読書熊録

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新しい本能をつくるー読書感想「生き残る判断 生き残れない行動」(アマンダ・リプリーさん)

人間は「新しい本能」をつくることができる。本書「生き残る判断 生き残れない行動 災害・テロ・事故、極限状況下で心と体に何が起こるのか」が示してくれる希望はそこにある。人間の認知・身体的な本能は、現代の災害下では時に不利になる。だけど、知性的な訓練で、動物的本能と同程度に、防災に役立つ姿勢を育てることができる。

 

ジャーナリストのアマンダ・リプリーさんのノンフィクション。9・11同時多発テロ、ハリケーン「カトリーナ」、バージニア工科大学銃乱射事件、ビバリーヒルズ・サパークラブの大火災、エア・フロリダ90便墜落事故など、さまざまな極限状況から生存した人々へ丹念にインタビューし、その場で「本当に起きること」を抽出していく。積み上げたファクトを科学的理論で整理して、ストーリー性と学術性を高度に両立したルポタージュだった。岡真知子さん訳。ちくま文庫。2019年1月10日初版。

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生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

 

 

不安の方程式

本書は「こうすれば生き残れる」というハウツーではない。同じ災害は二つとなく、同じ行動を取っても生き残れない場合もあるだろう。当然、命を落とした人の行動が間違っていたということもない。最善を尽くしても命を奪われるのが災害だ。その上で本書は、「極限状況下で人はどんな風になるのか」と丁寧に向き合う。そして、なんとか危機を逃れる方法はないのかを模索していく。

 

極限状況下で人に到来する現象といえば、パニックが思い浮かぶ。しかしリプリーさんは、「実際には、災害やテロで人がパニックを起こすことは少ない。それよりも遥かに、別の反応が起こる可能性が高い」と書く。これこそ、本書の端的な学びでもある。

 

実際にまず起こるのは「否認」である。人は危機的状況を「何かの間違いだ」と思いがちだ。その後、「思考」する。逃げるよりもはるかに、恐怖して、考え込んでしまう時間が長い。そしてようやく「決定的瞬間」が訪れる。ここで集団がパニックに陥ることもあれば、なおも麻痺したまま逃げられないこともある。そして中には、英雄的な行動に出て命を救ったり、あるいは自らの命を落としたりする。

 

否認・思考・決定的瞬間という流れを理解するのに、リプリーさんが提唱する「不安の方程式」が役立つ。方程式はこうだ。

不安=制御不能+馴染みのなさ+想像できること+苦痛+破壊の規模+不公平さ(p84)

例えばテロを考えてみる。テロは起こす側にコントロール権があり、被害者に制御は不能。人生に一度あるかないか、馴染みはない。一方で、9・11を始め、テロの被害は既に我々の中にはっきり映像化されている。計り知れない苦痛と破壊。そして、どこで誰が巻き込まれるかは、なんの公平さも公正さもない。つまりテロは、不安を抱かせるあらゆる要素を持ち合わせた、超巨大な不安と言える。

 

一方で、交通事故はどうだろう。車は自分で運転できるし、毎日目にしていて、一方で何かの不具合が起きるなんて想像することはない。苦痛と破壊はテロよりはまだ小規模だろう。交通事故の被害者の数の方が圧倒的に多いのに、テロの方が「怖い」理由はここにある。そんな不安を、直視することは難しい。だからこそ、人は本能的に否認してしまう。

 

否認し麻痺する心と体

パニックより前に、人は否認する。9・11が起きた際、世界貿易センターで人々がどのように行動したかを分析したカナダ国立協議会ギレーヌ・プルーさんはこう書いているという。

(中略)「火災時における実際の人間の行動は、”パニック”になるという筋書きとは、いくぶん異なっている。一様に見られるのは、のろい反応である」と、雑誌「火災予防工学」に掲載された二〇〇二年の論文に彼女は書いた。「人々は火事の間、よく無関心な態度をとり、知らないふりをしたり、なかなか反応しなかったりした」(p41)

災害下で人は、無関心な態度、知らないふりをする。のろい反応になる。本当はすぐにでも逃げなければいけない状況でこそ、人は否認してしまう。この認知的なクセを自覚するだけでも意味は大きい。もし災害に巻き込まれて、「大丈夫、大丈夫」と緩慢になったら思い出せばいい。それは否認であって、災害下の典型的な反応だと。

 

否認は身体的な作用も大きい。ミズーリ州セントルイスの警察学校指導教官、ブルース・シッドルさんは、研究で次の結果を導き出した。

(中略)彼は、心拍数が毎分百十五回から百四十五回のあいだに、人は最高の動きをすることを発見した(休んでいるときの心拍数はふつう約七十五回である)。この範囲だと、人々はすばやく反応し、視覚も良好で、複雑な運動技能(たとえば車の運転)もうまく使いこなす傾向がある。

