読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

ブログを移しました

ずいぶん放置してしまっています。読書感想のブログを、別のサービスである「note」に移管して更新中です。

 

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はてなブログの有料サービスを解約するため、なにかしら不具合が出るかもしれません。

 

今後、こちらの方で何か更新するかは決めておりませんが、これまでのエントリーはしばらく残しておこうと思います。

 

もしもお読みいただいてる方がいましたら、これまでありがとうございました。お時間のあるときはnoteの方を覗いていただけると、幸甚です。

 

大変長らくお世話になりました。

最高に格好いい裏方がいるー読書感想「PIXER」(ローレンス・レビーさん)

「PIXER(ピクサー)」を、財務面で支えた最高に格好いい裏方がいる。その本人ローレンス・レビーさんが苦闘に明け暮れた日々を振り返ったのが本書「PIXER 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話」だ。CGアニメがまだ世になく、収益性は見えない。積み重なる赤字、ディズニーとの不利な契約、ベンチャー文化をどう維持するか。ローレンスさんはそうした危機に人知れず向き合ってきた。こんな職業人でありたいと思える人。井口耕二さん訳。文響社、2019年3月19日初版。

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PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話

 

 

自分だけが分かる勲章

ローレンスさんは「法律屋」かつ「財務屋」だ。ハーバード大を卒業後、アップルの株式公開をサポートした法律事務所「ウィルソン・ソンシニ・グッドリッチ・アンド・ロサティ」のパートナーになった。同所の対テクノロジー部門の設立にも関わった。その後、クライアントのスタートアップに移り、以来、企業経営に関わってきた。だから、クリエイティビティやアニメーションは門外漢。そんな彼をピクサーに一本釣りしたのが、スティーブ・ショブズ氏だった。1994年のことだ。

 

ローレンスさんのミッションは、ピクサーの上場(株式公開、IPO)を成功させること。でも、それまでに壁がありすぎた。まず、ピクサーには収益事業はほとんどなかった。「トイ・ストーリー」の公開は1995年11月で、この頃はまだCGアニメが世に受け入れられるかはまったく未知数だった。

なのにCGに莫大な投資を重ねてきたピクサーはとんでもない赤字を抱えていた。それを私費で賄ってきたのがジョブズ氏だったけれど、どうにも現場と折り合いが悪かった。さらに、仮に「トイ・ストーリー」がヒットしても、配給元のディズニーと結ばれた契約は「不平等条約」と言っていいもので、利益のほとんどはディズニーに持って行かれてしまう。

ピクサーはウルトラCを目指す。「トイ・ストーリー」をヒットさせると同時にIPOを行い、会社を存続させる資金を獲得する。ローレンスさんは、本当にヒットするかわからない「トイ・ストーリー」がヒットすることを投資家に確信させる役回りを担った。世の中にまだないものが、世の中を変えるんだと信じ込ませる難しい仕事だ。

 

2019年のいま考えると結果は明白で、「トイ・ストーリー」はヒットどころか爆発的ヒットを叩き出し、同時期のIPOは大成功を収めた。しかし、当時はローレンスさんがいたからこそ、投資家の納得を引き出せた。ローレンスさん自身も、それを何年後かに聞かされたという。実は、IPOに乗るかどうか投資家はギリギリまで迷っていた。

 それでもやろうとなったのは私がいたから、だったらしい。私は自分たちと同じようにリスクを見ているはず、また、ピクサーを評価する際、私がかなりの影響力を発揮するはずだと信じてくれたのだそうだ。スティーブがネクストに手を取られる分は私がなんとかしてくれるはずだろうとも思ってくれたらしい。背中がこそばゆくなるほどの賛辞だが、それでも、ピクサーを担ごうとロバートソン・スティーブンスが決断してくれたこと、ハリウッドで大成功するほうに自社の信用を賭けるという危ない橋を渡ってくれたこと、しかも、最初の映画さえ公開されていない状態でそこまでしてくれたことには、いくら感謝してもしすぎることはないと思う。(p203)

ジョブズ氏がトップに立ち、とてつもない才能のアニメーターを抱えるピクサーが可能性に満ちていることに疑いがない。でも、その反面として存在するリスクを正確に冷静に見ている人がいるのか。投資家の疑問に答えたのがローレンスさんだった。ローレンスさんがいるから大丈夫だろう、と思ってもらえた。乱暴に言えば、クリエイティブの門外漢であるローレンスさんが現場で奮闘していたからこそ、ピクサーのクリエイティビティは生きながらえた。

 

ローレンスさんを尊敬できるのは、こうした貢献を「背中がこそばゆくなる」という具合にしか語らないことだ。あくまで、投資家への感謝を語る。その前提として、ピクサーのアニメーター達への賛辞も繰り返している。

一方で誇るのは、自分だけの小さな勲章だ。ローレンスさんは、ピクサーの経営にあたってハロルド・フォーゲル氏のエンターテイメントビジネスの著作を参考にした。そこでは映画会社の株は「投資家にとっての悪夢」と語られていたが、改訂後、例外中の例外としてピクサーの成功が追記された。

 この追記に気づいたのは、世界中で私くらいなものだろう。それでも、この段落を思いだすたび、私は顔がほころんでしまう。(p205)

世界中で誰も気づかないかもしれない勲章。それを静かに誇るローレンスさんが素敵だ。

 

スポットライトを仲間に当てる

ローレンスさんの格好よさが際立ったのは、映画の最後に流れるクレジットをめぐる闘いだ。エンドクレジットには、映画製作に関わったスタッフの名前が記される。ただピクサーのバックオフィスにいる社員の名前は記載されない。ローレンスさんはこれを変えたいと思った。

なんとかディズニーを説き伏せることに成功し、次回作「バグズ・ライフ」には管理部門で働くスタッフの名前もスクリーンに映ることになった。ただし、条件がついた。役員はクレジットから除外する。その結果、部下は全員登場するものの、管理部門トップのローレンスさんの名前だけクレジットには書かれないことになった。ローレンスさんは悔しさを飲み込んで、「いいんじゃないですか」と返答した。その後、これはピクサー映画の慣例となった。ローレンスさんはこう語る。

 いまも、私は、ピクサー映画を見るときクレジットの最後まで待ち、支援部門の名前が流れていくのを目を輝かせて見ている。家族もよくわかっていてそこまで付き合ってくれる。ここを見るたび、私は涙ぐんでしまう。最近の映画だと知らない人のほうが多くなってしまったが、それでも、彼らが一生懸命働いていること、彼らがいなければ映画は完成しなかったであろうこと、そして、たとえつかの間であっても彼らの名前にスポットライトが当たるべきことはまちがいないのだ。(p263)

部下にスポットライトが当たってほしい。その思いを、自分だけがスポットライトを当たらないという条件で実現させるなんて、究極の部下思いだ。ピクサーは表に出ない人も含め全ての社員が支えているんだ。裏方で汗をかく社員が、この取り組みによって報われた思いになったんじゃないかと思う。

 

本当に大切なものを守る

ピクサーが「トイ・ストーリー」後もヒットを飛ばし続けるのは、映画製作のハンドリングを現場のストーリーチームに任せているからだという。クリエイティブを経営陣が握る方法ではなく、「自由にやらせる」スタートアップ流のスタイルを堅持した。

経営陣としては、現場に任せた分は自身のリスクに跳ね返ってくる。ローレンスさんはそれでも、現場に賭ける方を選んだ。

(中略)ピクサーのやり方を支えているのは、忌憚のない意見の応酬であり、自尊心を棚上げしてその意見に耳を傾ける強い意志である。そのあたりを考えると、私のなかにあるスタートアップ魂がチームに賭けろとささやいてくる。それがシリコンバレー流の映画製作だろう。リスクヘッジなんぞくそ食らえ。イノベーションに賭ける。すごいものに賭ける。そして、世界を変えるのだ。(p218)

ローレンスさんは財務責任者でありつつ、スタートアップ魂も燃えていた。魂が囁きかける声に真摯だった。イノベーションに賭ける。すごいものに賭ける。そして、世界を変える。IPOのときもきっとこの信念を貫いたんだろう。それを失わなかったからこそ、成功後も本当に大切なものを守る、ピクサーのクリエイティビティを守る経営判断ができた。

最も堅実であるべきポジションで、挑戦的なスピリットを持ち続けること。どちらか一色に染まらず、自分だけの色合いを探っていくこと。それがよき職業人の条件なんだろうと思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話

 

 

ローレンスさんの姿を見て、「あなたの人生の意味」という本を思い出しました。履歴書に載るような輝かしい功績を目指すのではなく、追悼文で読まれるような道徳的価値に忠実であろう。ローレンスさんはまさに、良き追悼文が読まれるような人だ思います。

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スタートアップの内幕というのは教訓とドラマに溢れているなと思います。「サルたちの狂宴」は、そのFacebook版。キラキラした最先端企業にも狂乱があることが、生々しいエピソードでわかります。

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崩壊は内側から起こるー読書感想「なぜ大国は衰退するのか」(グレン・ハバードさん他)

大国は自壊する。崩壊は内側から始まる。外部の侵略や打倒は衰退の原因ではなく徴候である。「なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで」は、ローマ帝国、明(中国)、オスマン帝国、イギリス、カリフォリニア州など、豊富な事例でこの事実を明らかにしてくれる。キーワードは財政不均衡とレントシーキング。国を守るためには人徳ではなく制度が重要だ。著者はコロンビア大学大学院ビジネススクール院長のグレン・ハバードさんと、米ハドソン研究所主席エコノミストのティム・ケインさん。久保恵美子さん訳。日経ビジネス人文庫、2019年6月3日初版。

