読書熊録

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善良であることー読書感想「続 横道世之介」(吉田修一さん)

この物語は善良であることがどれほど尊いかを教えてくれる。有能ではなく、優秀でもない。替えがきかないとか、生産性が高いとか、そんなこととも関係ない。善良であること。悪意から距離を置き、善意に溺れることなく、ただただ善良であること。吉田修一さん「続 横道世之介」は小さくて、でも確かな希望の物語だ。

 

主人公は横道世之介。長崎県から上京した大学生の世之介は、バブルの売り手市場を逃して就職できず、バイトで食いつなぐ毎日。間違いなく「人生のダメな時期」なのに、世之介はその善良さで、周りの人たちをくすっと笑わせる。「続」とあるけれど、本作から読んでも差し支えはない。世之介にもう一度会える喜びも、世之介に初めて出会う喜びも、等しく貴重だと思う。中央公論新社。2019年2月25日初版。

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続 横道世之介

続 横道世之介

 

 

脱落したときに横を歩いてくれる奴

安定した仕事もない、金もない、もちろん特別な才能もないわけで、生活が良くなる見込みもあんまりない。横道世之介、24歳。明らかに、いいことなんて一つもない。本作は400ページあまり、そんな世之介の1年間が描かれている。なのに、まったく暗くないどころか、淡い光に溢れている。

 

それは世之介の人柄によるところが大きい。世之介とはどんな人物か。バイト先のバーの店長関さんとの会話に一端が見える。ちなみにバーはこの会話が起きた9月にいきなり閉店してしまい、世之介はバイトさえも失うのだった。世之介は大学時代からの男友達コモロンに人生を見つめ直すアメリカ旅行に誘われて、こんな風に言われたんだと関さんに愚痴る。

 「とにかくひどい言い草なんですよ。そのコモロンって友達に言わせると、俺は、マラソン大会とかで、辛くて、いよいよ立ち止まって、レースから脱落したときに横を歩いてくれる奴なんですって。息が整うまで一緒に歩いてもらって、自分の息が整ったら、俺を置いて走っていくんですって。ひどくないですか?」

 「でも、『行く』って即答したんだろ?」

 「そりゃ、しますよ。だってあごあしまくら付きのアメリカ大名旅行ですよ。海外なんて行ったことないし」

 「なんか、分かる気するよ、おまえの友達が言ってること。……確かに人生の谷間におまえみたいなのがいたら、重宝しそうだもんな」(p182)

マラソン大会で脱落したとき、横を歩いてくれる奴。そして息が整ったら、置いていっても大丈夫そうな奴。それが世之介だ。こんな風に言われても平気な顔して、なんならこんなことを言う友達に誘われた海外旅行に全然乗っかってしまうのが、世之介だ。

 

あるいは、こんなシーンもある。バーとは別に、世之介は海産物の卸売をする零細企業でもバイトをしていた。この会社の社長にいたく気に入られ、正社員にならないかと話をもらう。一方で、既に正社員で、この会社に骨をうずめるほかないベテラン男性の早乙女さんからは邪険にされている。たしかに世之介のような「いい奴」がいたら、ちょっとやりにくいのかもしれない。

結局、正社員への登用話は立ち消えになる。このとき、会社では小銭の盗難騒ぎが起きていた。関係は不明である。早乙女さんの関与ももちろん、分からない。でも、関連している、早乙女さんに妬まれ、仕組まれたと思ってしまうのが人情だ。でも、世之介はそこからがちょっと違う。

 もし早乙女さんの仕業なら、これは早乙女さんの悪意になる。

 ただ、世之介はとっさにそれを手放した。手放してテーブルに置いた。置いた途端、なぜか、それは誰のものでもなくなったように見えたのだ。

 「分かりました。一度でも誘ってもらっただけで、嬉しかったです」

 と、世之介は言った。

 負け惜しみでもなく嫌味でもなく、素直な気持ちだった。

 「まあ、あれだ。横道くんはまだ若いから、これからどうにだってなるよ」

 なるほどそうか、と世之介は思う。これは嫌味ではなく素直な気持ちで、なるほどそうかと思う。(p120)

世之介に向けられた(かもしれない)悪意。その悪意を、世之介はとっさに手放す。手放すことができる。悪意を手放しても、ひどい状況に変わりはない。せっかくの正社員の話がなくなってしまったのだ。でも、ここで悪意を握って、それに焚きつけられて怒りを燃やすことをしないのが、世之介だ。

 

みんな世之介を思い出す

世之介には大きな特徴がある。それは、世之介と関わった人たちは、ふとした時に世之介を思い出すということ。みんな世之介を思い出すのだ。

 

これは「横道世之介」シリーズの一つの仕掛けにもなっている。物語の途中で「未来」が差し込まれる。未来の世界で、世之介と関わった様々な人たちが描かれる。その中で、みんながみんな世之介を思い出す。世之介と出会えて良かったと振り返る。

 

「続 横道世之介」では、ある人物がある人物に宛てた手紙が一番秀逸だ。ネタバレにならないように、誰から誰の手紙で、どの場面で出てくるかは差し控えた上で、引用してみたい。

 世界中を船で回っていると、本当にこの世界にはいろんな国があります。そしていろんな問題があります。目を覆いたくなるようなこと。悲しみ。痛み。憤り。本当に奇跡でも起こってくれないかと思います。そんなとき、ふと浮かんでくるのが、あの頼りない世之介の顔なんです。

 世の中がどんなに理不尽でも、自分がどんなに悔しい思いをしても、やっぱり善良であることを諦めちゃいけない。そう強く思うんです。

この人物は、世之介のことを「善良」と表現する。これがおそろしくぴったりだと思う。世之介は、素直で、ちょっと抜けていて、一緒にいて居心地がいい。でもそんな形容詞よりなお、善良な奴だと言う方がしっくりくる。

 

善良であることは、この人物の胸に深く刻まれている。世界中の理不尽に接する時、そこからちゃんと独立して、かといって突き放すことなく、善良であった世之介の顔が思い浮かぶ。思い出すのは、思いを馳せるのは、善良な人なんだ。

 

善良であることは、きっと難しい。それぞれの登場人物が世之介を思い出すのは、世之介ほどの善良さが自分にはないことを感じるからでもあると思う。読者としても思う。「世之介のようには中々いかないよ」と。でも同時に、「ほんのちょっとでも世之介のような人でありたい」と思う。

 

読み終えたとき、読者の心には世之介が住み着くはずだ。世之介と友達だったことがあるような気がしてくるはずだ。それは善良さの目覚めと言えるかもしれない。それを忘れてはいけない。私たちは心の中の世之介を手放してはいけない。

 

今回紹介した本は、こちらです。

続 横道世之介

続 横道世之介

 

 

 

世之介は主人公でありながら、それぞれの登場人物の人生に思い出を残していくという意味では名脇役とも言えるかもしれません。誰かの人生の脇役になれるということは、実は希望である。それを教えてくれる「フィフティ・ピープル」を思い出しました。なんと50人による群像劇です。

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この人がいてくれることで楽になる、と思えるのが世之介。現実世界では、オードリーの若林正恭さんが、そんな支えとなる人物です。社会を斜に構えて見てきた若林さんが「中年」に差し掛かる今、見出した出口。エッセイ「ナナメの夕暮れ」は、人生に苦手意識がある人の肩を優しくほぐしてくれます。

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