読書熊録

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残業は解剖できるー「残業学」(中原淳さん+パーソル総合研究所)

「残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか?」は、残業のメカニズムを明らかにする本だ。残業は個人の能力の問題でもないし、止むを得ず発生する現象でもない。残業は解剖できる。原因を構造化できる。その上で、効果的に対策を打っていくことは可能だと本書は教えてくれる。

 

胃や膵臓や肝臓という言葉を知ることで、「身体が痛い」を「胃が痛い」と解像度の高い説明に置き換えられる。同じように「残業学」は言葉をくれる。辛いはずの残業に高揚感を覚えるのは「残業麻痺」である。上司が入れ替わっても残業が改善しないのは「多元的無知」「組織学習」が起きているからだ。すぐには会社は変わらなくても、この学びは確実に会社員へ希望をもたらすと思う。筆者は立教大学経営学部教授の中原淳さんと、パーソル総合研究所。光文社新書。初版は2018年12月20日。

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残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

残業抑制は社会維持のために必要

残業の抑制、いわゆる「働き方改革」は、なぜやらなければいけないのか?本書を読んでまず刺さったのが、この問いに対する「視座の高さ」だ。中原さんの著作やブログは、この「視座」が高度を持っていて、かつ本質的なのが魅力だけれど、今回も例外じゃない。

 

本書の答えはズバリ「働く人を増やすため」。超高齢化し、労働者人口が減っていく日本にあっては、働く人を増やさなければ社会を維持できないからだ。

 「働く人」を増やすにあたって大きな障壁となっているのが、当たり前に残業をする「長時間労働」スタイルです。これがスタンダードである限り、「働く人」=「長時間労働が可能な一部の人」となり、いつまでたっても「働く人」の数を増やすことができません。つまり、長時間労働の雇用慣行が、共働き夫婦、外国人、高齢者などの「長時間労働ができない人」の労働参加を大きく「阻害」しているということです。(p32)

働く人を増やさなければ、労働力を確保できない。しかし、長時間労働が「前提」のいま、共働き夫婦、外国人、高齢者などの労働参加が「阻害」されている。この「壁」を取り払うことこそ、働き方改革だ。個人でも、部署でも、会社でもなく、社会のために働き方改革は必要なのだ。

 

この高い視座を持つことで、残業を個人の問題に矮小化せずに済む。残業を語る時、誰しもに「私の残業観」(p36)がある。「若い時に残業を厭わないから成長した」とか「会社が勝つためには残業が必要」とか「残業を嫌がるなんて軟弱」とか。こうした「残業武勇伝」が現れがちだけれど、高い視座を持つことで「いや、そういう次元じゃないんですよ」と一蹴ができる。問題を考える時には、高い視座を持つ。この学びそのものが、何をするにも役立ちそうな気がしている。

 

もちろん、個人にとって働き方改革が「どうでもいい」わけでは断じてない。中原さんはここでも大局的に見る。働き方改革は、単に労働時間を短縮することではない。それは「よき働き方」を獲得し、「希望の持てる人生」を送るためのステップだ。

 この「残業学」で向き合ってきた「長時間労働是正」という問題のゴールは、「仕事に希望が持てるようになる」ことであり、ひいては、働く人たちが「希望の持てる人生」を送れるようになることです。

 「よき働き方」は、「ライフ」を精神的にも経済的にも支えます。

 働きながら、子育てもして、家族との時間を過ごす。

 趣味を楽しみ、時には学び直したり旅をしたりもする。

 介護をしたり、自分が病気になったり、大切な人との別れがあったりもする。

 仕事に希望が持てるような働き方が可能になれば、「ワーク」は人それぞれ「ライフ」の中の適切な場所に位置づけられるはずです。(p320-321)

働き方改革の先に、「ワーク」と「ライフ」が対立しバランスする次元を超えて、「ライフ」に「ワーク」が内包された未来がある。ワークがライフを支え、ライフがワークに還元していく生き方がある。

 

成長を偽装する残業麻痺

本書は残業の現状認識からメカニズム分析、対策の打ち方まで一気通貫して学べる。さらに大学の教室のような講義形式で話が進み、読みやすい。残業をめぐるあるあるに様々な言葉を当てはめてくれるのが痛快だけれど、中でも印象に残ったのは「残業麻痺」だ。

 

本書の執筆にあたって行われた大規模調査で、こんな発見があったという。

(中略)端的に表現すると、次のようなワンセンテンスになります。

 「超・長時間労働」によって「健康」や「持続可能な働き方」へのリスクが高まっているのにもかかわらず、一方で「幸福感」が増してしまい残業を続けてしまう人がいる。(p103)