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なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで (日経ビジネス人文庫)

なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: グレン・ハバード,ティム・ケイン,久保恵美子
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2019/06/04
  • メディア: 文庫
  • この商品を含むブログを見る
 

財政不均衡

ローマ帝国は外部の民族の侵略によって滅ぼされたのではない、と本書は指摘する。侵略は衰退の徴候であって、原因ではなかった。

(中略)アセモグルとロビンソンはこう主張する。「ゴート族、フン族、バンダル族がローマに勝利したのはローマの衰退の徴候であって、原因ではない」。実際、古代ローマは存在したすべての期間を通じて国外からの大きな軍事的脅威にさらされていたが、その脅威に負けたのは「国内の経済的停滞」を経験したあとのことだった。(p170)

なるほど、様々な国防上のリスクは常にローマにつきまとったのに、なぜ最終盤で壁が破られたのか。グレンさんらが本書を通じて繰り返す要因がそこにある。それが「経済的停滞」経済が崩れた国は、国そのものが崩れていく。

 

ではローマの経済的停滞はなぜ生じたか。そこで注目すべきなのが財政不均衡だった。例として、トラヤヌス帝の施策が挙げられる。

 彼は人気のある皇帝ではあったが、その治世にはローマ帝国の経済的不均衡につながる最初の要素がいくつか見られる。トラヤヌス帝はローマ周辺の貧困を緩和する、初の福祉政策に着手した。これは広範な政策ではなく、導入された地域でも一般化しなかったが、もともと中身が問われるというよりも象徴的な意味合いの強い策だった。とはいえ、これによって、国家には市場がもたらす不平等を埋め合わせる義務があるという原則が確立した。三ヶ月に及ぶ剣闘士の試合という見世物も、この時期独自のものではなかったとしても、国にとって費用がかさむ娯楽だった。(p173)

子どもの貧困を是正する福祉政策も、コロシアムも、国民に対して良かれと思った打ち手だったはずだ。だが、こうした政策の財源捻出は大きな負担となり、この後、通貨の改悪など市場の混乱の引き金になる。そうして拡大を続けていた帝国経済は収縮していった。

 

同じことは明でも起こった。鄭和が広大な貿易圏を作り出したのに、明は衰退した。永楽帝は税を3倍にし、主に運河や紫禁城の建設に当てられた。また洪武帝は政府の許可のない交易や旅行を禁じて、自由な経済を阻害してしまった(p215)。国の支出が増大すると、市場から収奪するしかなくなり、結果的に国が弱っていく。今の日本に当てはめてみると、暗澹たる気持ちにならざるを得ない歴史の教訓だ。

 

レントシーキング

もう一つ、面白い現象だと思ったのが「レントシーキング」レントシーキングとは、特定の集団がレント(超過利益)を確保しようと政策を訴え、ロビー活動することを指す。ローマの場合は、外敵との戦いのために増強した軍隊がレントシーキング状態になり、政府そのものがレントシーキングに走った。

 ローマの軍隊が権力を独占したことで文官と武官の権威の分離がなくなり、ついには軍隊が皇帝位の継承を完全にコントロールするようになったという点で歴史家の意見は一致している。軍隊はレントシーキングの戦略をとり、他のすべて、すなわち安定、経済的繁栄、市民の自由、さらには国家の安全まで犠牲にして、みずからの収入と権力を最大化した。この軍隊の欲望によって税はますます重くなり、最終的には税基盤、通貨、貨幣経済までもが崩壊した。(p192)

ローマだけではない。オスマン帝国でもレントシーキング集団が国を蝕んだ。当初は異民族統合に役立った、徴兵制に基づく実力主義集団「イェニチェリ」だ。

(中略)国内の権力バランスはスルタンに奉仕するようにたくみに設定されていたものの、オスマン帝国の政治の大きな弱点は、スルタン位の継承のルールがあいまいなことだった。権力中枢に近い権威ある存在だったイェニチェリは、やがて”キングメーカー”の立場に立った。彼らはまもなく宮廷でクーデターを起こし、傀儡的なスルタンを擁立して、場合によっては直接支配権をふるうようになった。(p269)

集団には自己生存本能がある。生存本能が過剰になると、生存から繁栄、繁栄から暴利を目指し、集団はレントシーキングを起こす。ローマ軍もイェニチェリも優秀な組織だった。優秀さが度を越すと、魔物になってしまう。

 

日本にはレントシーキング集団はいるだろうか。大切なのは、どんな組織もレントシーキングに走りうるし、だからこそ巨大化した組織はそれだけをもって弱体化する、あるいは競争的環境に戻す必要がある。ダムが決壊したらもうどうにもならないように、組織がレントシーキング化すればきっと国家は沈没する。

 

なぜバスケットは面白くなったのか

どうすれば財政不均衡やレントシーキングを防げるのか。それは「制度」だ。制度しか衰退を防げない。国民意識も国家のトップの人徳も関係がない。

 

制度の重要性を説く際に、グレンさんらはバスケットを引き合いに出す。これがめっぽう面白かった。

なぜマイケル・ジョーダンはスターになったのか。それは、スリーポイントシュートというルールが新たに追加されたからだった。スリーポイントシュートが導入されたことで、ディフェンスは前方に引きつけられるようになった。すると、近づいてきたディフェンスをかわしてゴールを叩き込む余地が生まれる。それが嫌でゴール前に張り付くなら、悠々とスリーポイントを決めてしまえばいいのだ。

ジョーダンはこのスリーポイントを武器にした。ジョーダンの身長は200センチに満たず、もしもスリーポイントがなければ、210センチや220センチといった長身選手がゴロゴロいる世界では突出しなかったかもしれない。このスリーポイントルールを大学バスケで導入したのが、1945年、ホブソンという監督だった。ホブソンが制度変更を行わなければ、ジョーダンにいくら才能があっても意味がなかったかもしれない。

 

制度が全てを左右する。ジョーダンの例をとって、グレンさんらはこんな教訓を導き出す。

 多くのルール変更は、最初に提言された時は論争を起こすが、やがて広く称賛され、その後は当然視されるようになる。(p33)

制度は変更可能だ。そしてどんなに論争を招いても、その変更はいつか称賛される。そして当然とさえ言われるようになる。いいにつけ悪いにつけ、である。制度を変えることを諦めてはいけないし、制度を変えなければ失われる何かがあることを肝に命じたい。

 

今回紹介した本は、こちらです。 

なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで (日経ビジネス人文庫)

なぜ大国は衰退するのか 古代ローマから現代まで (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: グレン・ハバード,ティム・ケイン,久保恵美子
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  • メディア: 文庫
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人類史を振り返ると学ぶことはあまりにも多いですね。本作は国家論ですが、AIなどテクノロジーの面で人類史を考えた「純粋機械化経済」もおすすめです。

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制度がガラッと変わった世界を想像するには、SF小説がいい教科書になると思います。たとえば男性支配の現状が女性支配に逆転したら?そんな世界を描いた「パワー」は刺激的で、示唆に富んでいます。

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感覚の言葉より内臓の言葉ー読書感想「ひきこもれ」(吉本隆明さん)

「ひきこもれ」を読んで、なぜツイッターでつぶやき続けても満たされないことがあるのか分かった気がする。どうして人に対して徹底的に攻撃的な人がいるのかも分かった気がする。思想家・吉本隆明さんが語るところを、梯久美子さんの構成で文章化した本で、とても読みやすい。言葉には二種類ある。誰かに伝えるための「感覚の言葉」を弄するばかりでは、自分のための言葉、「内臓の言葉」が育たない。内臓の言葉を育て続けた吉本さんが発する感覚の言葉が詰まっているのが本書だった。だいわ文庫、2006年12月15日初版。

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ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

 

自分のためだけの内臓の言葉

副題は「ひとりの時間をもつということ」。元となる単行本は2002年の刊行で、当時「ひきこもり」が社会問題として取り上げられていたようだ。吉本さんは「ひきこもることは何も悪くない」という立場で言葉を織りなす。

 

なぜひきこもることは悪くないのか。吉本さんは大事だとさえ言う。その思考の根幹に置くのが「言語には二種類ある」という話だ。

 ぼくは、言語には二種類あると考えています。

 ひとつは他人に何かを伝えるための言語、もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。(p36)

他人に何かを伝える言語は、自分が感じたことを内包してはいるものの、それを他人と共有することが目的になっている。それは感覚器官と関わっている。一方で、自分だけに通じればいい第二の言語は、「内臓の言葉」というような性質があると吉本さんは言う。そして、内臓の言葉を獲得するために、ひきこもる必要があると。

 ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません。

 一方、コミュニケーション力というのは、感覚に寄りかかった能力です。感覚が鋭敏な人は、他人と感覚を調和させることがうまい。大勢の人がいる中に入っていく場合、それは確かに第一番手に必要な能力かもしれません。

 しかし、それは「意味」でしかない。「意味」が集まって物語が生まれるわけですから、そういう経験も確かに役に立ちます。

 けれども、「この人が言っていることは奥が深いな」とか、「黙っていても存在感があるな」とか、そういう感じを与える人の中では、「意味」だけではなく「価値」の増殖が起こっているのです。(p40)

