読書熊録

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意味ベースでいこうー読書感想「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗さん)

目が見えないということは欠落ではない。見える人にとっての世界と、見えない人にとっての世界は違う。そこに優劣はない。あるのは「意味」の異なり。見える/見えないをビットのあるなしのように「情報」ベースで捉える考え方から、「意味」 ベースに考え方をシフトすることで、様々な「おかしみ」を味わえる。「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、新しい地平を軽やかに開く。

 

生物学者という夢を持ちながら文転し、美学や身体論を専門にする伊藤亜紗さんの著作。もっとも身近で慣れ親しんだはずの身体が、謎めいて、その分より愛おしく感じられるようになる。語りは平易でポジティブで、誰にとっても読みやすい。光文社新書、2015年4月20日初版。

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目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

 

 

四本脚の椅子と三本脚の椅子

目の見えない人は世界をどう見ているのか、というタイトルは一見すると矛盾があるようにも思う。目の見えない人には、世界は見えないんじゃないか?そう感じるのは、暗黙の前提があるからだ。人間は世界を「目で」見ている、と。でも、そうじゃない。

 

伊藤さんは、晴眼者が目を閉じれば、見えない人の世界を体験できるわけではないと語る。見えないということは、「引き算」ではないのだと。

 見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。(p29-30)

「見えない」ということを「見えている」を基準に考えない。見えているを基準に考えると、見えないはとたんに欠如になる。マイナスになる。そこには見えていることを上に見る優劣が生じてしまう。では「見えない」とは何なのか。伊藤さんはこう続ける。

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

 脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。(p30-31)

見えないとは、見えるという四本脚から視覚を取ったわけではない。視覚の脚をそもそもなしとして、三本脚で成立している。そこにあるのはただ、バランスの取り方の違いでしかない。

 

この「世界の捉え方」は多様性を前提とするこれからの社会でとても大切になると思う。自分が四本脚だからって、目の前の人は四本脚と限らない。三本脚のとき、それを「4-1」ではなく「3」とフラットに受け止められる。すると、脚の違いではなくてそれによって生まれるバランスの取り方の違いを語り合い、学び合えるようになる。

 

「情報的」から「意味的」へ

伊藤さんは「4-1」で見る考え方を「情報的」だと言う。見えない人には「視覚情報」が足りないのであって、それを補うハード・ソフトの支援を考える。この考え方はもちろん福祉の観点から必要だ。情報的な差異を完全に無視しては、大多数の晴眼者にとってばかり便利な社会になりかねない。

 

しかし、人間関係においては「4」と「3」をマイナス符号で結ばない関わり合いも大事だ。それこそ「意味的」な関わり。脚の数ではなく、バランスの取り方に関心を寄せてみる。それは「うちはうち、よそはよそ」とも言えるという。

 手を差し伸べるのではなく、「うちはうち、よそはよそ」の距離感があるからこそ、「面白いねぇ!」という感想も生まれてきます。先に私は「好奇の目を向けること」が大切なのではないかと書きました。差異を尊重する、などと言うと妙に倫理的な響きがありますが、もう一歩踏み込んで、ちょっと不道徳な「好奇の目」くらいのほうが、この「面白いねぇ!」には必要なのではないかと思います(もちろんお互いの同意のもとで)。意味ベースの関わりとは、見えない人を「友達」や「近所の人」として接することです。(p41)

見えると見えないを意味の違いとしてとらえると、そこには「面白いねぇ!」という感情が湧いてくる。晴眼者と障害者という関係性が、友達同士に変質する。伊藤さんはこうして、視覚障害者との語り合い、接し合いを通じて、意味の異なる「見えない人の世界の見方」へ分け入っていく。

 

面白いのは、「見えない」ということはそれ自体、とても多様だということ。考えてみれば当たり前だけれど、友達に一人として全く同じ友達がいないように、世界の捉え方は一つじゃない。

 そう、私たちはつい「見えない人」とひとくくりにしてしまいがちですが、実はその生き方、感覚の使い方は多様なのです。「見えない人は聴覚や触覚がすぐれている」という特別視は、この多様性を覆い隠してしまうことになりかねません。

 木下さんは「ぼくはポットの位置なんか分からないよ」と笑いながら言いますし、そもそも感覚なんか研ぎすまさずに「どんどん人に聞く」というのも一つの認識の方法です。こうした多様性を無視して、「見えないということは触覚がすぐれているんですね」という態度で最初から接したら、「すごい」と称賛したつもりが逆に相手にプレッシャーを与えてしまいかねません。(p87)

見えない人にも聴覚を研ぎすます人がいれば、人にどんどん物の位置を聞くというやり方もある。繰り返し心に刻みたいのは、意味の差異に優劣はない。そこにあるのは、根本的なやり方の違いであって、意味に着目する限り湧いてくるのはひたすら「おかしみ」だ。

 

五感とは器官の名前じゃない

見えない人の「見方」を探求していくと、手で「読む」という行為が現れる。点字を思い浮かべてほしい。それは晴眼者の触るよりも、指先を使って読むという感覚に近い。あるいは、お尻で「透明を感じる」というのもある。車に乗っていて、お尻に感覚を集中する。すると道路の凸凹がわかる。その瞬間、車は「透明」になって、地面を感覚することができる。

 

すると、五感というものが溶け出してくる。指という触覚は「触る」だけではなく「読む」ことができる。あるいは耳という聴覚は、視覚障害者にとってはぼんやりと空間を把握する、つまり「眺める」ためにも使う。五感とはそれぞれの器官で「だけ」感じられるものではない。

 手が「読ん」だり、耳が「眺め」たり、お尻が「透明を感じ」たり……つまり私からの提案は、「何かをするのにどの器官を使ったっていいじゃないか」ということです。大事なのは「使っている器官が何か」ではない。むしろ「それをどのように使っているか」です。

 「読む」「眺める」「注目する」といった私たちの能力は、特定の器官の機能なのではなくて、「パターンを認識してその連続に意味を見いだす」「すぐに必要のない情報をキャッチしておく」「特定の対象を選択して知覚する」といった認識のモードないし注意のタイプに対する名前と考えるべきではないでしょうか。(p109)

「眺める」とは「すぐに必要のない情報をキャッチしておく」。晴眼者はその最も使いやすい方法として目(視覚)を使う。でも、それは視覚でしか眺められないことを意味しない。耳で眺めることもできる。もちろん方法によっては手足を、舌を使っても眺められるだろう。五感とは「認識のモード」「注意のタイプ」を遂行するツールでしかない。

 

こう考えた時、私たちの身体はなんと豊かなんだろうと思い至る。同時に、身体とはその中に秘めた感性や感情を世界と交換するためのツールにすぎないことにも気付く。大切なのは、与えられた身体の機能をうまく引き出して、他者や世界と交わり合うことなんだ。作中、ある視覚障害者が支えにしてきた歌がある。そこに真理がにじんでいるように思う。

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず(山口王仁三郎)(p110)

 

今回紹介した本は、こちらです。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

 

 

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んで真っ先に頭に浮かんだのは、浅生鴨さんの小説「伴走者」でした。視覚障害スポーツを題材にしていて、テーマが通底しています。見えないからこそ、見えるものがある。

www.dokushok.com

 

優劣ではなく、あるのは意味の違い。それを実感としてつかむには「羊飼いの暮らし」を手に取ってみてもいいかもしれません。イギリスで脈々と続く羊飼いの家系を継いだジェイムズ・リーバンクスさんの手記です。

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