読書熊録

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分からないのは豊かなことー読書感想「考えるとはどういうことか」(梶谷真司さん)

「分からない」のは恥ずかしいことじゃない、むしろ豊かなことだ。「問い」を多く持ち、さらに問い続けることこそ、人を自由にする。哲学者・梶谷真司さん「考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門」で、こう伝えてくれている。

 

本書のテーマは「哲学対話」。5〜20人ほどで輪になり、様々な問い掛けと応答を繰り返す一種のワークショップだ。その魅力を語るにあたり、そもそも哲学とは何か?を読者と一緒に考える。それが実にエキサイティング。「考える」と「解く」は違うこと。思う以上に考えても、聞いてもいないこと。そして、「問う」「対話する」ことで拓けてくる「感覚としての自由」。普段の帰り道からちょっと脇に逸れた、素敵な裏路地を見つけたような喜びを得られる本。幻冬舎新書。2018年9月30日初版。

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考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

 

 

実際には言わされ、考えさせられている

哲学の面白さは、「当たり前」を崩してくれることだなあと本書を読んで思う。まるでスプーン曲げのように、ちょっとした仕掛けで当たり前が転回してしまう瞬間を、「考えるプロ」の哲学者は見せてくれる。

 

梶谷さんは「哲学対話」に8つのルールを設定している。その第一は「何を言ってもいい」。そんなの当たり前じゃないかと思うが、梶谷さんは「生きていく中で『何を言ってもいい』場はまったくといって存在しない」と指摘する。

 

会社の上司から会議で「何でもいいから意見を言え」と振られたらどうだろう。「何でもいいから」と言われながらも、実際は会議の流れ、自分の立場、上司の性質を全て忖度した上で「その場にふさわしいこと」を言うだろう。何でもいいと言われても、なんでもよくないのである。

梶谷さんはこうした姿勢を教育しているのが学校だと喝破する。

 自由に考えるためには「何を言ってもいい」ということが必要なのだが、この原則からすると、学校は正反対の場所である。そもそも学校では言うべきことが決まっている。それは「正しいこと」「よいこと」「先生の意に沿うこと」である(正確に言えば、「正しいとされること」「よいとされていること」「先生の意に沿うとされていること」である)。

 それ以外は言ってはいけない。間違ったことを言えば「違う」と否定され、悪いことを言えば「そんなことを言ってはいけない」と諭され、先生の意に沿わないことを言えば怒られるか嫌われる。そうやって言っていいことと悪いことの線引きがなされている。(p52)

「正しいこと」「よいこと」「上位者の意に沿うこと」を意識しながら、「何でも言っている」のである。たしかに、これらを意識せずに話すことはほとんどない気がする。自由に話しているようで、実際は制約を気にしない範囲で話しているにすぎない。

 

これはそもそも「考えること」にも言える。学校で勉強することには正解があり、それに沿うように問題を問いていく。これは「考える」ではなく「考えさせられている」んだと、梶谷さんは言う。

 このような問いは、決められた手続きが分かっていれば、答えにたどり着くことができるが、それが分からなければ、答えは出ない。正解以外は答えではなく、自分の思うように考えて自分なりの答えを出すことは許されていない。それを解くプロセスを「考える」と呼び、「考えて解け!」と言われる。

 だが、教科書に出てくる問いを見て、「これこそ私が考えたかったことだ!」と思う人は、おそらくただの一人もいないだろう。そのように押しつけられた、興味もない問いを「解く」ことは、考えることではない。考えさせられているだけで、強いられた受け身の姿勢を身につけるだけである。(p118)

「言う」ことが「言わされる」ことに、「考える」ことが「考えさせられている」ことに、実際はなっている。それはこの社会を生き延びる上では必須な処世術だと思う。だからこそ、そこからもっと自由に、本当の意味で自由に考え、言う場としての哲学対話の価値が見えてくる。

 

聞くとは言語的ではなく存在的なもの

もう一つ、「聞く」という当たり前も深掘りしていく。誰もが聞いている(聴覚的な意味に限らない。聴覚障害者の方も、手話や筆記を通じて聞いているだろう)。聞くことに特別な何かはいらないように思うが、そうではない。

 

梶谷さんはまず、「聞く」と「理解する」を切り分けた方がいいと語る。たとえば、「思いやりがある人」は聞くときについ「分かる分かる」と言ってしまう。でも、その「分かる」が語り手の「言いたいこと」と重ならない押しつけになる恐れがある。すると語り手は「そうじゃないんだけど」と思いつつ、沈黙してしまう。

