読書熊録

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こんな恋愛小説が読みたかったー読書感想「平場の月」(朝倉かすみさん)

50歳に差し掛かる男女、しかも色々と訳を抱えて故郷に出戻った男女の思い合いを、「平場の月」は描く。読み終えて、そうだ、自分が読みたかったのはこんな恋愛小説だったんだと思った。輝かしい未来よりも抱えた過去の方が多い二人。客観視や成長志向とは程遠い「平場」に生きる二人。情けないようで実直な二人のそこかしこに、同じように小市民な自分が写る気がする。だからこころに沁みる。作者は朝倉かすみさん。光文社、2018年12月20日初版。第32回山本周五郎賞受賞。

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平場の月

平場の月

 

 

弾力のある好意

主人公・青砥健将は50歳に到達する頃になり、胃の精密検査に病院を訪れる。売店の店員をしていたのは、同級生の「元女子」須藤だった。須藤は青砥に、「景気付けあいっこ」をしないかと提案する。健康の不安や、将来の不安や、日常に浮かぶちょっとした陰りを晴らすような、何でもない話をする機会をつくらないかと。

 

そうやって二人の関係がスタートする。お互いが好意を寄せ合っているのは読んでいて分かるのだけれど、それは「恋愛」とはどことなく違う。この先、二人の先に無限の未来が広がるわけじゃない。その期待にただただ盲目的になれるわけじゃない。むしろ、積み重なった過去を背負い込むにはあまりにも現在が不安定で、それを一緒にわかちあえる誰かがいてほしいという気持ち。

 

二人の関係は恋よりも愛よりも情に近い気がする。情に近い何かが、読んでいて心に新しい感覚、感情を芽吹かせてくれる気がする。たとえばこんな会話がある。青砥も須藤も「訳あり」で地元に戻ってきた。二人で酒を飲み交わし、静かにそれぞれの事情を打ち明けあう。そのあとの会話。

 須藤はきつくまばたきをして、つづけた。

 「だれかに話すのは初めてだったけど、ひとごとみたいだったな。自分の経験とは思えない」

 「おれもだ」

 青砥は押入れの引き違い戸から背なかを引き剥がし、繰り返した。

 「だれかに話すのは初めてだったけど、ひとごとみたいだった」

 須藤は、ね、という目をした。

 「わたし、このこと、だれかに話してみたかったんだ」

 「おれもそうかもしれない」(p65)

きっとその当時は泣いて泣いてだった経験。でも50歳が見えて、経験はもう「ひとごと」みたいに思えるくらい冷えて固まった。だけど、奥の奥の方では熱を持っている。だれかに話したい。その思いを青砥と須藤は共有する。会話は続く。

  (中略)

 「でも、きっかけにはなったか。須藤にも会えたし」

 後半は冗談めかした。

 「わたしも」

 須藤は陶器カップを畳に置き、腕を組んだ。

 「話しておきたい相手として、青砥はもってこいだ」

 距離感といい、なんといい、と須藤は言葉を濁したが、青砥には届いた。正確に伝わった、と直感した。

 たしかに「もってこい」かもしれない。青砥は須藤に好きなような、好きとは言い切れないような、弾力のある好意を抱いている。須藤もきっと同じだ。昔、駄菓子屋に売っていた、短いストローでふくらます、虹色の風船みたいな好意がふたりのあいだで呼吸していた。(p66)

話しておきたい相手としてもってこいだ、と思える人。青砥が言うように、駄菓子屋に売ってそうな風船に近い、小さくて柔らかい好意がある。それが「呼吸する」。とっても素敵だ。情に近い何かだけど、たしかにこれも愛なんだろうなと思う。

 

幸せが湿気ってしまう

アラサーなのにどうして50歳の恋が響くのだろう。そう思った時に、須藤の独白を思い出した。須藤が「景気付けあいっこ」を提案する、一番最初の方。須藤は「チー坊」というキャラクターが描かれたミルクコーヒーを飲んで帰る道すがら、こんな毎日も悪くないと、「ちょうどよくしあわせだ」と思うことがある。一方で、その幸せが湿気ってしまうこともある、と。

