読書熊録

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大動脈ー読書感想「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」(S・ヴェンカテッシュ)

 「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」のタイトル通り、コロンビア大学の社会学教授スディール・ヴェンカテッシュ氏が、大都市ニューヨークの「裏側」に飛び込んだノンフィクションである。ヴェンカテッシュ氏はシカゴでも同様に、10年間にわたり麻薬の売人たちの輪の中に入って著作を発表した筋金入り。見えてきたのは、ドラッグも、売春も、「表」のグローバル経済にあまねく絡みついているということ。そう、それは人間における大動脈と同じだ。見えない「裏側」にあるけれど、それなしでは「表側」は成り立たない。そんな現実を、驚きとともに教えてくれる良作だった。東洋経済新報社。

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社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

 

 

FLOATING CITY

 原題は「FLOATING CITY」。フローティング、「たゆたう(漂う)」というのは、ヴェンカテッシュ氏がストリートで感じさせられた重要な概念だ。それは、アングラ経済と表の経済を超えていく、漂う人々のことである。そしてアングラ経済では誰一人確かな足場をもてない、たゆたうことしか叶わないという不安定な現実を示す。

 

 象徴的な場面として、冒頭でセレブらのパーティーが描かれる。立ち並ぶ数多くの芸術作品。そのパーティーに、ハーレムナンバーワンの「シャブ(薬物)」の売人である黒人の男「シャイン」がなぜか姿を現し、さらにはヴェンカテッシュ氏と顔なじみの資産家女性アナリーズと会話を始めるのだった。

 「この絵最悪。そう思わない?」とアナリーズ。ぼくに背を向け、シャインの方を向いている。

 「こいつ、内側から撮るべきだったな」とシャイン。 

 アナリーズはびっくりしたみたいだ。「なんで?」

 「タイトル見ろよ。『ウチから見えるもの』だってさ」

 アナリーズはクスクス笑った。「それでもやっぱり最悪」

 「いい写真だなんて言ってないだろ」(p13)

 薬物の売人が資産家女性と同じ目線で会話をする。これがフローティング・シティだ。さらに、この後アナリーズの衝撃的な「裏面」も発覚し、ヴェンカテッシュ氏はまざまざとアングラ経済とニューヨークの「表裏一体」ぶりを突きつけられる。

 

 これは何も特別じゃない。それが本書の問題意識だ。著者の語り。

(中略)社会は、政治家が演説でのたまうことや、金融業界の連中がいけしゃあしゃあと口にするのとは、ぜんぜん違っているのだ。移民の人が、高級マンションを買ったヤッピーの家で違法に子守りをしているとしたら、あるいはろくに稼げない黒人の人がヤクの売人になってヘッジファンドの白人トレーダー相手に商売をしているとしたら、膨れ上がったグローバルな都市全体が実はアングラ経済の見えない糸のおかげで形を保っているのだと言えないか?(p66)

 アングラ経済の見えない糸は、きっと日本にも、東京にも張り巡らされている。たとえば風俗店。たとえば高級クラブ。たとえば大麻、違法薬物。ングラ経済は小さく弱い「日陰」というよりも、表経済と一体の「裏側」なのだろう。

 

秩序は自分たちで

 シャインの手を借りながらアングラ経済、いわゆる「裏ビデオ」の販売店や、そこを拠点にした売春ネットワークなどに分け入った著者は、そこに特有の原理を見る。それは、秩序は自分たちでつくる、ということだ。

 なぜならアングラ経済に「絶対権力」はない。警察も、政府も意味をなさないからこそ、地下なのだ。だから売人たちで争いが起これば、誰かが仲裁する。ニューヨークでも、そんな様子を目の当たりにする。

 モーティマーの飲み屋で、バーテンダーが、ちょっとした賭け事での諍いや、風俗嬢とお客のケンカの仲裁をするのを、ぼく(ヴェンカテッシュ氏)はいったい何度目にしたんだろう。マンジュンの界隈だと、たぶん警官はほかに内職をやれるだろう。いろんなアングラの商売人やそのお客が、自分たちであれこれ交渉するのを手伝うだけで立派な副業になる。(p273)

 アングラ経済の仲裁を「副業」にしてしまう警察官もいるのだ。

 

 売春斡旋のベテラン・モーティマーが体調を崩した時、立ち現れたのも「秩序」だ。モーティマーは白人。そんな彼を助けにきたのは、ヒスパニックや黒人の売春婦だ。そして彼女たちが相手にするのは、ホワイトカラーの会社員もいるし、アイルランド系の警察官だっている。人種や階級を超えたつながり。ここでもまた、フローティング・シティ、たゆたゆ人々が表出してくる。

 

必要なのは文化資本

 面白かったのは、アングラ経済と、表経済の中でもアナリーズがいるような「ハイ・ソサエティー」、いわゆる「金持ち」の境界へ踏み込んでいくのに必要なのは「文化」だということだ。金よりも、コネよりも、機会よりも、である。

 どういうことか。たとえば、ヒスパニックの女の子がブルーカラーの男を客にとる時、ただ気持ち良くできればそれで問題ないかもしれない。しかし、白人の「金持ち」は、ただの売春じゃ満足しない。仕事に加えて、政治やオペラの話をしないといけない。行為の前に連れてかれたディナーで、適切なマナーと味の理解が必要かもしれない。

 これは社会学的に言うと、「文化資本」というらしい。なんと、アングラ経済とは全然関係ない、フランスの社会学者が階級社会を説明するために掲げた概念が、ぴったり当てはまると言うから驚きだ。冒頭のシャインも、文化資本を蓄積したからこそ、セレブのパーティーに違和感なく入っていけたのだ。

 

 同様に、「創造的破壊」、資本主義経済において、経済発展の新たな方法が登場すれば、古い手法は駆逐される新陳代謝の概念も、ストリートで現実になるから面白い。ある日、シャインが縄張りにしていたコカイン売買の拠点が、別の売人にまるごと「買収」された。

 (中略)コカイン市場にほんのちょっと変化が起きただけで、磐石だったはずのシャインの生活は、全部溶けて宙に消えてしまう。マルクスなら熱狂するし、ミルトン・フリードマンだって大喜びだ。資本主義の創造的破壊ー変われ、さもなきゃ死ねーは、この才覚があって覚悟の決まった男を、知ってるマネージャーもいない飲み屋に行かせ、見ず知らずの警備員でいっぱいのホテルに乗り込ませ、信用できない白人のお客に立ち向かわせた。そして「死ね」っていうのは喩えじゃないのである。(p337)

 こちらの「創造的破壊」は、文字通りのたれ死んだり、警官に射殺される可能性もある。命のやり取りまでスケールアップしているのはさておき、表の経済・社会を説明する「文化資本」も「創造的破壊」も、そっくりアングラ経済で再現されている。やはり表裏は一体なんだな。アングラ経済を動かしているのも、同じ血が通った人間なんだよな、と実感させられた。面白い。

 

 今回紹介した本はこちらです。

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた

 

 

 アングラ経済へのユニークな視座を本書がくれたように、未知への向き合い方を教えてくれるSF作品が「星を継ぐもの」です。物語の面白さに加えて、頭の体操におすすめです。

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 アメリカ社会の思いもよらない側面を見せてくれたといえば、「ヒルビリー・エレジー」を思い出します。まだまだ世界を動かすであろうトランプ政権の理解にも役立つ一冊です。

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