 だが約百四十五回を越すと、機能が低下しはじめる。血液が心臓のほうに集中するせいか喉頭の複雑な運動制御も機能を停止して、声が震えだし、顔が青ざめ、手の動きがぎこちなくなる。視覚、聴覚、距離感覚も衰えはじめる。(p144)

人間はある程度のストレスなら身体パフォーマンスを高めるカンフル剤にできるけれど、極限のストレスに対しては機能低下を起こす。運動能力だけでなく視覚や聴覚も衰える。だから動きがのろくなるわけだ。

 

また、否認と似たような反応に「麻痺」がある。これは否認、思考の壁を超えて決定的瞬間のフェーズになったとき、なおも行動を起こせない状態だ。実は麻痺も、人間の本能的な機能。カエルが死んだふりをするのと同様、野生では動きを止めることで捕食者の関心を削ぐことができる。あるいは運動量を減らしてやり過ごすことで、災害が過ぎ去るのを待つことができる。非常に適応的だけれど、悲しいことに、人間が直面する災害やテロのもとでは裏目に出る。

 

文化的進化

では「生き残る判断」や「生き残る行動」はないのだろうか?人間は認知的・身体的に自然発生する反応によって逃げ遅れ、命を落とさざるを得ないのか。リプリーさんは諦めない。人間には遺伝的進化ともう一つ、「文化的進化」があると語る。

 だが進化には二種類ある。遺伝的なものと文化的なものである。どちらも人間の行動を方向づけるが、文化的な進化の速度のほうがずっと速くなっている。現在、訓練などによって「新たな本能」を作り出す方法がいくつもあり、どうすれば行動がよりよいものになるのか、あるいはより不適切なものになってしまうのかを学ぶことができる。また言語を伝えていくように、現代のリスクにどう対処するかについて伝統的な方法を伝えることもできる。(p22)

私たちは訓練によって「新たな本能」を作り出すことができる。リプリーさんはこの新たな本能にこだわる。それは、彼女がインタビューした生存者の中に本能としか言いようがない根源的な思考法を見出したからだろう。

 

1982年1月、大量の雪が降り注ぐ米ポトマック川に、エア・フロリダ90便が墜落した。この飛行機に乗り合わせ、生存したジョー・スタイリーさんへのインタビューで、リプリーさんは当時の様子をこう描写する。

 意識が戻ったとき、スタイリーは座席にまっすぐ座ったまま、首まで水に浸かっていた。フェルチはまだ隣にいた。まわりではほかの人たちがうめいている声が聞こえた。やがて飛行機が沈みはじめた。機体は水面下に落ちていき、非常に長く思える間、ゆっくりと沈み続け、ついに川底で止まった。(p325)

衝撃で意識を失い、目を覚ました時にはもう飛行機は極寒の川に沈んでいた。まさに否認したくなる状況だ。こんなことあってはならないと。しかし、スタイリーさんは違った。

(引用続き)その間、スタイリーは頭の中でチェックリストをつくっていた。やるべきことがたくさんあった。まず最初に、左脚を救い出す必要があった。ひどい骨折をして残骸にはさまれていたのだ。またシートベルトもはずさなければならなかった。それからフェルチを助けなければならない。本書に登場する生存者の多くと同様、軍事訓練を受けていたため、つねに計画を立てることを教わっていた。おそらくそれが彼の命を救ったのだろう。「そういった訓練を受けることはものすごくためになります」と彼は言う。「どうすべきか思案しながらそこに座っていたりしないのです。行動するんです」(p325)

スタイリーさんは、それまで受けてきた軍事訓練で「チェックリストをつくり、それに基づき行動する」という思考法を定着させていた。それをこの極限状況下でも発揮した。まず骨折してしまった左脚をどうにかする。そしてシートベルトを外し、隣の秘書フェルチさんを助ける。「すべきこと」を整理したことで、スタイリーさんは否認も思考も乗り越えてすぐに決定的瞬間のフェーズに移行した。

 

スタイリーさんは訓練によって、計画し即行動するというやり方を「本能化」した。それが自動的に駆動し、幸いにも墜落事故から生存することができた。人間は本能の奴隷ではない。人間らしい修練で、望ましい本能にアップデートできる。生きていくために、生き残るために、大切な学びになった。

 

今回紹介した本は、こちらです。

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

 

 

認知のクセを自覚し、現実を直視し、そこから地に足の着いた希望を描く。自らを「楽観主義者」ではなく「可能主義者」だと語る、ハンス・ロスリングさんと、その著書「ファクトフルネス」を思い出しました。世界は良くなっているし、もっと良くなることを、データと認知科学の知見から明らかにする本です。 

www.dokushok.com

 

極限状況下で生き延びることを至上命題にする人といえば、やはり軍人でしょう。タリバン兵に包囲された経験を持つクリントン・ロメシャさんの回顧録「レッド・プラトーン」は、弾薬や血の匂いが立ち上りそうなくらい生々しいノンフィクションです。 

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