読書熊録

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なぜそこでは自殺が少ないのかー読書感想「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」(森川すいめいさん)

自殺件数が相対的に少ない「自殺希少地域」というものがある。そこではなぜ自殺が少ないのだろうか? 精神科医森川すいめいさんが、実際に現地を旅して感じた学びをアカデミックな知識と結びつけながら綴ってくれた本が「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」だ。

 

意外にも、自殺希少地域の人間関係は緊密ではない。むしろ疎で多。それは、「人生は問題が起こるもんだ」という前提に立ち、様々な問題を抱えた人を「多様性」として包摂するためにある。そして「対話」がある。お互いが「ゆるく」関わりあうことが、生きやすいコミュニティの秘訣のようだ。青土社。初版は2016年7月14日。

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人生は何かあるもんだ

森川さんは実際に、身近な人を自殺で失っている。救えなかった、という実感がある。そういうモヤモヤとした気持ちを持ちながら自殺希少地域を旅していて、気持ちは変遷する。その「揺らぎ」が読者としては学びになる。

 もちろんある程度の仮説はいつも立てた。仮説がなければ何も気付くことができない。しかし多くの場合はからっぽな気持ちで現地のことを感じ、そこで気付いたことやびっくりしたことをノートにメモし続けた。そういうわけで私の考えはコロコロ変わる。ある程度確信が湧くまでコロコロ変わる。そして最初の旅から数年が経ち、私はようやく考えを定めてもよいかもしれないと思うようになった。(p11)

コロコロ変わりながら、こうかもしれないと輪郭が浮かび上がってきた学び。それが本書には詰まっている。

 

森川さんの旅はもともと、自殺が少ない地域風土を研究した岡檀さんの学会発表に基づいている。そこで見出された傾向が、「自殺希少地域の人間関係は疎で多である」というものだった。

 すでに述べたように岡さんの調査によると、旧海部町の近所付き合いは緊密ではなくあいさつ程度立ち話程度の関係で、それでいて人間関係の数は多い。自殺の多い地域では緊密でとても助け合う関係にあるが、仲間どうしの数は少ないという。

 しかし実際に困ったことがあったときに助かるのは、緊密ではない旧海部町である。

 それは、お互いにどれだけたくさんのひとと出会ったかにおそらくは関係する。ひとが多様であることを知っていて、それでいて包摂しているかどうか。(p51)

自殺希少地域では、仲間ではないが助け合う関係にある(=疎)が何人もいる(=多)。人間関係が濃くない/緊密でないのは、いわゆる「希薄」ということではなくて、むしろ多様なあり方を「包摂」しているんだと森川さんは指摘する。

 多様であることを包摂できていたならば、違う意見があってもそれを排除しない。一方で人間関係が緊密で少ないと、違う意見があるとそれが目立ち、意見が異なるとその意見は排除されやすくなる。仲間どうしはみな同じでならなければならなくなる(p51)

仲間であることは圴一であることを求める。自殺であることは孤立と関係が深く、それは前段階で「違う意見」の場合があるだろう。違う意見は仲間の概念と折り合いが悪い。むしろ疎で多な人間関係の方が、違う意見を包摂する。

 

どうして疎で多な人間関係をベースにした助け合いが生まれるのか。別のパートで「人生は何かあるもんだ」(p62)という言葉が出てくる。

 「問題が起こらないように監視するのではなく、問題が起こるもんだと思って起こった問題をいっしょに考えて解決するために組織がある」(p62)

人生は問題が何もないほうが、それはもちろん良いかもしれない。でも「人生は何もない」をベースにした姿勢は、「何か」に対して異物的な眼差しを向けることになる。「何か」が起きないように「監視」するようになる。これは「仲間」が「違う意見」を排除するように動くことと相似形に見える。

 

人生は何かあるもんだ、と思う。最初からそう思う。「何か」が起こる余白を空けておき、そこに「何か」が起これば対処する。助け合う。「疎で多」な人間関係は、人生で不可避な「何か」のためにバッファを設けたあり方と言えそうだ。

 

