読書熊録

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感覚の言葉より内臓の言葉ー読書感想「ひきこもれ」(吉本隆明さん)

「ひきこもれ」を読んで、なぜツイッターでつぶやき続けても満たされないことがあるのか分かった気がする。どうして人に対して徹底的に攻撃的な人がいるのかも分かった気がする。思想家・吉本隆明さんが語るところを、梯久美子さんの構成で文章化した本で、とても読みやすい。言葉には二種類ある。誰かに伝えるための「感覚の言葉」を弄するばかりでは、自分のための言葉、「内臓の言葉」が育たない。内臓の言葉を育て続けた吉本さんが発する感覚の言葉が詰まっているのが本書だった。だいわ文庫、2006年12月15日初版。

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ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

 

自分のためだけの内臓の言葉

副題は「ひとりの時間をもつということ」。元となる単行本は2002年の刊行で、当時「ひきこもり」が社会問題として取り上げられていたようだ。吉本さんは「ひきこもることは何も悪くない」という立場で言葉を織りなす。

 

なぜひきこもることは悪くないのか。吉本さんは大事だとさえ言う。その思考の根幹に置くのが「言語には二種類ある」という話だ。

 ぼくは、言語には二種類あると考えています。

 ひとつは他人に何かを伝えるための言語、もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。(p36)

他人に何かを伝える言語は、自分が感じたことを内包してはいるものの、それを他人と共有することが目的になっている。それは感覚器官と関わっている。一方で、自分だけに通じればいい第二の言語は、「内臓の言葉」というような性質があると吉本さんは言う。そして、内臓の言葉を獲得するために、ひきこもる必要があると。

 ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません。

 一方、コミュニケーション力というのは、感覚に寄りかかった能力です。感覚が鋭敏な人は、他人と感覚を調和させることがうまい。大勢の人がいる中に入っていく場合、それは確かに第一番手に必要な能力かもしれません。

 しかし、それは「意味」でしかない。「意味」が集まって物語が生まれるわけですから、そういう経験も確かに役に立ちます。

 けれども、「この人が言っていることは奥が深いな」とか、「黙っていても存在感があるな」とか、そういう感じを与える人の中では、「意味」だけではなく「価値」の増殖が起こっているのです。(p40)

とても大切な概念が示された。感覚の言葉にあるのは意味だ。意味でしかないとも言える。自分の感覚と相手の感覚をコネクトするものが意味だ。

一方で、内臓の言葉にあるのは価値だ。それは、別の誰かの感覚に共有されるかは分からない。なんなら、自分の感覚でちゃんと感じ取れるかだって分からない。そんな価値を伴うのが内臓の言葉。自分だけの言葉を自分だけに語り続ける中で、価値が増殖していくんだと吉本さんは言う。

 

いま、内臓の言葉に対して感覚の言葉の方がハードルが低い。さらに重視もされている。だからツイッターでは、共感を呼ぶような、バズを生むような言葉を狙って発する人が多いんじゃないか。だけれど、そんな言葉は内臓を満たさない。誰かのための言葉を発してばかりで、自分だけの言葉が足りていないのかもしれない。

 

人を傷付けるのをためらう「交換可能性」

ツイッターと言えば、他人を攻撃する言葉が目に付く。それにげんなりすることも多い。なぜなんだろうと思う。なぜ他人を攻撃できてしまうんだろうか。そのヒントも吉本さんの語りに見つけることができた。

 

吉本さんは戦争を経験した世代で、戦後に立場を転向した「戦中派」を自任する。その言説は時に社民党や共産党とリンクさせられたようだけれど、吉本さんは「かれらのお世話になったことは一度もありません」と断言する。社民党・共産党が先の大戦を侵略戦争だと言うけれど、吉本さんはその用法に敏感になり、こう語る。

 身近な人が大勢、あの戦争で死にました。同じ寮にいた一級上で、特攻隊で死んだものもいるし、徴兵されて行った先でいわゆる残虐行為をした責任をとらされて、C級戦犯で銃殺された人もいます。

 そういう人を歴史から抹殺するというか、まるでなかったことのように扱うことだけは、ぼくはしたくないのです。なぜなら、その人たちと同じ立場に、ぼくがいつなってもおかしくなかった。かれらとぼくは、いつでも交換可能だったのです。(p159-160)

吉本さんが強すぎる言葉をためらうのは、批判される立場に自分がいたかもしれないと思うからだ。特攻隊で亡くなった人や、戦地で残虐行為に手を染めた人と、自分は交換可能であること。この交換可能性が、言葉に対して慎重にさせる。

 

交換可能性を失った時、ひとは攻撃的になるんじゃないだろうか。罵詈雑言を浴びせるその人が、自分とは無縁だと言い切れるからこそ、そう思い込めるからこそ、手を止めずにいられるんじゃないだろうか。だとすれば、私たちはどうやって交換可能性を取り戻せるのか。戦争という共通体験を獲得し得ない現代でも、それは可能なんだろうか。

 

持続しよう

社会へのまなざしだけじゃなくて、生き方のヒントも本書には詰まっている。特に響いたのは、「持続性」の大切さを説いたこの場面だった。

 のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく一〇年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくったっていいのです。ひきこもってもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を動かす」ということをやっておく。何はともあれ、熟練に向けて何かを始めるところにこぎつけてしまえばこっちのものです。(p128-129)

吉本さんは「一個のことを続けないとダメだ」と言っているわけではない。かといって、嫌ならすぐやめようでもない。なんとなく、ダラダラしながら、サボりながらでいいから、あるものごとをコツコツ積み重ねてみる。それが10年も続いたら「かならず」職業として成立するというのだ。このちょうどいい塩梅が素敵だ。

 

これは内臓の言葉を養う上でも言えるんだろう。あんまりピンとこなくても、自分に語り続けること。誰かと共有したい誘惑にすぐ乗っからず、いやたまには乗っかっていいけど、それでも自分に語り続けることをやめないこと。その先に、確かな価値が根を張るっていうことだろう。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

 

プロが平易な言葉で語ってくれる本は、心が疲れた時にとってもいい言葉の毛布になります。鴻上尚史さんの「『空気』を読んでも従わない」もまさにそれです。中高生に向けて、「世間」と「社会」の違いを分かりやすく解き明かした一冊。

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「羊飼いの暮らし」は「内臓の言葉」をたっぷり含んだノンフィクションでした。羊飼いという現代からは置き去りにされつつある生き方へ、きちんと向き合って没入した著者の言葉。そこにはたしかに「価値」が見えます。

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