のことである。知能テストの成績、個人としての知的レベルとは必ずしも一致しない。この認識は子育て論として、あるいはいま大人の人がどう成長していくかについて、意外に大切な前提だと感じた。
賢さがチームへの貢献であるとき、「賢くなる」とは「チームにどう貢献できるかを想像すること」と言い換えることができる。もちろん難しい問題を解く頭の回転の速さがある人は、そのスペックを活用したらいい。一方で、雰囲気作りが上手い人はその道を極めた方がいい。頭の回転が早い人の真似をしないほうがチームに貢献できるわけで、つまり賢い。
「チームにどう貢献できるかを想像する」ことは裏を返すと「自分に何が足りないかを知ること」でもある。雰囲気作りの上手い人が頭の回転が早い人を真似してしまうとすれば、それは自分にはできないことをできると思い込んでいるということ。
グループシンクはまさに、「自分にはできないことを自覚していない」という「無知」から端を発していた。月並みな言葉になるけれど、「無知の知」。何が知らないかを知ることから、賢さは始まるようだ。
今回紹介した本は、こちらです。
- 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/04/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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身近なチームといえば、家庭と会社(働く場)かと思います。このうち会社がどう変わっていくか、あるいはこの時代にどういう会社が生き残れるかを考えるのはとても面白い。「NETFLIXの最強人事戦略」は、その最先端を垣間見ることができると思います。
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