とても大切な概念が示された。感覚の言葉にあるのは意味だ。意味でしかないとも言える。自分の感覚と相手の感覚をコネクトするものが意味だ。

一方で、内臓の言葉にあるのは価値だ。それは、別の誰かの感覚に共有されるかは分からない。なんなら、自分の感覚でちゃんと感じ取れるかだって分からない。そんな価値を伴うのが内臓の言葉。自分だけの言葉を自分だけに語り続ける中で、価値が増殖していくんだと吉本さんは言う。

 

いま、内臓の言葉に対して感覚の言葉の方がハードルが低い。さらに重視もされている。だからツイッターでは、共感を呼ぶような、バズを生むような言葉を狙って発する人が多いんじゃないか。だけれど、そんな言葉は内臓を満たさない。誰かのための言葉を発してばかりで、自分だけの言葉が足りていないのかもしれない。

 

人を傷付けるのをためらう「交換可能性」

ツイッターと言えば、他人を攻撃する言葉が目に付く。それにげんなりすることも多い。なぜなんだろうと思う。なぜ他人を攻撃できてしまうんだろうか。そのヒントも吉本さんの語りに見つけることができた。

 

吉本さんは戦争を経験した世代で、戦後に立場を転向した「戦中派」を自任する。その言説は時に社民党や共産党とリンクさせられたようだけれど、吉本さんは「かれらのお世話になったことは一度もありません」と断言する。社民党・共産党が先の大戦を侵略戦争だと言うけれど、吉本さんはその用法に敏感になり、こう語る。

 身近な人が大勢、あの戦争で死にました。同じ寮にいた一級上で、特攻隊で死んだものもいるし、徴兵されて行った先でいわゆる残虐行為をした責任をとらされて、C級戦犯で銃殺された人もいます。

 そういう人を歴史から抹殺するというか、まるでなかったことのように扱うことだけは、ぼくはしたくないのです。なぜなら、その人たちと同じ立場に、ぼくがいつなってもおかしくなかった。かれらとぼくは、いつでも交換可能だったのです。(p159-160)

吉本さんが強すぎる言葉をためらうのは、批判される立場に自分がいたかもしれないと思うからだ。特攻隊で亡くなった人や、戦地で残虐行為に手を染めた人と、自分は交換可能であること。この交換可能性が、言葉に対して慎重にさせる。

 

交換可能性を失った時、ひとは攻撃的になるんじゃないだろうか。罵詈雑言を浴びせるその人が、自分とは無縁だと言い切れるからこそ、そう思い込めるからこそ、手を止めずにいられるんじゃないだろうか。だとすれば、私たちはどうやって交換可能性を取り戻せるのか。戦争という共通体験を獲得し得ない現代でも、それは可能なんだろうか。

 

持続しよう

社会へのまなざしだけじゃなくて、生き方のヒントも本書には詰まっている。特に響いたのは、「持続性」の大切さを説いたこの場面だった。

 のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく一〇年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくったっていいのです。ひきこもってもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を動かす」ということをやっておく。何はともあれ、熟練に向けて何かを始めるところにこぎつけてしまえばこっちのものです。(p128-129)

吉本さんは「一個のことを続けないとダメだ」と言っているわけではない。かといって、嫌ならすぐやめようでもない。なんとなく、ダラダラしながら、サボりながらでいいから、あるものごとをコツコツ積み重ねてみる。それが10年も続いたら「かならず」職業として成立するというのだ。このちょうどいい塩梅が素敵だ。

 

これは内臓の言葉を養う上でも言えるんだろう。あんまりピンとこなくても、自分に語り続けること。誰かと共有したい誘惑にすぐ乗っからず、いやたまには乗っかっていいけど、それでも自分に語り続けることをやめないこと。その先に、確かな価値が根を張るっていうことだろう。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

 

プロが平易な言葉で語ってくれる本は、心が疲れた時にとってもいい言葉の毛布になります。鴻上尚史さんの「『空気』を読んでも従わない」もまさにそれです。中高生に向けて、「世間」と「社会」の違いを分かりやすく解き明かした一冊。

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「羊飼いの暮らし」は「内臓の言葉」をたっぷり含んだノンフィクションでした。羊飼いという現代からは置き去りにされつつある生き方へ、きちんと向き合って没入した著者の言葉。そこにはたしかに「価値」が見えます。

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こんな恋愛小説が読みたかったー読書感想「平場の月」(朝倉かすみさん)

50歳に差し掛かる男女、しかも色々と訳を抱えて故郷に出戻った男女の思い合いを、「平場の月」は描く。読み終えて、そうだ、自分が読みたかったのはこんな恋愛小説だったんだと思った。輝かしい未来よりも抱えた過去の方が多い二人。客観視や成長志向とは程遠い「平場」に生きる二人。情けないようで実直な二人のそこかしこに、同じように小市民な自分が写る気がする。だからこころに沁みる。作者は朝倉かすみさん。光文社、2018年12月20日初版。第32回山本周五郎賞受賞。

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平場の月

平場の月

 

 

弾力のある好意

主人公・青砥健将は50歳に到達する頃になり、胃の精密検査に病院を訪れる。売店の店員をしていたのは、同級生の「元女子」須藤だった。須藤は青砥に、「景気付けあいっこ」をしないかと提案する。健康の不安や、将来の不安や、日常に浮かぶちょっとした陰りを晴らすような、何でもない話をする機会をつくらないかと。

 

そうやって二人の関係がスタートする。お互いが好意を寄せ合っているのは読んでいて分かるのだけれど、それは「恋愛」とはどことなく違う。この先、二人の先に無限の未来が広がるわけじゃない。その期待にただただ盲目的になれるわけじゃない。むしろ、積み重なった過去を背負い込むにはあまりにも現在が不安定で、それを一緒にわかちあえる誰かがいてほしいという気持ち。

 

二人の関係は恋よりも愛よりも情に近い気がする。情に近い何かが、読んでいて心に新しい感覚、感情を芽吹かせてくれる気がする。たとえばこんな会話がある。青砥も須藤も「訳あり」で地元に戻ってきた。二人で酒を飲み交わし、静かにそれぞれの事情を打ち明けあう。そのあとの会話。

 須藤はきつくまばたきをして、つづけた。

 「だれかに話すのは初めてだったけど、ひとごとみたいだったな。自分の経験とは思えない」

 「おれもだ」

 青砥は押入れの引き違い戸から背なかを引き剥がし、繰り返した。

 「だれかに話すのは初めてだったけど、ひとごとみたいだった」

 須藤は、ね、という目をした。

 「わたし、このこと、だれかに話してみたかったんだ」

 「おれもそうかもしれない」(p65)

きっとその当時は泣いて泣いてだった経験。でも50歳が見えて、経験はもう「ひとごと」みたいに思えるくらい冷えて固まった。だけど、奥の奥の方では熱を持っている。だれかに話したい。その思いを青砥と須藤は共有する。会話は続く。

  (中略)

 「でも、きっかけにはなったか。須藤にも会えたし」

 後半は冗談めかした。

 「わたしも」

 須藤は陶器カップを畳に置き、腕を組んだ。

 「話しておきたい相手として、青砥はもってこいだ」

 距離感といい、なんといい、と須藤は言葉を濁したが、青砥には届いた。正確に伝わった、と直感した。

 たしかに「もってこい」かもしれない。青砥は須藤に好きなような、好きとは言い切れないような、弾力のある好意を抱いている。須藤もきっと同じだ。昔、駄菓子屋に売っていた、短いストローでふくらます、虹色の風船みたいな好意がふたりのあいだで呼吸していた。(p66)

話しておきたい相手としてもってこいだ、と思える人。青砥が言うように、駄菓子屋に売ってそうな風船に近い、小さくて柔らかい好意がある。それが「呼吸する」。とっても素敵だ。情に近い何かだけど、たしかにこれも愛なんだろうなと思う。

 

幸せが湿気ってしまう

アラサーなのにどうして50歳の恋が響くのだろう。そう思った時に、須藤の独白を思い出した。須藤が「景気付けあいっこ」を提案する、一番最初の方。須藤は「チー坊」というキャラクターが描かれたミルクコーヒーを飲んで帰る道すがら、こんな毎日も悪くないと、「ちょうどよくしあわせだ」と思うことがある。一方で、その幸せが湿気ってしまうこともある、と。

 「家に帰って用事を足しているうちにチー坊効果が薄れていって、ときどき『ちょうどよくしあわせだ』と感じた自分が実におめでたい人物だと思えてくることがあってね。布団に入るころには、もしやり直せるとしたら何歳に戻りたいかとかさ、そこそこ本気で考えちゃうんだ。空想であそぶ時間は愉しくないこともないけど、なんだろうなあ、いま抱えてるちょっとした煩わしさが寄り集まって、雨雲みたいに広がって、湿気ったきもちになったりするんだよ」(p30)

ああ、分かる。と思った。これは「中年の恋愛物語」じゃなくて「満ち足りた日々に小さな不安を抱える人間同士の恋愛物語」なんじゃないかと思えた。

 

あらゆるものは足りている。幸せかどうかで言えば間違いなく幸せ。でも、晴れが多い季節に雨が全くないわけじゃない。「煩わしさ」が雨雲になることがある。本当に強い人は明るい家の中で、その雨さえも風情として楽しめるんだろうか。でも、じめじめと、心に浮かんだ雨雲が幸せを湿気らせてしまうことがある。あるよな、と思う。

