読書熊録

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誰にとっても悪じゃないが、誰かにとって悪であるー読書感想「フーガはユーガ」(伊坂幸太郎さん)

伊坂幸太郎さんの最新長編(2018年12月時点)「フーガはユーガ」は「悪」についての物語なんじゃないかと思った。そんなことを考えずともただただ面白い。だけど読後、この物語に登場する悪、邪悪さがどうにも忘れられない。

 

キーワードは双子、誕生日、瞬間移動。帯にある通り「僕たちは双子で、僕たちは不運で、だけど僕たちは、手強い」ことが示される物語だ。この不運はいろんな象られ方をするけれど、どれもこれもが邪悪さを持つ。それはいわゆる悪役じゃない。誰にとっても真っ黒な存在じゃない。むしろ一般的にはどうでもよくて、でも私、この場合は「僕たち」にとってどこまでも凄惨な存在だ。実は局所的な悪こそ手に負えない。だけどラスト・センテンスにあるように主人公の双子は、手強い。実業之日本社、初版は2018年11月10日発行。

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フーガはユーガ

フーガはユーガ

 

 

「魔王」で描かれた邪悪さと違う

伊坂幸太郎さんの作品で悪、邪悪さがはっきり見えたなあと印象深いのは「魔王」だった。この時の悪は「権力」とも言えそう。国民的人気を集めつつある首相に、独裁者の予感を感じ取った主人公が、ちょっとした「超能力」で立ち向かうのが「魔王」だった。

 

この時、悪が悪として認識されていないのがポイントだった。独裁者の予感と、そこへの危機意識を持ち合わせていたのは主人公だけで、むしろ国民は頼り甲斐のあるリーダーくらいに感じていた。この「包まれた悪」は「ゴールデンスランバー」における国家、「モダンタイムス」における検閲システムという形で表現されていたように思う。「火星に住むつもりかい?」の平和警察もそうか。

 

「包まれた悪」は巨大であり、いつまでも包みを解かない。つまり誰からも邪悪と思われずに、実質としては人々を支配して、邪魔するものは秘密裏に排除する。そういう途方もなさに打つひしがれつつ、ゾウに挑むアリのような主人公へ「頑張れ!」とエールを送るのが楽しみだった。

 

だけど「フーガはユーガ」の悪はちょっと毛色が違う。

 

局所的な悪

若干のネタバレになるかもしれないけれど、割と序盤で描かれるし、物語の本質はもう少し別のところにあるので許されると信じて書く。

 

「フーガはフーガ」では非常に暴力的な父親が現れる。主人公の常盤優我(ゆうが)、弟風我(ふうが)の父である。双子は「あの男」と呼ぶ。この父親が「フーガはユーガ」における悪の一角をなすけれど、特徴は、極めて局所的な悪だということ。

 

父はひどい暴力を双子に振るう。幼少期から、ずっと、ずっと。読者としては早く父親をなんとかしてくれと思う。双子の知略でも、誰かヒーロー的な人物の登場でもいい。でもなかなか、双子は救い出されない。

それは父親が家の外では「どうでもいい」からだ。こんなシーンがある。色々とあり(ページで言えば70ページぶんくらいあり)、優我(僕)が仙台にある公立高校へ進学し、風我は学校へ行かずに働くことにする。双子でそう決める。そこに担任教師が割って入り、風我も高校に行くようにと説得しようとする。

 「どうして、そんなに一生懸命なんですか」卒業したら働く、という方針を変えなかった風我は、最後にそう訊ねた。

 先生は、眼鏡をかけた四角い顔の、生真面目な顔つきだったのだけれど、「単に心配なんだ」と答えた。

 「先生も、俺たちのアパート来たことあるから、分かってると思いますけど、そういう意味ではうちは、先生が心配になることだらけ、ですよ。貧乏だし、無関心な母親と、ひどい父親と」

 先生は呆気に取られたようだった。役所に相談、であるとか、児童養護施設がどうこう、であるとか言いかけた。

 「大丈夫です」僕は言い、風我も同時に首を横に振った。「気持ちは嬉しい。だけど、簡単に解決しないことは俺たちのほうが分かっている」(p76-77)

担任は「心配」まではする。でもそこまでだ。もしもこの担任がもっと踏み込めば、ひどい父親は物語の序盤も序盤で退場できたかもしれない。でもそうはならない。担任にとって、そもそも双子が中学を卒業するまでに関わった社会の誰にもとって、父親の暴力はそこまでの喫緊性を持たない課題だったから。

双子が言う通り「簡単に解決しないことは俺たちのほうが分かっている」。誰よりも緊急で、誰よりも重大な問題として父親を抱えているのは、優我であり風我だった。

 

だからこの父親は今後も双子に悪を発揮し続けるし、双子はなんとかこの悪に、たった2人で立ち向かうほかない。伊坂さんの作品が救いなのは、双子は丸腰ではないこと。伊坂印といってもいい、ちょっとしたパワーを、双子も持ち合わせている。

 

父親のように「誰にとっても悪じゃないが、誰かにとって悪である」存在に、伊坂さんは少しずつフォーカスしているような気もする。2017年に本屋大賞ノミネート作品となった「AX」では、おなじみの「殺し屋」というアウトローを主人公にしながら、その殺し屋が恐妻家で温かい家庭を築く。この平穏を脅かすのが殺し屋に仕事を発注する人物だが、まさに一般社会ではどうでもよくて、この殺し屋にとってのみ重大な存在になる。

 

「包まれた悪」と「局所的な悪」は、実は立ち向かう側が孤独な戦いを強いられる点で共通する。明らかな悪や、全般的な悪は、糾弾するにあたって仲間と連帯できる。それが気持ちいいと感じる人すらいるかもしれない。でも伊坂作品の主人公はいつだって土俵際だ。そして「局所的な悪」はことさら、仮に打ち破れても自分以外にとってはどうでもいいんだろうなという点で二重に孤独だと思う。

 

でも、物語の外で、現実で、身近なのは「局所的な悪」な方かもしれない。家族で、職場で、コミュニティで。自分だけの困りごとには誰にでもある。双子のような不思議な能力はなくても、そこに向かっていく活力を、物語は授けてくれる。

 

今回紹介した本は、こちらです。

フーガはユーガ

フーガはユーガ

 

 

当事者にとっての意味が外部にとって自明じゃないこと。そして孤独、人を頼れないことがどれだけ人を追い詰めるかを感じ取れる物語が「神さまを待っている」です。作者の畑野智美さんの実体験を練りこみつつ、女性の貧困を描き出します。

www.dokushok.com

 

本文中でも触れた殺し屋のストーリー「AX」も非常に面白い。殺し屋が恐妻家だったら、人の命を奪うのに、奪われたくない大切な家族がいたら、というねじれた設定はなんとも歯ごたえがありました 

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