球を打ち返し続ける「対話」

旅をしている中で、森川さんは親知らずを抜いた痕が痛くなるトラブルに見舞われた。あまりに痛くて、「旅館のおやじさん」に事情を話した。この時のやりとりが面白い。

 おやじさんは最初、痛み止めの話などをした。その場で解決できそうな提案をいくつかしてくれたが、私はだいたいのことを既に実行していたから、おやじさんの提案は何も役立たなかった。

 おやじさんは少し困った顔をしたので、私は大丈夫だと伝えて部屋に戻った。予定より早く帰るしかないかと思いながら一時間くらい耐えた後で、電車の予定を見ようと部屋から出た。そこにおやじさんがいた。

 「いつもは隣町に歯医者がいるんやけど、今日はやってないみたいや。この町の歯医者は今日休みやけど、さっきいるの見たから起こしてきちゃろう」(p43-44)

森川さんは、それは申し訳ないこと断る。するとおやじさんはさらに「ここから八十二キロ先にある歯医者が今日はやっているのがわかったから、送るわ」(p44)と提案してくれた。休みの歯医者を起こすのは申し訳ないと言ったのに、はるか遠くの歯医者まで送ってくれるとおやじさんは言う。

 

これが「対話」だ。そう森川さんは説明する。

 今振り返ると、おやじさんは私と対話をしてくれていた。この対話力は自殺希少地域の特徴だとあとでわかることになる。私の困りごとを聞き、私のニーズを私の存在を見ながら感じてくれて、その感じたことを私にまた話してくれて、決して私を説得しようとはしなかった。それはとても心地のよい時間だった。(p44)

おやじさんは、森川さんから歯が痛いと聞いて、まずは痛み止めを提案した。それでダメなら、隣町や近所の歯医者を調べる。それでダメなら、遠方の歯医者を調べて連れていくと言う。そのどれもが「提案」であって、はじめから「やるよ」と持ちかける。でも、森川さんが断れば深追いしない。

 

まるでテニスのように、助けるための球を打ち返し続ける。ぶつけるのではない。あくまでラリーになるように、相手のニーズにはまる位置へ打ち込んで、かつ返しやすい速度に球を調整する。「私のニーズを私の存在を見ながら感じてくれて」というのはきっとポイントだ。人として向き合いつつ、フォーカスするのはあくまでニーズに。疎で多な人間関係で助けるけども、仲間とまでは言わないというのと、シンクロする。

 

ネットで再現できるんじゃないか?

森川さんの問題意識は、こうした自殺希少地域にある人間関係のあり方が、失われているのではないかという所にある。だからこそ、疎で多なネットワークや対話の所作は学ぶべき価値がある。

 

一方で、もしかしたらこうしたあり方は、インターネットと技術を持って再現できるんじゃないかとも思う。たとえば、送迎アプリの「クルー」が思いつく。

crewcrew.jp

車に乗せて目的地まで送ってもらう「ヒッチハイク」や「相乗り」を、アプリを使って再構築している。乗せてくれる人は「仲間」じゃない。でもアプリを触媒にした出会いはまったくの他人じゃない。それはまさに「疎で多」な誰かの一人であり、新しい意味での「ご近所さん」とも言えなくもない。

 

クルーは移動のニーズを満たすべく誕生したサービス。もしも同じように、様々なニーズに対応した「手助け」のハードルがアプリを通じて下がるのならば。それによって困りごとを解決し、人の手を握れるのならば。それはアルゴリズムを通じた「対話」の形に見えなくもない。

 

自殺希少地域が長い歴史で培ってきた、人を生かすコミュニティは、そのまま都市に移植できはしないだろう。かといって、日本中を農村に戻すことも夢物語でしかない。残された道は再構築だとして、そこにテクノロジーを駆使する余地はきっとあるんじゃないだろうか。

 

今回紹介した本は、こちらです。

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

 

 

つながりが増したはずの社会で、助けを求められないということがどれほど苦しいことか。畑野智美さんの小説「神さまを待っている」は、まさに緊密な人間関係からこぼれ落ちた若い女性が、簡単に貧困へ陥ることが描かれています。

www.dokushok.com

 

人と対話することも豊かであれば、自己との対話もまた必要なプロセス。菅野仁さんの「愛の本」は読みやすく、本質的な自己理解の方法を説いてくれます。

www.dokushok.com