読書熊録

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誰かの人生の脇役になれるんだー読書感想「フィフティ・ピープル」(チョン・セランさん)

私たちは誰かの人生の脇役になれる。それは希望だ。それを教えてくれる物語が、ソウル生まれの作家チョン・セランさん「フィフティ・ピープル」だった。

 

みんながみんな、自分の人生の主人公なのだと言われる。でも人生という物語は必ずしも大河ドラマのようじゃなくて、主人公として充てがわれた物語がなかなか苦しいこともある。思い通りにいかないこともあるだろう。でも、私たちは主人公である「だけじゃない」。誰かの人生に華を添え、ふとした瞬間を支え、もしかすると、掛け替えのない存在にすらなれるのかもしれない。

「フィフティ・ピープル」は主人公が50人いる物語だ。それぞれの話は5ページにも満たない。その代わり、誰かの物語にひょこっと顔を出す。それがなんとも、心地よかった。亜紀書房「となりの国のものがたり」シリーズ。斎藤真理子さん訳。2018年10月17日初版。

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フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 

あの子の人生で手を振る

群像劇といってもたいてい、5、6人が上限じゃないか。それが50人(正確には51人)。笑っちゃう数字だけれど、全然嫌ではない。表紙に描かれているような、ちょっととぼけたイラストがそれぞれのキャラクターを立たせてくれるのもいい。

 

舞台は韓国の首都圏のどこかにある大学病院。面白いのが、50人は看護師や医師だけじゃないこと。悲しい殺人事件の関係者。街中で起きた陥没事故の被害者。たまたま旅行で近くに来た人。病院はいろんな人が行き交う交差点としてセットされている。

 

お気に入りのシーンの主人公の一人は、まさにたまたま病院に厄介になった。名前はスティーブ・コティアン。ハンドボールのナイジェリア代表で、国際大会で食べた弁当で食あたりになり、病院へ搬送された。なんとなく韓国への苦手意識を持ったまま、迎えた後半。ふと、病室から窓の外を眺めた。

(中略)するとふいに、隣の建物の屋上に女性が一人立っているのが見えた。テントが全部消えた空き地を見おろしている姿が寂しげに見える。何であんなに寂しそうなんだろうと思っていると、女性がスティーブの方に顔を向けた。

 スティーブは手を振った。とっさの行動だった。女性もこっちを見て手を振ってくれた。

 女の人が親切な国だな。暮らしたいとは思わないけど、それでもまた来てみたい。スティーブの韓国に対する気持ちはちょっと和らいだ。(p241)

異邦人が出会った少しうれしい瞬間。これだけでもほっこりするけれど、「フィフティ・ピープル」の素敵なのは、この瞬間を「脇役側」から見る物語があること。

 

手を振ったのは病院で働く女性医師のイ・ソラだった。周囲の評判は「つきあいづらい人」。はびこる女性蔑視にきちんと争う姿を「剣の舞」と揶揄されたりする。実は、スティーブが入院した日、ソラが陣頭指揮をとってバザーを開いていた。「テントが全部消えた空き地」とはそういうことだ。あの瞬間は、ソラにとってはこんな感じだった。

 去年よりたくさん寄付金が集まった。ソラは満足だった。最後まで一緒に動いてくれた人たちと公園を完璧に掃除し、病院の倉庫にテントを返すともう夜も更けている。クールな性格なのにエネルギーをすごく発散したので、疲れてしまった。(中略)いちばん軽蔑すべきものも人間、いちばん愛すべきものも人間。その乖離の中で一生、生きていくだろう。

 誰かがじっと見ているような気がして、振り向いた。本館の病室の下の方の階で、窓際にいる人がちょっとためらってから、ソラに手を振った。ソラも手を振り返した。窓が暗くてよく見えなかったけれど、手のひらだけは優しかった。(p311)

