読書熊録

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黒人という長い長い轍を生きよう―「世界と僕のあいだに」

 生きていくということは、過去を積み上げていくことだ。20歳なら20年。たとえ生まれて1日であっても2日であっても、今日まで生きた日数の上に人生がある。その時間の中の、思い出、楽しみ、苦しみ。まるで足跡のように、過去はたしかに消えないものとしてそこにあって、それは自然と、未来への歩みを方向付ける。本書「世界と僕のあいだに」は、黒人の父が、黒人の息子に、過去を、それも息子が生まれる前から連綿と続いた黒人差別、黒人奴隷の「轍」を伝える、長い長い手紙だ。

世界と僕のあいだに

世界と僕のあいだに

 

  アメリカにおいて黒人はかつて、奴隷だった。人種差別を受け、公民権運動の果てにようやく権利を勝ち取った後もなお、不条理を受けてきた。それは、黒人以外の立場から見れば、過去から未来へ紆余曲折をへて伸びる道かもしれないが、当事者にとっては、無数の苦しみの足跡の集合体だ。それを著者タハナシ・コーツは、こんな言葉で表現している。

 「奴隷制」は漠然とした肉の塊ではない。それは具体性を持った、奴隷にされた女性のことだ。彼女の頭脳はお前自身の頭脳と同じように活発に働くし、感情はお前の感情と同じように豊かだ。(中略)

 この女性にとって、奴隷であることは寓話(パラブル)ではない。地獄に落ちることだ。明けない夜だ。そしてその長い夜が、僕たち黒人の歴史の大半を占める。僕たちがこの国で奴隷にされていた年月が、自由になってからの年月より長いことを絶対に忘れてはいけない。二五〇年の間、黒人は鎖につながれるべく生まれてきたことを忘れてはいけない―どの世代の後にも鎖しか知らない世代が続くだけだったんだよ。(P84)

 

 その足跡を見つめたとき、足跡を作ったその足は、まさに自分の足と同じなんだと気付く。「黒人の肉体」が、いまも簡単におとしめられうること、それが紛れもない現実であることを、コーツ氏は指摘する。「黒人の肉体が破壊されやすい」証左は、毎年のように起こる、白人警官による黒人の射殺事件だ。コーツ氏の友人プリンス氏もまた、こうした事件の被害者となり、命を落とした。

 それに、略奪されるのは、プリンスひとりに留まらない。彼に注がれた際限のない愛を考えてほしい。モンテッソーリ法の授業や音楽のレッスンを考えてほしい。彼をフットボールの試合やバスケットボールの大会、リトルリーグへ連れて行くのに使ったガソリンと、すり減ったタイヤを考えてほしい。お泊まりパーティーをアレンジするのに費やした時間を考えてほしい。(中略)交わしたすべての抱擁を、内輪のジョーク・習慣・挨拶・名前・夢のすべてを、その肉と骨の器に注がれた黒人一家の知識と能力のすべてを考えてほしい。そして、その器が奪われ、コンクリートのうえで砕け、その神聖な中身が、彼に注ぎ込まれたすべてが、流れ出して大地へと還ってゆくことを考えてほしい。(P95)

 

 長い手紙で父から子に伝えたかったことは、歴史と自らの過去が地続きであることにとどまらない。大切なのはそこでどう生きるか。それは「この道の上にたって闘うんだ」というメッセージだ。ここで、タイトルの「世界と僕のあいだに」につながっていく。

 僕を世界と隔てていたのは、僕らが生まれつき備えているものなんかじゃなく、僕らにレッテルを貼り、僕らにできる現実の行動より彼らが貼ったレッテルの方がだいじだと信じ込もうとする連中によって加えられる「現実の危害」なんだってね。(P138)

 まぎれもなく、黒人であるからこそ、強いられた足取りだった。ただそれは、「黒人であるから」当然の道ではない。あくまで人種をもって差別をする「現実の危害」が歩ませたものだ。その違いが、世界と僕の「あいだ」にたしかに存在することを、コーツ氏は見抜いている。

 だからこそ、コーツ氏は闘えと鼓舞する。轍は、それが強いられたものであっても、黒人が塗炭の苦しみをへて、生み出したものだ。一方で「現実の危害」を加える「連中」のためでなくていい、あくまで自分のための闘いなんだと説く。

 サモリ、僕は自分たちが連中を止められるとは思っていない。なぜなら、最終的に連中を止めるのは連中自身でなくちゃならないからだ。ただそれでも、僕はお前に闘争するのを求める。お前の祖先の記憶のために闘うんだ。知恵のために闘うんだ。「メッカ」の温もりのために闘うんだ。だけど「ドリーマー」の連中のためには闘うな。連中のためには、願ってやれ。(P172)

 

 黒人を生きる。長い長い轍を受け入れて、歩こう。息子の背中を押す言葉に、勇気をもらえるはずだ。読み終えたとき、自分は「僕ら」なのか「連中」なのか、そして自分にとっての轍はどこから来たものなのか、考えずにはいられない。