読書熊録

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セラピーだけでなくケアもー「居るのはつらいよ」(東畑開人さん)

何かをしてばかりいる。どこかを目指して、何かを目指してばかりいる。自分の生活には「する」がギュウギュウになって、ただ「居る」ことなんてほとんどないな。「居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書」は「居る」を取り出して、よくよく見つめて、その奥深さを認識させてくれる。

 

筆者は心理士の東畑開人さん。京大卒の情熱に燃える若者だった東畑さんは、難航する職探しの末に沖縄のデイケア(精神障害者が日中を過ごす施設)へ就職する。そこは「ただ、居る、だけ」に溢れていた。「居る」ってなんだろう。「居る」ことは病や、生活にどんな関わりがあるんだろう。括るとすれば医療系学術書ではあるけれど、その学びは私たちの「生きづらさ」に直結してくれる。医学書院。初版は2019年2月25日。

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居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

悪いものを変えるセラピー、うまく付き合うケア

東畑さんは「専門家」で、デイケアでも専門領域である「セラピー」の力を発揮したがった。でも、デイケアの中心は文字通り「ケア」だった。「セラピー」と「ケア」。副題にもある二つの「関わり方」の違い、綱引きが、本書の大動脈になっている。

 

序盤、一つの事件が語られる。ジュンコさんというメンバーさんがいた。ジュンコさんはデイケアに加わるやいなや、他のメンバーに積極的に話しかけたり、調理の役割を積極的にこなしたりした。新入りの東畑さんにも声をかけて、意気込んだ東畑さんはセラピーをする。しかし、ジュンコさんはほどなくデイケアに来なくなった。

 

東畑さんは「俺のせいだ」と猛省する。セラピーでジュンコさんの壮絶な過去を傾聴したこと、引き出したことが、ジュンコさんを追い詰めたのではないかと。

 だけど、心の深い部分に触れることが、いつでも良きことだとは限らない。当然だ。抑えていたもの、見ないようにしていたもの、心の中の苦しいものが、外にあふれ出てしまうからだ。つらいに決まっているし、心は不安定になる。

 実際、何回かセラピーもどきをするなかで、ジュンコさんはデイケアのメンバーやスタッフからも、自分は疎まれているのではないかと話すようになっていた。心の中にあった悪いものが、現実を汚染し、被害妄想が生まれはじめていた。そして、そうなってきたところで、ジュンコさんは、デイケアにいられなくなった。デイケアから離れた。(p49)

セラピーは自分の内面にある「悪いもの」を直視し、それを変えていく作業だ。変化の作業。だけど、それは変化に耐えられる自分でなくては苦しい作業だ。自分の殻をいとも簡単に突き破って、現実を「汚染」してしまう。

だからこそ、デイケアがある。デイケアはケアをする。「悪いもの」にいったん蓋をしてみて、まずは現実と付き合ってみる。そこで自分の安定を図るのだ。だからケアとは「する」んじゃなくて「いる」ことが大切になる。

 

セラピーが悪で、ケアが善というわけではない。ただ、デイケアに来るメンバーさんにはケアが必要だったというだけだ。なぜ必要なのか。それは、一般社会ではセラピー的なものが溢れているからだ。

セラピーは線的だ。くねくねと曲がりながらも、どこかへ進んでいく。それは「成長」でもあるし、「変化」でもあるし、回復へと向かう「物語」でもある。病はいつだって「治すべきもの」として扱われる。それはもちろん大事でも、セラピーだけになれば、「治らないもの」はどんどん追い込まれていく。

 

だからケア的なものの役割がある。東畑さんは最初にそこで躓いて、ケアの奥深い世界に入っていく。

 

人を支える「依存労働」

ケアの世界に分け入っていく。そこで出会った「依存労働」という言葉が胸に残っている。エヴァ・フェダー・キティさんという哲学者がこう定義している。

 依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりをつくりだす。(キティ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』八十五頁)(p103)

他人をケアする仕事は依存労働だ。ケアとは、障害や病によって脆弱性を抱えた人に対して、発生するニーズを次々とクリアにしていくことだ。それは「依存させてあげる」仕事と言える。

 

そして依存させてあげるからこそ、そこには絆が起こるし、親密さ、信頼と不可分になる。それがケアの「しんどさ」でもある。メンバーさんと感情的な結びつきなしに、ケアをすることはできない。だから疲れる。時には精神的に激しく追い込まれる。

 