素敵だ。なんと素敵なんだろう。70ページを経てこのシーンに至った時、優しい電撃を浴びた気がした。手を振り、手を振り返すという動作。人生のほんの、ほんの1シーンだ。でも、スティーブは「韓国ってそんなに悪くない」、ソラは「手のひらから感じる優しさ」をそれぞれ受け取った。人が人を思う気持ちを交換した。

 

スティーブはソラの人生の、ソラはスティーブの人生の、脇役になった。ほんの小さいものかもしれないけれど、明かりを灯した。これは紛れもなく希望だと思った。

 

自分のことはちょっぴり悲しかったり嬉しかったり

それぞれの主人公の物語は5、6ページに満たない。3ページの時もある。その短さと、セランさんがまぶすほろ苦さが「フィフティ・ピープル」のもう一つの魅力。人生ってそうじゃないか。ちょっぴり悲しかったり、たまにちょっぴり嬉しかったりするもんじゃないか。

 

たとえばユ・チェウォン。病院で随一の凄腕外科医の女性だ。マシーンのような精密な手術で知られるし、メンタルも鋼のよう。だからこそ、病院創立者の会長の長姉(83歳)の手術という重責を担う。いや、押し付けられる。「私はもう手を引くから、君が執刀したまえ」と科長が言ったのは、たぶん責任回避だ。

 

でもチェウォンは向かっていく。こんな思いで。

   チェウォンも自分の居場所をずっと探し求めてきたといえる。すごく小さいときから待ちつづけ、探してきた「適所」はもしかしたらここかもしれないと、ついに最近、思いはじめた。生やさしい場所ではない。重い負荷のかかる居場所だ。だがチェウォンは、自分が頑丈な部品であることを知っていた。(p69−70)

手術は無事に済んだ。でも、手術部位に炎症が残った。それで会長の機嫌は悪いらしい。チェウォンは廊下で夕食のパンをかじりながら思う。

 どこか正しい位置、適切な場所、自分の居場所を見つけたかった。工場にあるすごく効率的なロボットの腕が、今ここに立っているチェウォンを持ち上げて、そこに運んでくれたらいいのにと思った。

 「だけど、世界は効率的じゃないもんね」

 パンにはピーナツクリームが少し入っていた。あんまりにちょっぴりなので、びっくりするほどだった。(p71)

主人公としてチェウォンはこれ以上ないくらい輝いている。あんまり好きな言葉ではないけれど、いわゆる「スペックが高い」。それでも人生はほろ苦いんだ。それはちょうど、パンに入っていたピーナツクリームがあまりに少なくてびっくりするほど、なかなか満足にはいかないものだ。

 

だからこそ、ソラとスティーブの間の交歓が人生の希望だと思う。もちろん、チェウォンにも誰かの脇役になる瞬間がある。それがまた、いい。

 

「入り口の風船」みたいに

役者あとがきによると、セランさんは「入り口の風船みたいな作家でありたい」と語っているそうだ。「複雑な思考や苦悩を読者と共にしてくれる作家はたくさんおられるので、私は軽やかな、気安い作家になりたい」という。なるほどなあ。たしかに「フィフティ・ピープル」に収められた物語はポップで、いろいろと悲しいこともあるけれど、シリアスになりきらない。

 

そもそも脇役というのも、入り口の風船みたいなものかもしれない。見過ぎして歩くかもしれない。でも思い出を語らう瞬間、その情景にふっと、鮮やかな風船の彩りが蘇るかもしれない。誰かにとって重要人物になることが脇役になるということではないんだろう。互いの人生の交差する瞬間に、少しでも優しい気持ち、少しでも美しい何かを、置いていければきっとそれでいい。そんなことを思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 

誰かの人生に彩りを加えるような素敵なひと。金井真紀さんの「パリのおじさん」に登場するおじさんたちは、まさにそんな人たちだよなあと思い浮かびました。パリの市井のおじさんを集めた、おじさん図鑑。響く生き方が記録されてます。

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