 

だから須藤には青砥が必要だった。青砥にも須藤が必要だった。

 

平場に生きている

タイトルの「平場」とは何だろう。

 

青砥の職場にヤッソさんという先輩がいる。ヤッソさんも独り身。64、65ぐらいで、青砥よりもちょっと年上の派遣社員。青砥はヤッソさんとたまに飲む。ヤッソさんのアパートで、惣菜をつまみに氷結ストロングのロング缶や大五郎を飲む。ヤッソさんは職場の愚痴ばかり言う。青砥はそれが、嫌いじゃない。

 愚痴を聞かされるだけと知っていても、ついヤッソさんと飲んでしまうのは、まったく公平ではない視線でもってものごとを捉え、ひとり勝手に僻んだり傷ついたり怒ったりするヤッソさんの心情が沁みるからだ。客観性というやつが微塵も入り込まないヤッソさんワールドはヤッソさんが感じたことがすべてで、青砥にも、そんなワールドがたぶん存在する。(p54)

ヤッソさんはまったく公平じゃない。客観戦は「微塵も入り込まない」。それは社会的にはまったく尊敬されない振る舞いだと思う。スマートじゃない。でも青砥がそれが好きだ。それはヤッソさんを見下して得ている好きじゃなくて、ヤッソさんワールドがたしかに自分にもあると思う、共感の好きだ。

 ヤッソさんはおれより素朴だと青砥は思う。ヤッソさんと話をしていると、ここは平場だ、と強く感じる。おれら、ひらたい地面でもぞもぞ動くザッツ・庶民。空すら見たり見なかったりの。(p55)

ヤッソさんや青砥がいるのが、平場だ。平たい地面。上を見るとか、広い世界を見るとかじゃない。目の前を精一杯生きて、誰にでも平等に広がる空さえも、見たり見なかったりする。

 

自分は青砥やヤッソさんほど、平場にいるんだということを認められないかもしれない。まだまだ、登っていきたい自分を持て余しているような気もする。そのプライドはたぶん傍目には滑稽で、それはそれでザッツ・庶民な気もしてくる。

 

こうして、物語がまた一つ身近になる。「平場の月」は読み進めるほど、自分に優しくしてくれる気がする。とてもとても、優しくしてくれた気がする。

 

今回紹介した本は、こちらです。

平場の月

平場の月

 

 

「平場の月」は、生産性至上主義の息苦しさからなるべく遠ざけてくれる。同じように、深呼吸する時間をくれる物語として、小野美由紀さんの「メゾン刻の湯」が思い浮かびました。就活に挫折して、銭湯に住み込み始めた若者のお話。

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ノンフィクションで言えば、「ヒルビリー・エレジー」の持つ温度感が近いかもしれません。アメリカで「置き去りにされた」と言われる白人貧困層出身の著者が、その内実を描いてくれます。その息遣いは「平場」のそれに近い気がします。

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尊厳ある仕事が消えるー読書感想「アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した」(ジェームズ・ブラッドワーズさん)

「アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した」は、イギリスの記者ジェームズ・ブラッドワースさんが国内の最低賃金の労働現場に潜入し、その内幕を告発した一冊になる。明らかにされるのは、中間的な所得を保証し、人間的な営みのある「尊厳ある仕事」が消えつつあるということ。アマゾンの倉庫ではトイレの時間さえ「怠けている時間」と言われる。ウーバーでは奴隷のような服従が求められるドライバーの仕事が「個人事業主」だと言い換えられる。イギリスの労働者を覆う絶望は、日本よりはるかに先を行っているように感じた。濱野大道さん訳。光文社、2019年3月30日初版。

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アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

  • 作者: ジェームズ・ブラッドワース,濱野大道
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/03/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

非人間性はそこかしこに転がる

アマゾンの倉庫で、マネージャーがピッカー(倉庫の整理人)のジェームズさんにくどくどと繰り返したのは「生産性」だった。「もっと生産性をアップしなきゃいけないぞ」。でもマネージャーが「怠けている時間(アイドル・タイム)」と呼ぶものは、実際は些細なトイレ休憩でしかなかった。

 そこまで生産性にこだわるのであれば、従業員がトイレに行くことに文句を言うよりもむしろ、代わりにトイレを増設するべきなのは明らかだった。トイレは1階にしかなく、この巨大な建物の最上階で働く私たちのグループメンバーは、4階分の階段を下りないとトイレにたどり着くことができなかった。私は一度、クリスマス用の装飾セットの箱の横に、淡黄色の液体が入ったペットボトルが置かれているのを見たことがあった。(p66)

マネージャーは生産性を上げろというけれど、それはピッカーにトイレを我慢しろというだけで、トイレを増設して効率を上げるという発想はない。労働者にコストを「外部化」することで、企業としてのコストを圧縮しようという魂胆がこんなところにも見える。アマゾンが効率的で安い秘密はここにあると思うとゾッとする。

 

じゃあ生理現象さえ犠牲にして生産性を上げたピッカーは報われるのか。そうじゃない。ある男性は、風邪で休んだだけで解雇された。

(中略)ピッキングの目標基準をつねに上まわり、いつも時間どおりに出勤した。そして何より重要なことに、仕事のほぼすべての側面を支配する無数の細かいルールをなんとか破らずに切り抜けた。にもかかわらず、この勇ましい新たな経済ーー病は許しがたい罪だとみなされるダーウィン的弱肉強食の世界ーーは、唾を吐き捨てるように彼を解雇した。彼が犯した罪は、生意気にも風邪を引くということだった。彼はトランスラインの規則にしたがい、始業の1時間前に会社に電話し、マネージャーに風邪を引いたことを知らせた。しかし、そんなことにはなんの意味もなく、彼は派遣会社にクビを言い渡されたのだった。(p56)

アマゾンの倉庫は風邪を引くことが「許しがたい罪」だった。なぜなら罪人を放り出しても、新たな労働者は簡単に手に入るからだ。

 

さらに問題なのは、労働者自身が非人間的な環境に置かれた結果、サービスを受け取る消費者に「加害する」恐れが出てきてしまうことだ。ジェームズさんは倉庫の次に訪問介護の現場に入った。そこでは20分の滞在時間が厳守され、それを守ろうとするあまり高齢者にしわ寄せがいっていた。

(中略)あるとき、眼の不自由な男性の入浴を手伝っていると、予定時間の20分を超えてしまったことがあった。そのようなときには、割り当てられた20分よりも長くとどまるか、ネグレクトの恐れを感じつつ家を出るかの選択を迫られた。ほぼすべての介護士は、高齢者が食事を与えられずに放置されたり、服も着ずに寒い家に取り残されたりしているのを目の当たりにした経験が少なくとも一度はあった。(p140)

経営層が求める生産性は、現場では非人間性に転化される。非人間性はそこかしこに転がっている。

 

アソシエイト、あなたが社長という美辞麗句

ジェームズさんが伝える苛烈な労働の様子に目を向ければ、企業側が発するメッセージがあまりに美辞麗句だと分かる。もちろんちゃんとした理想なのかもしれないけど、メッセージが実態を覆い隠す霧にされていないか、注意が必要だ。

ジェームズさんはアマゾンで言われる「アソシエイト」に噛み付く。「ジェフ・ベゾスもピッカーもアソシエイトです」と高らかに宣言するマネージャーに心中で毒づく。

(中略)仕事のあいだに「アソシエイト」たちの足はむくんで1・5倍に膨らんだ。そして真夜中ごろになると、化膿した足を引きずりながら家までとぼとぼ歩いて帰った。「アソシエイト」はどんなときにも、ジェフ・ベゾスのような人々よりも下等な人間として扱われた。だからこそ、そのような状況を利用して大成功を収める人々は、生身の人間が置かれた現実とは異なる美辞麗句の世界を作り出そうとするのだろう。(p27)

 

ウーバーの「あなたが自身が社長」も同様だ。ウーバーは「ドライバーは従業員ではない。好きな時間、好きな場所で働いてください」という。しかし、実際にはドライバーは乗車リクエストの80パーセントを受け入れなければアカウントを維持できないとしている(p275)。仕事のほぼ全てを受け入れろと言われる「社長」なんて本当に社長だろうか?