明らかにハードな超・長時間労働をしているのに、なぜか幸せそうな人。いる。たしかに職場にいるこんな人は「残業麻痺」だと中原さんは指摘する。

 

なぜ「麻痺」なのか。それは、超・長時間労働をする人が本当に幸福とは言えないからだ。超・長時間労働層の「食欲がない」「ストレスを感じる」「実際に重篤な病気や疾患を持っている」といった健康リスクに着目すると、残業がない層に比べて2倍近くに跳ね上がっているという(p110)。

 

ではなぜ残業麻痺の人たちは、本当はつらいのに幸福だと感じているのか。そこには「成長実感」がある。残業時間が長くなるほど、成長実感が増えていくのだという。しかし、これでいいのかと中原さんは問題提起する。

 しかし、果たしてこの「成長実感」は未来に向かった質の良い「学び」になっているのでしょうか? 残業が多かった時期と個人のキャリアの成長時期が重なったことで、「長時間働いた」という「達成感」を「成長」と勘違いしているのではないでしょうか。これが私の問題提起です。(p128)

「残業が多い時期」と「キャリアの成長期」が「たまたま」重なったことを、「残業によって成長した」と勘違いしていないか。残業麻痺は、成長実感を成長と「偽装」しているのではないか。

 

この問いは、重く胸に留めて置く必要がありそうだ。残業は成長をもたらさず、健康リスクを増大させる。でも一線を越えると、成長実感が麻薬のように幸福感をもたらしてしまう。その末路は、薬物中毒者のそれとあまり変わらないかもしれない。

 

残業は組織の病

もうひとつ面白いと思ったワードが「組織学習」だ。

 

組織学習とは、1970年代以降、ハーバート・サイモンさん、レヴィット・マーチさんら組織論研究者のアイデアで、組織があたかも学習したかのように、決まった仕事が定着していく現象を指す。中原さんは、残業もまた組織学習されると考えた。

 私は「長時間残業」のメカニズムも、この「組織学習」によって説明ができると思います。大事なことなので繰り返しますが、個人レベルでは、「麻痺」「残業代依存」が起こり、個人の「習慣」として定着します(個の学習)。そこに、組織レベルでは「集中」「感染」が起こり、組織内の非公式な「制度」として定着します(ヨコの学習)。これらの異なるレイヤーのメカニズムが互いに強化しあい、単なる「個人の意識」レベルを超えて残業習慣を「組織全体」に根付かせる「負の組織学習」が起きるわけです。(p203)

「個の学習」として始まった残業の習慣が、周辺へ「ヨコの学習」を起こし、最終的には「負の組織学習」に陥る。組織があたかも1人の人間、生命体のように、残業を学習していく。その意味で、残業とは「組織の病」とも言えそうだ。

 

「組織学習」と似た現象に「多元的無知」がある。多元的無知とは、「自分はAだと思っているけれど、自分以外はみんなBと思っているだろうな」と想像する時、AではなくBに合わせた行動を取ってしまうこと。面白いことに、組織の全員が多元的無知を起こすと、みんながAだと思っていても、実際はみんなBを選択してしまう。「みんなが思っていると想像する」だけで、幻想でしかないBが「自己成就」してしまうのだ。

 

「残業することはいいことだとみんな思っているだろうな」と思うと、組織全体で「残業することはいいことだ」という価値観が顕在化してしまう。各個人の「本音」は「残業なんてないほうがいい」だとしてもだ。「病は気から」の反対で、気から病を起こしてしまう。

 

人の病を治すには応急的な対応と持続的な対応があるように、中原さんは残業という「組織の病」に「外科的」と「漢方薬的」の二つの対応策を用意してくれている。もちろん一朝一夕では治らない。でも、社会のために、希望ある生き方のために、根気強く付き合っていく必要がある。

 

今回紹介した本は、こちらです。

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

 

「残業学」とセットで、中原さんの前著「働く大人のための『学び』の教科書」を読むと、いいリンクが生まれると思います。残業麻痺が引き起こす偽りの成長ではなく、本当の成長のためにはどんな「学び」が必要かを学習できます。

www.dokushok.com

 

調査と分析を駆使することで、現象はどこまでも可視化できる。矢野和男さんは、このことを「幸福」に対しても適用して、幸福を定量的に測るという試みをしています。その結果は「データの見えざる手」をどうぞ。

www.dokushok.com