読書熊録

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現役記者の緊迫犯罪小説ー読書感想「スリーパー 浸透工作員」(竹内明)

 思わず一気読みしてしまった。それほど引き込まれる北朝鮮クライムノベル「スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課ーソトニー」の書き手は、TBSの現役記者・竹内明さんだ。おそらく取材現場で垣間見たであろう、公安捜査の内幕がふんだんに取り込まれている。それでいて、決して「自慢話」じゃなくて、骨太な小説作品となっているのがすごい。講談社。

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スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課 ソトニ

スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課 ソトニ

 

 

公安取材のプロ

 竹内さんはTBSで社会部、NY特派員、政治部を歴任。その存在を知るきっかけになったのは、現代ビジネスオンラインの連載「ある公安警察官の遺言」だった。(まだリンクあります。下記)

gendai.ismedia.jp

 死を前にした実際の公安警察官の壮絶な捜査人生を聞き取り、書ききった連載は唸らざるをえないものだった。三菱重工爆破事件、オウム真理教…。日本を激震させた、まだテロリズムという言葉のない時代の「治安犯罪」をいかに取り締まったのか。その攻防や、警察組織の力学まで踏み込んでレポートする内容だった。

 

 10月からは「私が出会った北朝鮮工作員たち」の連載も始まった。公安捜査における広範で深い取材力と文句なしの文章力に、竹内さんは「公安取材のプロ」なんだと全幅の信頼を置いた結果、手に取ったのが本作「スリーパー」だ。

肉々しい描写

 そしてその期待は裏切られなかった。舞台は現代日本。なんらかの理由で戸籍を残したまま失踪した日本人になりすます「背乗り(ハイノリ)」をした北朝鮮の「浸透工作員」をテーマに扱っている。

 物語は、日本に「浸透(チムツ)」した北朝鮮の若い兵士・李東植(イ・ドンシク)と、とある理由からバングラディシュに左遷されている公安捜査員・筒見慶太郎の2人主人公に据えて進む。

 

 「浸透」、あるいは「潜伏工作員(スリーパー)」とは、北朝鮮にとっての有事まで日本社会に溶け込み、「休眠」状態にある工作員のことだ。李もまたある日本人に背乗りしており、一見して善良な市民にしか見えない。しかし、それはあくまでフリでしかない。この地下活動の描写が鮮明で面白い。たとえば、李はある日、スリーパーの「拠点」に足を運ぶ。

 マンションに戻る一本道に差し掛かったところで、●●(李の日本名)は右側の電柱に目をやった。腰ほどの高さに黒いビニールテープが「井」の形に貼ってあった。

 接線(ジョブソン)の暗号だった。

 ●●は小さく舌打ちした。もう少し楓と話がしたかったのに。

 「ごめん、俺、コンビニで買い物するのを忘れてた」●●は立ち止まった。

(中略)

 歌舞伎町ゴジラロードはアジア最大の繁華街の目抜き通りだ。左手の「和光ビル」のエレベーターに乗り、最上階の八階まで昇った。そこからさらに屋上へ続く階段を昇ると、香の匂いが漂っている。安全を知らせる匂いだった。

 ●●は屋上に出る扉に出る扉の前に立つと、黒いパネルに顔を近づけて、目を大きく見開いた。瞳の虹彩を認証すると、重い金属音とともに解錠された。(p23)

 工作員同士が直接会う「接線(ジョブソン)」の暗号。歌舞伎町に紛れた北朝鮮のアジト。安全であることを知らせる香の匂い。ディテールがさりげなく、でもふんだんに盛り込まれている。

 

 セリフのリアリティも注目だ。たとえば、李の工作活動のアウトプットに満足できない上司「師範」が、李を叱る時の言葉。

 「あんたら市場(ジャンマダン)世代は党や主体(チュチェ)思想への忠誠心が欠落している。米帝の狂人大統領が我が国への挑発を繰り返す中で、元帥様が重大なご決断を下す可能性がある。常に敵に鉄槌を下す心の準備をしていなさい」(p80)

 もちろん実際のところは知らないけれど、北朝鮮の思想が背骨になっていることが感じられるセリフだ。こうした一つ一つが、生々しいというか、肉々しいくらいに五感に訴えかけてくる。

ブラインド・ポーカー

 物語の根幹は「諜報戦」、つまりスパイ同士の水面下の探り合いと潰し合いだ。最初から最後までハラハラしっぱなしだった。何がそんなに興奮するかと言えば、スパイは基本的に「自分を含めた全員が、誰がスパイか分からない」からだと思う。

 

 どういうことか。李は自分のことをスリーパーだと認識しているが、もしかしたら、北朝鮮は何らかの情報に基づき李を「日本に寝返った裏切り者」だと考えるかもしれない。そうなると、李が「スパイだと自認だとしても、スパイではない(=裏切り者扱い)」状況というのも存在する。だから、自分を含めた全員が、誰がスパイか分からないのが諜報戦だ。

 当然ながら、仲間だと思っていた工作員の同僚や上司が、実際には日本と内通しているアンダーカバーの可能性もある。「浸透」している暮らしの中で出会う日本人が、実際は公安警察の協力者だというリスクもある。

 

 相手の手札が見えない意味で、諜報戦はポーカーに例えられるかもしれない。でもどうやら実際は、自分の手札さえもブラインドされた、超難易度の高いポーカーだ。そしてポーカーならディーラーがゲームを支配しているが、諜報戦における「神」は存在せず、置かれた状況だけが運命を左右する。

 

 竹内さんはそんな複雑性を見事に物語に落とし込んでいる。たとえば…とエッセンスを紹介することは、ネタバレになるといけないので避けたい。全員がブラインド状態で、それでもゲームに臨むスリリングさを、ぜひ本書を読んで味わってほしい。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課 ソトニ

スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課 ソトニ

 

  

 実際にはあっても、表立っては見えないのが裏社会。そこに分け入って、内実を引っ張り出すのはノンフィクションの仕事でもあります。NYのアングラ経済でそれを実践したのが「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」で、おすすめです。

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 水面下で進行する犯罪と、その駆け引きという意味で、早瀬耕さんの「未必のマクベス」とリンクしました。こちらは香港が舞台。恋愛犯罪小説という新感覚の読書体験が楽しめると思います。 

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