言葉に注意が必要だ。美辞麗句のメッキを剥がしても本当に輝きがあるのかを確かめなければいけない。

 

労働者が労働者を服従させる

問題を複雑にしているのは、アマゾンにしろウーバーにしろ、それを利用する消費者にとっては恩恵があるということ。だから労働者の窮状に目が行きにくいし、なんなら消費者自身が、同じ労働者が、労働者を服従させることさえある。

 

ジェームズさんはウーバーのドライバーをする間、客の高圧的な態度に苦しめられた。乗客が誤って乗車場所をアプリに入力したのに、それさえもドライバーの失敗だと責められた。

(中略)ウーバーのドライバーとして働くときの問題は、自分が対等な立場として扱われないことだけではなかった。それは、この種の仕事ではよくあることだった。驚くべきは、人々がドライバーに完全なる服従を求めてくることだった。これまで経験してきた仕事のなかでも、これほどの威圧感を覚えたことはなかった。「乗客はあなた方ドライバーの顧客です」とウーバーは言うことを好んだが、「ウーバーの顧客」と表現したほうが正しいように感じられた。(p281)

なぜかウーバーのドライバーに完全な服従を求めてしまう。ユーザーファーストの姿勢、ユーザビリティの向上が、そこで働く労働者さえ自由自在に操れるという錯覚を生むのだろうか。

 

生理現象を否定され、顧客からは奴隷のように扱われ。アマゾンもウーバーもたくさんの雇用を生み出しているけれど、その雇用は十分な尊厳を備えているだろうか。あるいは、もう仕事というものに尊厳は伴わないんだろうか。なんとかして日銭を稼ぎ、人間性を保つためには別のコミュニティとつながるべきなんだろうか。この答えはジェームズさんにも見えていないし、世界の誰にも見えていない。だから考えなきゃいけない。

 

今回紹介した本は、こちらです。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

  • 作者: ジェームズ・ブラッドワース,濱野大道
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/03/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書を読むと未来に不安がよぎるけれど、基本的に世界は良くなっているし、今後も良くなるはず。その確信を科学的、実証的に深められる本が「ファクトフルネス」でした。バランスを取るにも格好の一冊だと思います。

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最底辺の仕事を他人事だと思うのは早計で、実はそこに転がり込んでしまうリスクは誰にでもどこにでもある。それを物語で感じ取れるのが、畑野智美さんの半自伝的小説「神さまを待っている」です。頼れる人の少なさから貧困に陥った女性を描きます。

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具体的で小さな戦術ー読書感想「『空気』を読んでも従わない」(鴻上尚史さん)

アエラドットの人生相談コーナーの回答を見ていつも唸らされていたのが、作家で演出家の鴻上尚史さんだった。その鴻上さんが「どうして周りの目が気になるの」「人間関係が息苦しいの」という思春期の子どもたちの不安に答える形でまとめた本が「『空気』を読んでも従わない」になる。素敵なのは、具体的で小さな戦術を提案していること。空気という名の「世間」は容易には変えられないけれど、不変でもないんだよ。岩波ジュニア新書だけれど、大人にも響く中身だった。2019年4月19日初版。

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「空気」を読んでも従わない: 生き苦しさからラクになる (岩波ジュニア新書)

「空気」を読んでも従わない: 生き苦しさからラクになる (岩波ジュニア新書)

 

 

世間と社会とスマホ

鴻上さんはズバリ「世間と社会という二つの言葉を理解するとあなたの息苦しさのヒミツがよく分かるようになるのです」と語る。世間と社会、その腑分けも実に鴻上さんらしくわかりやすい。

 「世間」というのは、あなたと、現在または将来、関係のある人達のことです。

 具体的には、学校のクラスメイトや塾で出会う友達、地域のサークルの人や親しい近所の人達が、あなたにとっての「世間」です。

 「世間」の反対語は、「社会」です。

 「社会」というのは、あなたと、現在または将来、なんの関係もない人達のことです。

 例えば、道ですれ違った人とか、電車で隣に座っている人とか、初めていくコンビニのバイトの人、隣町の学校の生徒などです。(p14)

「世間」は現在または将来自分に関係する人で、「社会」はなんの関係もない人。たしかにたったこれだけで世間と社会の差が理解できる。固い言葉で言えば「親密圏」や「紐帯」になることを、鴻上さんは中高生でもきっと分かる言葉に解きほぐす。

 

刺激的だったのが、世間と社会の違いとスマホを絡めて論じた最終盤の章だった。スマホ、特にSNSを使っているとなぜみじめな気持ちになるのか。「承認欲求」の問題を、ここでも平易な言葉に置き換える。既に学んだ世間と社会の概念に引きつける。

 多くの人がスマホでつながることで、ますます孤独を感じるようになっているのです。

 考えてみれば、変な話です。多くの人とつながればつながるほど、楽しくなったり、安心したりするのではなく、孤独や不安になるのです。

 スマホは不幸なことに、「世間」を「見える化」しました。

 自分がどんな「世間」にいるか、どれぐらい「世間」からハジキ飛ばされているか、「世間」は今どうなっているのか、を目に見える形で示すのです。(p180)

スマホは、人間関係が濃く息苦しくなる「世間」をはっきりと見えるようにした。なんとなく嫌だなあという「感じ」を文字や写真、つながりに「見える化」した。だから「世間にどう思われているのか」という自意識も肥大化した。だから鴻上さんは、スマホを世間を強化する方向ではなく「社会」とつながるために使ったほうがいいとアドバイスする。

 ネットはあなたに、あなたにあった小説や映画、演劇を教えてくれます。あなたが、見てよかった、読んでよかったと心底思えるものを教えてくれるのです。

 ネットは、世界の片隅で、必死に生きている人達を教えてくれます。あなたが感動する人間の存在を教えてくれます。あなたが旅すべき街を教えてくれます。

 それは、あなたをあなたの「世間」から自由にし、息苦しさから救ってくれるものなのです。(p185−186)

スマホを通じて、心を震わせる本や映画や人や物語や旅を知れる。それを届けてくれるのは、自分とは何も関係がない「社会」の人なんだ。世間を意識し強化するようには使わないこと。社会への窓とすること。

すごい。なんの難しい言葉も使わず、世間と社会という概念に上乗せすることなく、ここまで到達している。しかも希望を示している。鴻上さんのお悩み相談パワーここに極まれりだと感じた。

 

小さな戦い

世間にとらわれるなとか、社会に飛び出そうとか、鴻上さんは大上段に構えない。むしろ世間ってなかなか逃げられないよね、という共感を出発点にする。それでいて、小さな戦い方があるんだよと道をしめしてくれる。

 

鴻上さんはあるとき、帰国子女の小学五年生の女の子の母親から相談を受けた。アメリカで来ていたオシャレな洋服を学校に着て行ったら、いじめられた。でも父親は「好きな服を着ていけばいい」と言う。女の子は板挟みになった。

鴻上さんはお母さんに対して、女の子に「地味な服で学校に行きなさい」と言うようアドバイスした。ただし、こんな言葉を添えた。

 ただし、娘さんに「今、あなたはいじめっ子ではなく、『日本』と戦っているんだ」と伝えて欲しいと言いました。

 そして、「いじめに負けたから、地味な服を着るのではなく、やがて勝つために地味な服を着るんだ」とも伝えて欲しいと。(p135)

いじめに屈して地味な服を着るのではないと。やがて勝つために地味な服を着るんだと。どういうことか。鴻上さんは続けて「家に戻って友達と遊ぶときは、着たい服を着るのです」と指南した。

 やがて、一緒に遊ぶ友達が「その服、おしゃれでいいね。私もそんな格好してみたい」と思ってくれたり、言ってくれたりしたら、一歩前進です。

 そうやって、クラスで負けて、他の所で勝つのです。

 結果として、クラスが変わるかというと、そうはならない可能性の方が高いでしょう。

 小学1年生のランドセルは毎年変わらないし、就活用の黒のリクルート・スーツもなかなか変わりません。

 でも、そういう小さな戦いが、この国の大きな「世間」をゆさぶり、変えるきっかけになることは間違いないのです。(p136)

クラスで負けてもいい。「世間」を革命できなくてもいいし、そんなことは容易ではない。だけど、それは完敗を意味しない。学校以外の場で好きな服を着ることで、友達に魅力が伝わるかもしれない。そのときの「空気」はもう前のものとは違う。それは小さな戦いの小さな勝利だ。

 

強い世間を鎧にしない

大人が刮目しなきゃいけないと思ったのが、「強い世間を強い自分と誤解しない」ということだ。強い世間を鎧にし始めると、おかしなことになる。

 強い「世間」に所属すると、あなたは強くなります。

 それは、あなたが強いのではなく、あなたを支えてくれる「世間」が強いからです。

 私達人間は弱いので、そういうもので自分を強くします。

 無職より、大企業で勤める方が強くなります。偏差値が低い学校より、高い学校に通う方が自分は強くなったと感じます。

 低いランクの大学に行くより、高いランクの大学に行く方が自分を強く感じます。

 でも、それは、私達自身が強くなったのではなく、大企業や偏差値の高い学校という強い「世間」に支えられているだけです。(p173)

強い世間で武装しても、それは結局世間が強いだけ。自分は何一つ強くなっていない。何より世間がいかに強くても、それは社会に通じるわけではない。むしろ世間の鎧が邪魔をして、社会とつながりにくくなる。

 

世間にこもって社会に繋がれない方が、今の時代はリスクになる。だから鴻上さんは「たったひとつの世間ではなく複数の弱い世間にも所属すること」を説く。世間だけで生きていけない日本にもうなっている。だから子どもたちだけじゃなくて大人である自分たちも、多層的な世間に立って、社会に開かれていなくちゃならないんだと思う。

 

今回紹介した本は、こちらです。

「空気」を読んでも従わない: 生き苦しさからラクになる (岩波ジュニア新書)

「空気」を読んでも従わない: 生き苦しさからラクになる (岩波ジュニア新書)

 

 

世間が不安定化する中で、なんとか安定的な世間を作りたいと言う欲望が、時に差別やヘイトを生むんだろうと思います。そうした分断に落ち込まないようにアイデンティティ論を丁寧に紡いだのがアミン・マアルーフさんの「アイデンティティが人を殺す」です。こちらもわかりやすい言葉で書かれています。

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世間、誰かの評価、「イイね」に囚われるとどうなるか。それを物語にしたのが朝井リョウさんの「死にがいを求めていきているの」です。相対評価から絶対評価に、という平成時代の大転換が、子どもの価値観にどう影響したかが見てとれます。