 「家に帰って用事を足しているうちにチー坊効果が薄れていって、ときどき『ちょうどよくしあわせだ』と感じた自分が実におめでたい人物だと思えてくることがあってね。布団に入るころには、もしやり直せるとしたら何歳に戻りたいかとかさ、そこそこ本気で考えちゃうんだ。空想であそぶ時間は愉しくないこともないけど、なんだろうなあ、いま抱えてるちょっとした煩わしさが寄り集まって、雨雲みたいに広がって、湿気ったきもちになったりするんだよ」(p30)

ああ、分かる。と思った。これは「中年の恋愛物語」じゃなくて「満ち足りた日々に小さな不安を抱える人間同士の恋愛物語」なんじゃないかと思えた。

 

あらゆるものは足りている。幸せかどうかで言えば間違いなく幸せ。でも、晴れが多い季節に雨が全くないわけじゃない。「煩わしさ」が雨雲になることがある。本当に強い人は明るい家の中で、その雨さえも風情として楽しめるんだろうか。でも、じめじめと、心に浮かんだ雨雲が幸せを湿気らせてしまうことがある。あるよな、と思う。

 

だから須藤には青砥が必要だった。青砥にも須藤が必要だった。

 

平場に生きている

タイトルの「平場」とは何だろう。

 

青砥の職場にヤッソさんという先輩がいる。ヤッソさんも独り身。64、65ぐらいで、青砥よりもちょっと年上の派遣社員。青砥はヤッソさんとたまに飲む。ヤッソさんのアパートで、惣菜をつまみに氷結ストロングのロング缶や大五郎を飲む。ヤッソさんは職場の愚痴ばかり言う。青砥はそれが、嫌いじゃない。

 愚痴を聞かされるだけと知っていても、ついヤッソさんと飲んでしまうのは、まったく公平ではない視線でもってものごとを捉え、ひとり勝手に僻んだり傷ついたり怒ったりするヤッソさんの心情が沁みるからだ。客観性というやつが微塵も入り込まないヤッソさんワールドはヤッソさんが感じたことがすべてで、青砥にも、そんなワールドがたぶん存在する。(p54)

ヤッソさんはまったく公平じゃない。客観戦は「微塵も入り込まない」。それは社会的にはまったく尊敬されない振る舞いだと思う。スマートじゃない。でも青砥がそれが好きだ。それはヤッソさんを見下して得ている好きじゃなくて、ヤッソさんワールドがたしかに自分にもあると思う、共感の好きだ。

 ヤッソさんはおれより素朴だと青砥は思う。ヤッソさんと話をしていると、ここは平場だ、と強く感じる。おれら、ひらたい地面でもぞもぞ動くザッツ・庶民。空すら見たり見なかったりの。(p55)

ヤッソさんや青砥がいるのが、平場だ。平たい地面。上を見るとか、広い世界を見るとかじゃない。目の前を精一杯生きて、誰にでも平等に広がる空さえも、見たり見なかったりする。

 

自分は青砥やヤッソさんほど、平場にいるんだということを認められないかもしれない。まだまだ、登っていきたい自分を持て余しているような気もする。そのプライドはたぶん傍目には滑稽で、それはそれでザッツ・庶民な気もしてくる。

 

こうして、物語がまた一つ身近になる。「平場の月」は読み進めるほど、自分に優しくしてくれる気がする。とてもとても、優しくしてくれた気がする。

 

今回紹介した本は、こちらです。

平場の月

平場の月

 

 

「平場の月」は、生産性至上主義の息苦しさからなるべく遠ざけてくれる。同じように、深呼吸する時間をくれる物語として、小野美由紀さんの「メゾン刻の湯」が思い浮かびました。就活に挫折して、銭湯に住み込み始めた若者のお話。

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ノンフィクションで言えば、「ヒルビリー・エレジー」の持つ温度感が近いかもしれません。アメリカで「置き去りにされた」と言われる白人貧困層出身の著者が、その内実を描いてくれます。その息遣いは「平場」のそれに近い気がします。

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