だからキティさんは、依存労働者には「ドゥーリア」が必要だと指摘する。ドゥーリアとは何か。

 出産し、赤ん坊を世話にすることになった母親のために、身の回りのことを手伝ってくれる人のことを「ドゥーラ」という。キティはそこから着想して、ケアをする人をケアするもののことを「ドゥーリア」と呼ぶ。それは「ドゥーラ」の複数形だ。ケアしつづけるために、ケアする人は多くのものに支えられることを必要とする。(p117)

面白いのは、ドゥーリアは人に限らないということ。東畑さんは、「自分にとってのドゥーリアは臨床心理学だ」と語る。

 僕にも「ドゥーリア」があった。そのうち大きなものが臨床心理学だった。僕はメンバーさんとの距離のとり方や立ち居振る舞いを臨床心理学から得ていたと思うし、メンバーさんたちの脆弱性を心理学的に理解することが、彼らを傷つけないことを可能にし、そしてそのことで自分自身を傷つきから守っていたと思う。何より、こうやってケアする仕事に価値や意味があることを臨床心理学が教えてくれた。(p117)

東畑さんは臨床心理学を学んだことで、相手が脆弱性をもっていること、その脆弱性に自分も取り込まれない距離の取り方が頭に入っていた。「知識」がドゥーリアになってくれた。

ケアに価値や意味があることを臨床心理学が教えてくれた、という一文にも注目したい。裏を返すと、ケアの価値や意味は日常的に過小評価されている。「専業主婦」という言葉、家事が仕事の劣位に置かれている風潮なんかもそうだろう。だからこそ、そのものの意味や価値を「学び取っていく」ことは非常に重要になる。

 

これを敷衍すると「私たちは何かを知ることで誰かのドゥーリアになれる」とも言えそうだ。ある社会問題を学び、その内情を理解し、それをサポートすることの価値や意味を感じること。そうすることで、その問題でケアにあたる人をケアすることができるかもしれない。

 

ケアを追いやる声

社会にはセラピー的なものが溢れている、と書いた。同じ問題意識は東畑さんも持っていて、最終盤の議論のテーマに据えている。セラピーは社会的に価値を置かれやすく、ケアは置かれにくい。東畑さんは「会計の声」と表現する。

 ケアとセラピーは人間関係の二類型であり、本来そこには価値の高低はないはずなのだけど、でも実際のところ、会計の声は圧倒的にセラピーに好意的だ。

 あなたの職場でもそうではないか? 最先端の計算をするための高価なコンピューターはぽんと購入されるけど、無償で提供されていたコーヒーはいつの間にか自動販売機で購入しなきゃいけなくなっている。投資は積極的になされても、経費は削減されていくのだ。

 同じように脳外科手術にはすさまじい値段がつくけれど、手術前の不安を鎮めるための会話や、手術後の体のお世話の報酬は低い。復職支援のためのリワークデイケアは拡大しても、居場所型デイケアは縮小していく。(p320)

どこかへ向かっていく、成長と変化と物語のセラピー。投資も、専門的手術も、復職支援も、セラピーと同じ文脈を共有する。一方で、休憩用のコーヒーや、不安を解消する会話、「居るだけ」のデイケアは、循環的で、どこにも連れて行きはしない。 

 

だから「居るだけ」の空間に声が響く。「それでいいのか」という声だ。東畑さんはデイケアで耳にしたけれど、私たちの日常でも聞こえてこないだろうか。

 

今一度、ケアとセラピーはどちらか一方が100%になっては成り立たないと認識したい。ケアだけではあまりに退屈かもしれないけれど、セラピーだけでは窒息してしまう。東畑さんは「成分」と表現する。

 繰り返します。ケアとセラピーは人間関係の二つの成分です。傷つけないか、傷つきと向き合うか。依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです。だって、人間関係って、いつだって実際のところはよくわからないじゃないですか。だから、臨床の極意とは「ケースバイケース」をちゃんと生きることなんです。(p278)

社会はセラピーを優遇するかもしれないけれど、私たちの成分として、ケアを守っていくこと。ケア抜きで生きられると誤解しないこと。それが当面のやり方として、大切なんだと感じた。 

 

今回紹介した本は、こちらです。 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

変化せよ、成長せよ。セラピー的な声に絡め取られた若者の行く末を描くのが、朝井リョウさんの小説「死にがいを求めて生きているの」です。「する」ことばかりに駆り立てられることは、恐ろしいこと。

www.dokushok.com

 

ケア中心に、円環的に生きている社会というのもあります。「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」は、奥野克巳さんが狩猟採集民の社会から学んだことを日本社会と対比してくれます。

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