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辞める時も辞めない時も大事なことー読書感想「決断」(成毛眞さん)

「決断」は会社を辞めるにしても辞めないにしても大事なことを教えてくれる。それは「判断軸」。「キャリアの時間軸を自らハンドリングすること」「仕事以外の『場』を持つこと」「ダメなスキルを溜めないこと」といったキーワードを学び、判断軸を養える本となっている。著者は元マイクロソフト社長成毛眞さん。現代を「産業ごと消える時代」と捉えて、先んじて斜陽産業となっているメディア業界をケーススタディにする。中年期(40〜50代)でキャリアの大きな決断をした「目利き」へのインタビューはざっくばらんで痛快だった。仕事は好きだけれど漠然とした不安を抱える人に参考になると思う。中公新書ラクレ、2019年6月10日初版。

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決断-会社辞めるか辞めないか (中公新書ラクレ 660)

決断-会社辞めるか辞めないか (中公新書ラクレ 660)

 

 

時間軸は自分で決める

決断に必要な判断軸を作るためにもっともコアなのは時間軸だ。成毛さんは終章で「時間軸を自分自身で決めよ」と語る。

 人生というものはどんなに綿密な計画を立てても、決して予定どおりにいかないものである。これまでに世界が歩んだ歴史が証明していることでもあるが、来るべき超高齢社会によって、これまで以上に外部環境が大きく変わるなら、それはなおさらだ。

 この本に登場した目利きの4人に共通していたこと。それは「キャリアの時間軸を自分自身で決めていた」ということに尽きる。40代だから、50代だからどう、ということではない。まして会社がこうだから、業界が今こうなっているから、ということでも決してない。(p229)

時間軸を自分で決めることで、外部環境の激変にも対応できる。この意識はミドルエイジだけでなく自分のようなアラサーにも重要だと思う。外部環境の変化、テクノロジーの進歩は幾何級数的である以上、時間軸を自分自身に引きつけることはどんどん大切さを増す。

 

裏を返すと時間軸を会社や業界に預けないこと。その大事さを端的に表しているのが、最初のインタビュイーになっている瀬尾傑さん。講談社からスマートニュースに移り、調査報道支援という実験的事業に従事している。

瀬尾さんが決断したのは50代前半だった。講談社に55歳まで勤めれば企業年金の受給資格が手に入ったが目もくれなかった。その理由をこう語る。

瀬尾 (中略)それともう一つ、今の仕事が成功したら、定年になったとしてもまた新しく声をかけられるかもしれない、とも考えました。新しいことに挑戦していれば、年をとっても、それなりに仕事はあるだろうって。60代、70代になっても好きなことができるのは、どちらの生き方かなって。

成毛 わかります。先を考えて50歳前後で辞める決断をした人って、信用力が増すと思うんです。何も考えずに60歳を迎えて退社した人と比べると、間違いなくチャレンジ精神は健在だし、逆に仕事仲間としては信用できるんだよね。(p40)

瀬尾さんの頭の中にあったのは、60代や70代でも「好きなこと」をやるために必要なキャリアの積み上げ方だった。そのためには、50歳過ぎでチャレンジしたい。たとえ企業年金や退職金があるとしても、55歳や60歳では時間がもったいない。この「もったいない」という感覚こそ、時間軸を自分で決めるということなんだ。

 

仕事以外に場を持つ

仕事以外で人と出会う場、思考する場、学びを獲得する場を持つこと。それが判断軸を養うためには不可欠なんだということも、「目利き」の言葉に耳を傾けると見えてくる。

 

日経新聞から独立してフリージャーナリストになった大西康之さんの場合は、息子の少年サッカークラブのコーチだった。40歳から続けて15年になる場で、日経にいては決して出会えない人に出会ったと大西さんは振り返る。

成毛 ハイヤーにふんぞり返っていたら見えない世界だね。

大西 ええ、全然知らない世界です。年収が200万円台だったりする若いパパでも、ちゃんと子どもにサッカー教えながら、家賃を払って、生活している。職人さんだと、梅雨の季節に仕事ができないから急にお金がなくなったりするわけで、「今週は2日しか働けなかったんです」なんて話を聞きながら、ああ、会社辞めてもなんとかなるんじゃないかな、って。(p117)

大西さんが言いたいことは「お金がなくても幸せだ」ということとは少し違う。当時、自分が立っていた日経のエグゼクティブな世界から踏み出すことで揺さぶられた。その結果、「別にここに固執しなくてもいいんじゃないか」と肩の力が抜けた。その「ゆるみ」の大きさを語ってくれている。

 

会社に「残る決断」をして週刊東洋経済の編集長になった山田俊浩さんはアマチュアオーケストラを続けてきた。オーケストラの息の合わせ方が、仕事でのコミュニケーションに活かせることを学び取ってきた。

山田 そもそも、オーケストラの雰囲気には、会社組織に通じるものがあると思います。オーケストラは機械ではありません。だから「こちらのボリュームは80%で」「そつらは100%で」といった正確な指示や合わせ方もできなければ、正解も存在しない。結局、その場での雰囲気を見て、調整するしかない。それこそ相撲の間合いと一緒で、感覚で合わせているようなところがあります。ある人がソロを、ということになったら、ほかは音を小さくしたりして。それでソロがとてもうまくいったらみんなでワッと褒めて、もし失敗しても見逃したり、カバーしたり。ある程度、やるべき形が決まっているのですが、そんなかでは存分に自由。まさに会社です。(p194−195)

失敗したら見逃したりカバーする、というのが面白い。失敗したら叱るとならないのが、生の学び。それを言語化できるまで身につけているのは、山田さんがオーケストラに一生懸命な証左だと思う。そして学びは仕事にフィードバックされていく。多層的な判断軸が形成される。

 

ダメなスキルに要注意

判断軸を形成することは裏を返すと、環境依存的な自分になっていないか、警戒を怠らないということでもある。シンプルにいうと、タコツボ的な「ダメなスキル」を溜め込まないようにしたい。

 

大西さんは日経のデスクをしているときに「やばいスキルが資産として溜まってきたな」と危機感を抱いたと振り返る。

大西 さらに「あの局長が相手なら、このタイミングでわざと怒らせた方がいい」とか、「あの人は根回しをしておけば大丈夫」とか。役立たないスキルばかりを覚えていくのですが、そっちで積み重なった資産が、ジャーナリストや記者として積み重ねてきた資産を超えてしまうと、その瞬間、ジャーナリストでも記者でもない、別の人間になってしまう。ああ、やばいスキルが資産として溜まってきたな、これ以上ここにいると、自分が嫌うあちら側の人間になってしまうな、と。ただ、こうした構造は、ある程度大きな組織ならどこでも同じだろうと思います。(p108−109)

上司への根回しという大事でないスキルが、ジャーナリストとしての取材力や好奇心を超えてしまったら。それはもうジャーナリストじゃない、というのが大西さんの結論だった。

大西さんの言う通り、自分が本当にほしくないスキルばかりが積み重なる構造は会社組織の抱える普遍的な「病理」だと思う。時には嘘をつくと言うか、うまく「世渡り」する必要がある。内輪なスキルを追求する必要がある。でもそれに終始すると、「なりたい自分」が死んで「嫌いだった自分」だけになる。ゾンビになってしまう。

 

ダメなスキルを溜め込まないためには「遊び」が必要なんじゃないか。それは日経BP社からまったく異世界である東京工業大学の教授職になった柳瀬博一さんのインタビューから感じた。

柳瀬 まったく。あらゆる仕事は面白いと思えば、大抵は面白いし、つまらないと考えたら、大抵つまらない。たまたま、そのときに居合わせた人や組み合わせで面白いときもあればつまらないときもある。つまらないときはさっさと退散して、映画を見にいったり、誰かと飲みに行けばいい。(p164)

会社は居合わせた人 、組み合わせの妙で面白い時もあればつまらないときもある。その外部環境に過度に振り回されなくていいんじゃない、と柳瀬さんは指摘する。つまらないなら「退散」すればいい。それは逃げることとは違って、一回引いてまた向かっていけばいいということだ。柳瀬さんのこれに続く発言にも目を向けたい。

柳瀬 自分というのは、マーケット全体からすれば、ものすごく小さな存在。だからどの仕事を選んだところで、基本的にはその人一人のサイズからしか始まらないわけです。仕事を選ぶ権利を持つ人は、そのジャンルでの「天才」であることが前提。でもほとんどの人は僕も含めて「凡人」だから「仕事を自由に選べる」というのは、そもそもどこかで勘違いした考えだと僕は思っています。(p165)

わたしたちは小さな存在だ。凡人であって、どんなに気張っても「自分」というサイズからしか仕事は始まらない。判断軸を持つとは、この凡庸さをしっかり受け止めることがスタートな気がしている。凡人であると戒めている人は、会社の根回し力だとか出世スキルに絡め取られることはきっとない。そのとき、小さくとも確固たる判断軸が輝き出すんだ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

決断-会社辞めるか辞めないか (中公新書ラクレ 660)

決断-会社辞めるか辞めないか (中公新書ラクレ 660)

 

 

外部環境に囚われないことと、外部環境を学ばないことは同義ではなくて、むしろ囚われないために学ぶことが大事なんだと思います。成毛さんが言う「産業ごとなくなる時代」を学ぶには、井上智洋さんの「純粋機械化経済」がおすすめです。AIがもたらす産業革命の実態が理解できます。

