ほんの100ページなのに濃厚な読書体験ができる。ノワール、いやバイオレンスに近い痛々しい世界なのに、綴られる言葉はほのかに詩的で、どこまでも美しい。作家でありテレビ脚本家でもあるジョナサン・エイムズさんの短編「ビューティフル・デイ」は不思議で圧倒的な力があった。濃いドリップコーヒーのような一冊。唐木田みゆきさん訳。ハヤカワ文庫。2018年5月25日初版。
無駄のない言葉、粒のつまった言葉
主人公ジョーは元海兵隊員。卓越した戦闘技術、密行技術で、いまは売春を強要されている少女・女性の救出を請け負うフリーランサーとして生きている。今回の依頼主は上院議員。家出後、ニューヨークの娼館に売り飛ばされた13歳の娘を助け出してほしい。ジョーには造作もない仕事のはずが、思わぬ「陰謀」に巻き込まれる。
原題は「You Were Never Really Here」。おまえはもともといなかったんだよ、という言葉はジョーが自殺を試みた時に頭に響いた声だった。それは父親から受けた凄惨な虐待の影響だとみられる。しかし、自分なんてもともといなかったと思うほどの捨てばちさが、ジョーを危険の中でもクリアにする。
エイムズさんは無駄のない言葉で物語を運ぶ。例えば書き出しはこうだ。
背後に何かを感じた。生き物の気配と殺気。ジョーはその嗅覚、その勘によって辛くも体をかわし、肩で棍棒を受け止めたので、後頭部を殴られずにすんだ。
しかも、食らったのは左肩だがジョーは右利きだったので、二度目に棍棒が振りおろされる前にしっかり後ろを向いて襲撃者の手首をつかみ、顔を合わせて同じ背丈と見るやレンガ並みの額を鼻柱に打ちつけ、相手が激痛で何も見えずに倒れかかるところを容赦ない膝蹴りで顎を砕いた。(p5)
開始一秒で何者かに襲撃され、瞬く間に相手を撃沈する。書き込まれていなくても、ここが暴力が当たり前の世界で、周囲に人のいない薄暗い路地のような場所にいることが想像できる。無駄がないのに、言葉の粒がつまっている。
詩のにおい
一方で言葉の端に詩のにおいがふっと香ることがある。それが物語を美しくする。父親の虐待をジョーが振り返るシーン。
トーテム像が彫られるように、自意識が父の殴打によって作られたことをジョーは理解していなかった。ジョーは父の残酷な性癖から生き延びる唯一の方法は、悪いのは自分で、殴られるのは当然だと思いこむことだった。その信条はいまだにジョーに取り付き、けっして離れない。要するに、父がはじめた仕事が完成するのをジョーは五十年近く待っていた。(p22)
あるいは、ある出来事をトラウマに海兵隊を辞したジョーが、いまのフリーランスの仕事をやり始める経緯に想いを馳せたときもそうだ。
したがって復帰はスムーズで、ジョーは仕事に関することで疑問を持つのはもうやめた。いまでは公平な立場が保たれた競技場として仕事をとらえている。全員に責任がありーー道義を中心線にしたどちらの側にもだーージョーは有能だった。なぜ振りおろされるのか、金槌は尋ねたりしない。(p39)
父親の虐待が中年になったジョーに深く刻まれている様を、トーテム像にたとえる。その痛みがどれほど強固で、どれほど長い時間残るかを示しつつ、ジョーのタフさ、気高さを示してもいる。
あるいは、ジョーが海兵隊と同じような仕事を、今度は疑問を持たずに行えるようになったことを、「道義を中心線にして、どちら側にも責任がある競技場」と言ってみる。売春を強要する側も、それを私的な暴力を持って粉砕する側も、中心線からは同じくらいの距離にいる。そこはイーブンであって、だからこそ、ジョーが振りおろす武器の金槌は何も語りはしない。
だから「ビューティフル・デイ」の世界は美しい。何も美しいことは起こらないけれど、美しい。それが実に不思議な犯罪小説だった。
今回紹介した本は、こちらです。
悲しくてつらいんだけど、美しさが垣間見える作品で思い出すのは、窪美澄さんの「じっと手を見る」です。恋愛小説なんだけれど、どこか「終わり」が見えてしまう。主人公の仕事が介護施設というのにもリンクして閉塞感が漂うけれど、かけらのような希望が見えたりもします。
ジョーが動き回る世界はリアルに存在するようで、そのアンダーグラウンドぶりがよく理解できるノンフィクションが「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」です。売春や薬物の犯罪が、アンダークラスとアッパークラスの不思議な「共謀」で行われていることがよくわかります。