読書熊録

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声に耳をー読書感想「Black Box」(伊藤詩織)

 この国はまだ、性被害者の「苦しい」「つらい」という声を聞ける社会ではないのかもしれない。ジャーナリスト伊藤詩織さんが自身の体験をレポートした「Black Box ブラックボックス」を読んで抱いた思いだ。加害を訴えた男性が不起訴処分となり、検察審査会の議決でも覆らなかった後に出版された本書は、それ自体が議論を呼ぶかも知れない。しかし、彼女が苦しんだことはそれ自体、確かなことだ。そしてそこから読者が気付かされることも、確かにあるのだ。文藝春秋。

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 振り絞った勇気を、掬い上げて

 タイトルの「ブラックボックス」は、真実が見えない黒い箱を示し、著者の伊藤さんはレイプ加害、そして性犯罪を裁く警察・司法制度も、まさにブラックボックスであると問題提起している。性犯罪は密室での出来事になりやすい。目撃者や防犯カメラの記録が残る殺人・傷害事件や交通事故とは、客観性の立証に大きな壁があるということだ。

 そして、伊藤さんの体験に耳を傾けると、そもそも「被害を訴えること」そのものに壁があることが分かる。目撃者がいれば、その人が被害を通報してくれる。カメラ映像などの客観的記録も、被害を証明してくれる。しかし性犯罪は、「被害者本人」が声を上げなければ、発覚しない恐れすらある。

 

 被害直後に求められる勇気。しかしそれを掬い上げられていない現状がある

 

 たとえば伊藤さんは、モーニングアフターピルを求めた病院で、担当医師からこんな一声をぶつけられたという。

 「いつ失敗されちゃったの?」

 そう淡々と言い放ち、パソコンの画面から顔も上げずに処方箋を打ち込む姿は、取り付く島もなかった。私の精神状態もあったのかもしれない。しかし、もしもあの時、目を合わせて、

 「どうしましたか?」

 と一言聞いてもらえたら、その後の展開はまったく違っていたのではないか。そう思ってしまうのは、私の甘えだろうか。(p62)

 レイプされたという苦しみを感じている心に、「いつ失敗されちゃったの?」という言葉はつらい。病院以外の、性暴力被害を支援するNPOへの電話の問い合わせでも、「面接に来てもらえなければ情報提供できない」と対応されたという。

 犯罪被害に遭ったとき、必要なのは、「あなたは苦しんだね」という声だろう。その声を受け取るのに、被害申告する勇気が「条件」になっていいはずがない。せめて、被害者が勇気を振り絞ってくれたのなら、掬い上げられる世の中でなくては寂しい。

 

擬死状態

 伊藤さんは本書で自身の体験に加えて、レイプ被害者への対応で先進的なスウェーデンのストックホルム南総合病院「レイプ緊急センター」の取材結果も伝えている。センターでは24時間態勢でレイプ被害者を受け入れ、客観的証拠の確保に必要な検査キットや、カウンセリングの態勢も整っている。このセンターでは女性に限らず、男性の性被害者も搬送されてくるという。

 このレポートで新たに知った言葉が「擬死状態(tonic immobility)」だ。センターの調査では、被害者の70%が、被害の最中に体を動かせない、拒否の意思を示せないなどの、いわば「死んだふり」の状態に陥るという。

 

 擬死状態を踏まえると、性被害の告発がさらに難しいと思い至る。性犯罪の要件では「合意の上かどうか」が争点になるのに、被害者の多くは「見かけ上、合意とも取れてしまう擬死状態」になってしまうからだ。

 

 伊藤さんのこんな言葉がリンクする。被害直後、それを「なかったこと」にしようとしたときの、自問自答だ。

  考えてみれば、起こったことを無視して忘れるなど、できるはずがないのだ。飲み込んでしまおうとした魂は消え去るどころか、次第に大きく膨れあがって私を苦しめた。(中略)

 たとえ志した業界で働けなくなっても構わない。信念をもって生きていかないのなら、どんな仕事をしたって、私は私でなくなってしまう。(p70)

 「なかったことにすれば、私は私でなくなってしまう」。擬死状態をもって、「合意の上」としたとき、その人の大切なものを奪ってしまう。伊藤さんは、憧れたジャーナリストの仕事を失うリスクをとってでも、自身の被害に向き合おうと決めた。そんな選択を迫ってしまうこと自体に、読んでいて大きな胸の痛みを覚えた。

 

苦しみはそこにある

 本書は、刑事事件として、伊藤さんの被害が認められないという結果がほぼ確定した後に出版された。これについて賛否があるだろうとは思う。

 

 もちろん、刑事罰に問われていない人に私刑を浴びせかけてはならない。だから本書の感想を書く上でも「何があったか」に触れるのはとてもセンシティブだと感じた。これだけ本件がニュースになっている以上あまり意味のないことかもしれないが、加害を訴えられた男性についてもなるべく取り上げるべきではないかもしれないと思った。

 

 ただ、「刑事罰に問えない」ことは、伊藤さんの「苦しみ」を否定することにはならないと思う。伊藤さんが、その日から今まで、そして今も、苦しんでいることは確かなのだ。苦しみはそこにある。刑事司法で認められるかは「別として」、ある。

 

 「苦しみはある」と言えることが、性被害の訴えにまだまだ鈍い現状を変える第一歩になると信じている。そうした変革の後押しとして、本書の意味は大きいと感じた。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

books.bunshun.jp

 

 本書の中でも取り上げられているのが、アメリカのレイプ被害をジャーナリストのジョン・クラカワー氏が丹念に取材した「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」です。あまりの共通点に驚くばかり。問題理解に役立ちます。

www.dokushok.com

 

 被害への否定という「二重の被害」は常に見えにくい問題ですが、優しい言葉で可視化してくださっているのが「裸足で逃げる 沖縄の夜の少女たち」です。苦しみは誰より、その人のものだと伝わる一冊。

www.dokushok.com