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成毛さんの著作はどれも読みやすく、それでいて時代の最先端に触れられます。「『STEAM』が最強の武器である」はもう2年前の著作で、いまやその内容は常識として語られていますが、なお古びてない。成毛さんの先見の明が感じられる一冊です。巻末のSF小説リストもありがたい。

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地位財をめぐる軍拡競争ー読書感想「幸せとお金の経済学」(ロバート・H・フランクさん)

「幸せとお金の経済学」は、幸せになるための消費の秘訣を教えてくれる。ワンセンテンスで言うと「地位財より非地位財へお金を使おう」地位財とは「他人との比較で価値が生まれるもの」非地位財「他人が持っているかに関係なく、それ自体に価値があり喜びを得られるもの」。車や家、社会的地位ではなく、愛情や健康、休暇にプラスになる消費をしよう、と。

 

本書が面白いのは、非地位財へお金を使うために、「地位財へついついお金を使ってしまう人間の性質を知ろう」という中身であることだ。ただのアドバイスではなく、人間の認知的弱点を学べるから納得感がある。著者のコーネル大教授でニューヨークタイムズのコラムニスト、ロバート・H・フランクさんの知見が動員されている。地位財への誘惑は凄まじい。そして地位財の誘惑は軍拡競争のように終わりがない。その蟻地獄性を理解すればこそ、非地位財に心を向けていける。金森重樹さん監訳。フォレスト出版、2017年11月3日初版。

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幸せとお金の経済学

幸せとお金の経済学

 

 

地位財へお金を使いがち

改めて、地位財とは何で、非地位財とは何なのか。監訳者の金森さんがまえがきで整理してくれている。

●地位財=他人との比較優位によってはじめて価値の生まれるもの。

(例:所得、社会的地位、車、家など)

●非地位財=他人が何を持っているかどうかとは関係なく、それ自体に価値があり喜びを得ることができるもの。

(例:休暇、愛情、健康、自由、自主性、社会への帰属意識、良質な環境など)(p5)

キーワードは比較。みんなが軽自動車の中、たった一人だけベンツに乗っている状態と、全員がベンツを所持している状態を想像した時、ベンツの「ステータス性」は変わるだろう。もちろん、純粋に車が好きで、ベンツという車種を愛しているという人なら、ベンツも非地位財になりうるけれど。

隣の席の人が休暇10日だろうが5日だろうが、自分が得られる休暇のウキウキ感は変わらないだろう。非地位財は、人がどうこうは関係なく嬉しいものだ。

 

非地位財へお金を使おうという指摘は直感的に理解できた。それをわざわざ言う必要があるのは、「人間は地位財へお金を使いがち」だからだ。地位財への消費は「競争」になりがちだからだ。フランクさんは「ある特定の1人の消費が他の人にコストを強いている」と指摘して、こんな例を挙げる。

 たとえば、ある求職者が面接用のスーツに余分なお金をかけたとします。この場合、他の人たちは同じように余分なお金をかけるか、さもなければ二次面接に進むことをあきらめるしかありません。しかし、すでに述べたように、全員が余分なお金をスーツにかけた場合には、職を得る可能性は誰にとっても変わらないのです。(p35)

地位財の価値は変動する。誰かがスーツにお金をかけたら、相対的に自分のスーツのグレードは下がるのだ。もしも就活なら「地位財に投資しないと負けるかもしれない」という心理が働く。悲しいことに、全員がこの意識で動くと、全員がスーツにコストをかけただけで、相対的な価値は誰も上がらない。

 

要するに見栄かもしれない。だけど、見栄っ張りだねと笑って済ませられないほど、地位財への消費競争の影響は大きい。たとえば、結婚式の費用。

 今日のアメリカで結婚にかかる費用の平均は約3万ドルで、これは1990年のおよそ2倍です。余分にお金をかければ、夫婦や家族がより幸せになれると信じる人がいるのでしょうか?

 多くの消費財ーーたとえばある一定の大きさを超える家などーーに余分にお金をかけることでその分のメリットを享受できるわけではないのに、余分に使ったお金のせいで生活の質を本当に高めてくれるようなものへの支出がないがしろにされてしまうのです。(p34)

結婚式を豪華にしたって幸せになるわけじゃない。でも、周りが地位財を消費すると、同じ消費財でも価値が下がってしまうのだ。その行動の集積が、結婚式費用が2倍になるという甚大な結果を招いている。

 

相対的欠乏

地位財への消費は増えがち。特に、周りが地位財への消費を引き上げると、自分も消費を増やしてしまいがち。この現象を見るときに、「相対的欠乏」という概念が役に立つ。

 

ロバートさんは「あなたの車が1979年型のシボレー・ノヴァだったとき、不都合はあるか」という問いかけをする。そして、「その答えはほぼ間違いなく局所的コンテストによって決まります」と指摘する。もしもあなたがハバナにいれば、この車は高級車として扱われる。一方で、ロサンゼルス近郊の高級住宅街ベル・エアなら、周囲はポルシェが止まっていて、とたんに普通の車に感じられてしまう。高級住宅街で生まれる欠乏感。コンテクストによって生じるこの飢えが、相対的欠乏だ。

 

限られた成功者以外、相対的欠乏から逃れられない。ロバートさんはこんな言い回しで語る。

 つまり、スティーブン・スピルバーグのように、すでに成功者だと誰もが知っている人なら、1979年型シボレー・ノヴァに乗っていてももちろん問題はありません。もう何も証明すべきことは残っていないのだと証明するだけのことです。

 しかし、スティーブン・スピルバーグでない限り、あなたは自分のノヴァを数ブロック離れたところに停めようと考えるでしょう。

 ベル・エアの実力者を目指しているなら、この車を運転しているところを見られたくないと思うのも、心理的な弱さとは言い切れません。(p99)

スピルバーグであれば、シボレー・ノヴァも「オリジナルな感性」と捉えてもらえるかもしれない。地位財を持ちに持った人なら、それは非地位財なんだと認識される。でも、普通の人ならば、たとえ車に満足していても、コンテクストが生む相対的欠乏が、どこか「みじめさ」を掻き立てるはずだ。

 

こんなみじめさを味わいたくないと思うと、あらゆる地位財を「それなりにしたい」と思ってしまう。これが罠だ。

 要するに、相対的欠乏とは、質の評価を決め、需要を動かす相対的なコンテクストのことを指すのであれば、それはもう二義的な概念ではありません。食べ物のような生活必需品を含めたほとんどすべてのものに当てはまります。

 たとえば、結婚記念日のディナーに出かけるカップルの頭に、友人や近所の人に対して優越感を感じたいという考えが浮かぶことはおそらくないでしょう。2人の目的は、ただ記憶に残るような食事を楽しむことだけです。

 しかし、記憶に残るような食事というのは、相対的な概念の典型なのです。他の食事より際立った食事を意味するのですから。(p49)

結婚記念日のディナーは非地位財になりうる。そこで他の誰かより豪華なディナーをとりたいという人はいない。でも、「みっともないと思われたくない」と思う気持ちは心の奥底にあるかもしれない。相対的欠乏は、無意識下に作用しうる。そうやって非地位財を地位財に引きずり込んでしまうかもしれない。

 

勝者総取りの時代の軍拡競争

ロバートさんは、地位財への消費は「軍拡競争」だと言う。本当にその通りだ。相対的欠乏は、地位財への消費を拡大する勢力がいる限り、増すばかりだ。

 実際に目にしているように、家族が直面する問題は軍拡競争と同じです。

 自分の支出額は自分で決められますが、 相手の支出額までは決められません。

 平均より狭い住宅を購入する中流世帯は、子どもたちを平均の学校に通わせなければなりません。平均以下の小型車を購入すれば、交通事故で死亡するリスクも高まります。爆弾や個人消費に費やす金額が少なくなれば、他の急を要する支出に使えますが、他の人たちが費やす金額も少なくなることが前提とならなければいけません。(p213)

 

加えて意識すべきなのは、富の分配がどんどん「勝者総取り」になっていることだ。ロバートさんはこの傾向は終わらないと指摘する。

(中略)さらに長期的に見れば、テクノロジーが所得や富の分配を変つづけ、分配の変化が支出パターンを変え続けるでしょう。勝者総取りの仕組みが終わったという兆候は、まったくありません。

 どんな商品やサービスにも必ず品質の優劣があり、高品質なものには喜んで高い金額を支払う購入者も必ず存在します。これからもテクノロジーの活用によって、トップメイカーは勢力を拡大しつづけ、高所得層は高品質な商品やサービスを手に入れられるでしょう。

 高品質なものをつくる側、それに対して高い対価を支払う高所得層という組み合わせは、今後ますます増えていくばかりでしょう。(p194)

グーグルやフェイスブックを考えればすぐ分かる。圧倒的強者が市場のほとんどを持っていき富をどんどん高めていく。重要なのは、高所得者が地位財へ消費をするほど、軍拡競争は加熱するということだ。中所得者の地位財の価値は相対的に下がる。ここで相対的欠乏に取り込まれたら、高所得者に引き摺られて地位財へ消費を拡大してしまう。

 

ここまでくれば、冒頭の「非地位財へお金を使おう」というメッセージがシンプルでありながら難しく、そして非常に重要であることが分かる。軍拡競争から完全に降りることは難しくても、なるべく避けることはできる。そして、軍拡競争に巻き込まれない方が、間違いなく幸せだ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

幸せとお金の経済学

幸せとお金の経済学

 