(中略)相手を理解するということが先に立つと以外に聞けず、理解できなければ、意識的か否かにかかわらず、拒絶ないし無視することにつながりやすい。だから「聞く」ことを、理解することから切り離したほうがいい。(p169)

「聞く」と「理解する」をセットにする限り、「理解できない」ことは「聞かない」になってしまう。それは「何でも言っていい」の裏に張り巡らされた制約と同じ構造だ。

 

では「聞く」とはなんだろう。梶谷さんは「場を共有すること」とまとめる。「その人のためにその場にいて、その人の存在をそのまま受け止めること」(p172)だと。

 

赤ちゃんと親の関係を想像してみる。赤ちゃんは言葉を発せられない。「アーアー」とか、あるいは泣くことで、親に何かを伝え、親はそのメッセージを受け止める。このとき親は赤ちゃんの意思を正確に理解することはできないが、それでもその場にとどまり、赤ちゃんが望むことをなんとか導こうとする。

 このような対話的関係は、どの時点から互いに言葉を介した「話す」ー「聞く」という関係になると見なせるのか、境界をはっきりさせるのは難しいだろう。むしろ「話す」ー「聞く」というのを意味の表出と受容として理解するなら、それは言語の習得以前から、人と人との関係であれば、つねに何らかの形で起きていると考えられる。(p173)

「聞く」とは「言語的」ではなく「存在的」な営みだ。だからこそ、言語的なメッセージの要約に終始するべきではないし、その「場」で相手から発せられる意味を、理解のいかんにかかわらず「受容」する姿勢が大切になる。

 

自由を「感じてみる」

「考える」「言う」「聞く」が、本書のページをめくることで刷新されていく。その先にあるのは「自由」だ。これもまた、面白い。

 

梶谷さんは自由に様々な形があることをまず確認する。例えば憲法に書かれるような自由がある。身体拘束からの自由。思想や良心の自由。つまり「制度的な自由」。あるいは「選択の自由」もある。お金を持っていることも、この自由に属するだろう。哲学者が対象にする「根源的自由」というのもある。「人間に本当の意味で自由意志はあるのか?環境によって規定されているのではないか」という「運命論」がそれだ。

 

「哲学対話」、あるいは「考えること」と結びつく自由は、このいずれでもない。それは「感じる自由」だ。

 私たちが現実を生きていくうえでもっとも切実なのは、 社会的な条件や物理的な条件が同じであっても、自由だと感じる時と感じない時がある、ということだ。つまり自由の感覚である。(p89)

考えることは直接的に制度的自由を実現するわけでも、選択の自由を生み出すわけでもない。むしろ「考えても状況は変わらない」ということの方が多いだろう。その意味で、やっぱり人間には根源的自由がないんじゃないかとすら思ってしまう。

でも、考えることで自由を「感じる」ことはできる。誰かと語り合う、新しい視点に触れる。問題が整理される。その瞬間、自分を縛っていた「悩み」が緩まる感覚が得られる。その瞬間、感覚的には間違いなく自由だ。

 

だからこそ、梶谷さんは「考える」ための「問い」を多く持つほど、自由を感じられるんだと言う。特に他者と共に「問う」ことは、実に豊かなんだと。

 しかし分からなくなるというのは、すでに書いたように、問いが増える、考えることが増えることなので、より哲学的になれるということである。要するに、対話では分からなくなるは、むしろ素晴らしいことなのだ。

 対話とは、共に問い、考え、語り、聞くことであり、どこかにある結論や答えにたどり着いて終わるのではない。最初から行き先も通る道も決まらないまま、他者へと、世界へと自らを開いていくのである。(p77)

問いに始まりも、終わりもない。行き先や通る道は決まっていない。それは限りなく、開かれている。

 

現実は厳しいことばかりだ。決まった正解とは程遠い仕事しかできない。普通でいたくてもつい脱落してしまう。でも私たちは考えている間は、間違いなく開かれた世界へ向かっていける。その時に感じる風の音を、自由と呼ぶ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

 

 

考えることは行き先も通り道も決まっていないと聞いて、思い出したのは若林恵さんの「さよらな未来」でした。本当の未来とは、散歩。何も分からない先へ、それでも向かっていく勇気を言う。 

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自由を考えることで、普段、いかに自由じゃないかが浮き彫りになります。日本て息苦しい。そう思いつめたら、遠く遠くの部族社会を思い浮かべてみませんか。「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」は、日本社会の常識を軽やかにまたぐきっかけになります。

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