 

本書は「幸福学」の一角をなす本だと思います。本質的に幸せにつながるものへ意識を向けようというのは、幸福学の普遍的なメッセージ 。「幸せな選択、不幸な選択」は、認識論の観点からこのメッセージを学べます。

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非地位財を大切にするためには、自分が何に価値を感じ、何に喜び感じるかを考えることが大切になりそうです。「羊飼いの暮らし」はヒントになりそう。自分の人生を「長い長い鎖の小さな輪」と言い切る、ジェイムズさんの言葉に心が磨かれます。

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女性を1日100語しか喋らせない絶望社会ー読書感想「声の物語」(クリスティーナ・ダルチャーさん)

女性だけが特殊な腕輪を装着させられ、1日100語以上を喋ると強烈な電流を浴びせられる。女性の声を奪ったディストピア社会を描くのが、クリスティーナ・ダルチャーさんのSF小説「声の物語」だ。

 

一部の女性が出産のための道具として使われるというSF小説「侍女の物語」の、「21世紀版」という惹句に大きく頷いた。恐ろしいのは、ジェンダーという一つの属性で、一方が一方を支配し抑圧することだけではない。女性を「喋らせない」というあり得ない世界が現在と地続きにあると思えてしまうことだ。政治への無関心、他者へのヘイトが降り積もれば、それは雪崩となってディストピア社会を招く。恐怖の手触りを感じるために、本書を読む価値がある。市田泉さん訳。新ハヤカワ・SF・シリーズ、2019年4月25日初版。

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声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)

声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)

  • 作者: クリスティーナダルチャー,オートモアイ,市田泉
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 新書
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言葉は喜びの源泉

「声の世界」のアメリカでは、「伝統的価値観」が奨励される。キリスト教を捻じ曲げといえるようなくらいの角度で解釈し、男尊女卑を正当化する。その結果、「おしとやかで静謐な女性」になるための補助器具として、言葉を制限するカウンターがつけられる。それだけに留まらない。政府は、女性に下記の宣誓文を読ませることを日課にしようとする。

 わたしは信じます。男は神の姿と栄光を真似て作られ、女は男の栄光のしるしであると。なぜなら男が女から作られたのではなく、女が男から作られたのですから。(p101)

このアメリカは人類が積み上げた全てをぶち壊している。政教分離、民主主義、法の下の平等、科学と神話の峻別。何もかもなくなっている。

 

主人公ジーン・マクラレンは、こんな世界で認知言語学の専門家という皮肉な立場にいる。いや、正確には「元」認知言語学者。なぜならジーンが女性だからだ。女性は喋れない。喋れなければ働けないし、そもそも女性はあらゆる職場から除外され「家」に追いやられている。

そんなジーンの元にある日、大統領の側近が訪れる。女性を制限する政策を推進した張本人サム・マイヤーズ大統領の側近だ。言うに、サムを引き上げてきた兄の国会議員ボビーが事故に巻き込まれて脳に損傷を負い、発話が困難になった。その治療をジーンにお願いしたいという。交換条件として、ジーンと娘ソニアの「腕輪」を外してあげよう。果たしてジーンは・・・というのがあらすじだ。

 

大人が100語我慢することはもちろん苦しい。しかしジーンの絶望は娘のソニアに対してこそ深い。それは、声、言葉はあらゆる喜びの源泉だからだ。

 今、このキッチンにはいられない。娘がココアを飲むのを見守りながら、カウンターの上の白い封筒を、まるで腐った名誉勲章が入っているようにながめることはできない。そこで私は別の場所に行く。娘が運動場にいて、縄跳びしたり、アルファベットゲームをしたり、「ミス・ルーシーは蒸気船を持ってた」を歌ったり、婉曲な罵り語にくすくす笑ったりする姿を思い描こうとする。ソニアが列に並んだり、転校生の男の子のことをささやいたり、ラブレターや恋占いを書いた紙を”パクパク”の形に折ったりするところが浮かんでくる。始業ベルが鳴る前に、何千ものたわいない、それでいて貴重な言葉を話すのが聞こえてくる。(p107)

運動場に駆け出す声、縄跳びにはしゃぐ声。ひそひそ話、くすくす笑い、隠語。声はその全てに結びついている。言葉は全てを支えている。「黙らせる」とは政治的な意味合いのある言葉だ。でも、本当に「声を奪った」とき、失われるのはあらゆる抗議だけじゃない。たわいない言葉こそ、貴重な言葉なんだというジーンの一言には、深く深く同意する。

 

差別には「次」がある

女性の声を奪うことは、女性だけの問題だろうか。男性には関係ないだろうか。むしろ男性は笑いが止まらない社会だろうか。そうじゃない。それは、差別には「次」があるからだ。

 

それに気付かされたのは、ジーンが家によく来る配達人デルの妻シャロンに、ソニアのシッターを依頼しにいくシーンだ。実は、デルはレジスタンスで、シャロンの腕輪にも細工し、自由に喋られるようにしている。だからジーンとシャロンは、女性でもあっても問答ができた。 

 「デルはここで何をしてるの?」

 「機械をいじくってる」

 「何のために?」

 シャロンがじろりとこっちを見る。「何のためだと思う? あたしをよく見て、ジーン、あたしは黒人の女だよ」

 「わかってるけど、それで?」

 「それで、カール牧師と神聖なピュア・ブルーの羊たちはあとどのくらいで思いつくと思う? 神の思し召しで違うものとして作られたのは女と男だけじゃない、黒人と白人もそうだって。うちみたいな黒人と白人の結婚は、神の計画に含まれていると思う? だとしたら、あなたは思ったほど賢くないね」(p187−188)

神の思し召しで男と女が作られたなら、白人と黒人もそうじゃないか?こうして神は都合よく使われる。男女差別を容認する国は、やがて人種差別を容認する。こうして差別は拡大する。このあとの会話も学びが深い。

 わたしは顔が赤くなるのを覚える。「考えたこともなかった」

 「そうだろうね。いや、いじめるつもりはないんだ。でもあなたたち白人女は、あなたたちが心配してるのは、そう、白人女のことばかり。あたしみたいな女は、一日に百語話せるかってこと以上に心配しなくちゃいけないことがある。(中略)」(p188)

白人女性であるジーンは、白人女性のことしか心配してない。あなたたちは、あなたたちのことしか心配してないでしょう?シャロンの問いかけは、自分を超えて他者への想像力を働かせなければ、差別の大波を止めることなどできないと示唆している。

 

シャロンの言葉で、マルティン・ニーメラー氏の有名な言葉を思い出す。

ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった

私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声を上げなかった

私は社会民主主義者ではなかったから

労働組合員を攻撃したとき、私は声を上げなかった

私は労働組合員ではなかったから

そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

「声の物語」の世界に住む男性が「私は女性じゃないから」と事態を傍観していれば、いつのまにかそのうちの黒人男性が差別されていくだろう。次は非キリスト教徒だろうか?そして最後には、自分を助けてくれる人など誰一人いなくなる。

 

善が何もしなければ悪が勝つ

「声の物語」の世界は、どんな風にして成立したんだろうか?その経緯は、物語の進行とともにジーンが少しずつ振り返り、明らかにされていく。その総括的な一言が、物語の後半に登場する。

 でも、わたしの過ちだ。わたしの過ちは、木曜日にモーガンの契約書にサインしたときに始まったわけではない。二十年前、わたしが初めて選挙に行かなかったとき、忙しいからデモに付き合ったり、ポスターを作ったり、議員に電話したりできないとジャッキーに何度も言ったときに始まったのだ。(p249)

ジーンは自らの「過ち」を考えた時、二十年前を思い起こす。選挙の機会に行かなかったこと。政治活動に真剣に取り組んでいたジャッキーのことをまるで相手にしなかったこと。その全てが、ディトピアとしか言えない今につながってるんだと。

 

ジーンの息子スティーヴンがつぶやいたこの一言にも思いを馳せたい。

 「善人が何もしなければ悪が勝つんだ。そういう言葉があるよね」

 スティーヴンはバーク(エドモンド・バーク。十八世紀イギリスの政治思想家)の名言の要点をつかんでいるーー正確な引用ではないけれど。わたしは彼の言いたいことがわかってうなずく。

 ジャッキーならその言葉が気に入るだろう。(p218)

悪=ディストピアを実現する思想は、何もしなければ去っていくわけではない。ジーンはそのつもりで傍観していた。そして、悪は勝った。

「善人」の対比が「悪人」ではなく「悪」であることにも注目したい。問題は男性なのではない。女性を差別する男性以上に、「女性を差別することは可能だ」という発想そのものが「悪」なのだ。だから、小さなヘイトにも敏感でいたい。そういうものに加担する政治的な動きには小さくともノーと言いたい。それが「声の物語」を現実化しないために、今からできることだ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)

声の物語 (新ハヤカワ・SF・シリーズ)

  • 作者: クリスティーナダルチャー,オートモアイ,市田泉
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 新書
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「声の物語」とは反対に、女性だけが圧倒的なパワーを獲得した社会を描いたのがナオミ・オルダーマンさんの「パワー」です。これが痛快でありながら、ユートピアとも言えないのが面白い。権力の本質を学べる本です。

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ノンフィクションでは「説教したがる男たち」はいかがでしょうか。説教という小さな出来事が「レイプカルチャー」につながっていることを見通すフェミニズム論考の傑作だと思います。

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